第十四話

 ラビリンスク市立図書博物館は中央街、市庁舎と併設して建てられており、街で二番目に歴史ある建造物だった。オアシスの道を交易路としていた商隊がこの地に迷い込んだ際ここを拠点とし、膨大な帳簿や契約書等を保管するために木と石で組んだ掘っ立て小屋がその起源だとされている。やがて彼らが方方ほうぼうで集めた知識や価値ある物品等も保管されるようになり、時代を経るにつれ増築と改築を繰り返し、現在のような大理石製の立派な建物になった。最初期の掘っ立て小屋は実物大レプリカが造られ、図書博物館のエントランスに無料展示されている。古代から現代に至る一帯の地域の歴史を網羅し、国際的にも重要なこの図書博物館に訪れる者は数え切れない。

 エリューシュカはそんな図書博物館の常連らしく、受付の男性に軽い挨拶をされていた。流行好きで勉強嫌いなエリューシュカが図書博物館に入り浸る姿は想像できなかったが、これはこれで彼女にとって大いに勉強となるだろう。ともするとここで知識を吸収しているから彼女は殊更咎められる程成績が悪くないのかも知れない。

 私たちはアトリウムを抜け学習スペースへと向かった。ミドルスクールの参考書や問題集が並ぶ棚には論理学や物理学など専門教科の教科書も置いている。彼女は学習院で生物学を中心に教科を選択しており、やはり向かうのは生物学関連の図書が蔵書されている一角だった。とりわけ気になっているらしいのは昆虫図鑑だった。私はニューシャを通じてエリューシュカと知り合いだが、付き合いはブルガーコフやスラーヴァ程では無かった。何故生物学への興味が湧いたのか、何故自分で選んだ学校へ行きたがらないのか、細々した事情についてはよく知らなかった。

「君は人間が嫌いか」

 だから、この質問が口から漏れてしまったのは必然なのだろう。昆虫図鑑の背表紙を眺めながら吟味している彼女は一瞬驚いたようにこちらを見たものの、すぐ図鑑の列に視線を戻して眉をひそめつつ答えた。

「そりゃね、大嫌い」

「どうして?」

「人を変な目で見るから」

「だが昆虫ほど色眼鏡では見ない」

 ちょっとした洒落で応えると「少し面白かった」彼女は渋い表情をしながらも口に孤を描いてくれた。

 気に入った図鑑を探す合間、彼女の口から訥々と語られたのは学校での事だった。小学校で成績が良いからというだけで学習院入学へと舵を切った彼女は、その決して流麗とは言えない仕草や言動によって爪弾きに遭ったらしい。そんななか講義をサボタージュして庭園のベンチで暇を潰していると、花壇の花に釣られてやって来たのかひとひらの蝶々が彼女の膝頭に留まったのだと言う。余りにも優雅でたおやかに羽を開けたり閉じたりするその水晶のような姿に魅入られた彼女が後に図鑑で調べてみた所、それはこの地方には舞い降りる筈の無い品種、オーロラモルフォ属と呼ばれるもので中南米を中心に分布している事がわかった。暫く憑かれたように眺めていると、蝶はまたふらりと舞い上がって風の向く方角に確かな意志があるように飛んで行った。彼女はそこで初めてラビリンスク以外の街への憧れを抱いたようだ。雌雄の判別はさて置きあの蝶は旅人だった。だから世界中を旅している最中に、ふと見つけた木偶の坊を止まり木とするには丁度良いと感じたのだろう。

 エリューシュカの言葉を聞いて、やはりこの娘にはこの街に留まっていて欲しくは無いと感じた。できるのなら彼女の留学や移住も手伝ってやりたい、と。この街は薔薇色に見えるが、薔薇色と感じない彼女の目にはやはり、煉瓦や石のくすんだ赤茶セピアに見えてしまうのだろう。流離人が集いやすいこの街で人々は皆多かれ少なかれ後ろめたい過去を持っている。ラビリンスク都市評議会の面々が何を目的に街への入出を制限しているかはわからないが、ここで生まれ出た者にも適用される制限は良いとも言い難かった。この街は城塞都市だが、見上げれば天井が無い事は誰しもわかっている。ともするとエリューシュカは、迷い蝶によって再び天井が取り払われている事に気付いた者のひとりかもしれないのだ。

「あ、これ」

 そこで彼女はようやく一冊の大判本を手に取った。『Fine Lines』と大きく印字された文字に点を打ったような蝶の片羽が表紙を大きく象っており、どうやらその種のスケッチ集のようだった。作者名を見てみたが顔が思い出せない。ただ、時代を象徴する亡命作家だった事は記憶していた。革命から逃れて亡命先の大学で教鞭を執りながら小説ばかり書いていた気がする。

「それが目当ての本か」

「ううん。でもこの人好きだから。あとそうだなあ、他に蝶の図鑑と問題集も探したいんだけど」

「図鑑はこの棚の裏側にもあるようだ」

 私は本棚の隙間から見える向こうに目を凝らしてその事を告げた。彼女は直ぐ様本棚の向こうへ歩を進ませたが、折り返す地点で急に足を止めると早歩きで戻って来た。どうしたと訊ねると、凄いもの見ちゃった、と興奮した様子を隠しもせずに耳打ちして来た。気配を消すよう忍び足で本棚の折り返し地点まで行くと、そこでふと立ち止まるよう手で遮られ、顔だけ出して覗き見るよう促された。言われるがままその通りにして覗き見ると、本棚を見上げる人の姿があった。「フェリクスじゃないか」思わず上げた私の声が耳に入ったのかこちらを振り向き「おお、こんな所で会うなんてな」と、伸びきった髭の奥に白い歯をちらつかせつついつもの調子で笑って見せた。私たちの親しげな様子に怪訝な表情を見せるエリューシュカにヴィズドムィと出会った経緯を説明すると、にわかに目を輝かせた。教科書の中でしか見た事無かったから、と彼女が言うと、おいおいおれあ珍獣か何かかい、と呆れた声色で応えた。

 そんなやり取りの中、フェリクスはどうしてここにと私が訊ねると、彼は「少し調べ物があったんだ」と即答した。

「昆虫の棚に?」彼の答えにエリューシュカが訊ねた。

「ああ。この間いつも通り人探ししてたらよ、頭の上をでかい蝶が飛び去って行ったんだ。そいつが妙に気になって……」

「それ、どんな蝶だった?」

 エリューシュカの問いにヴィズドムィが顎に手を当てて唸った。彼によると、その蝶は翅が大きく地味な茶色で、それでも羽ばたきざま陽の光に反射して見事な青い煌めきを見せたのだと言う。

「あたしが見たのと同じかも」

 エリューシュカが不意に呟き、近くにあった図鑑に目星を付け引っ張り出した。

「その本、少しおれに貸してくれないか」

「え、うん。いいけど」

 彼女が図鑑をヴィズドムィに差し出すと、彼は本を開いて頁を捲り始めた。そうしてしばし待っていると、彼は開いた頁の一点を食い入るように見つめ始めた。そして、それを指差しながらこちらに本を向けて来た。金属光沢を持つ青い翅と、裏側は地味な茶色で眼状紋が規則正しく並んでいた。キプリスモルフォと言うらしい。

「やっぱり、あたしが見たのと同じ」

「原産は中南米なのにこんな遠い場所まで飛んでくるなんて大したもんだ」

 それから、同じに日に同じ珍しい迷蝶を見掛け、あまつさえここで奇跡的な巡り合わせを果たした事に二人は程無く意気投合したようだった。お互いここでの名を告げ、簡単に挨拶をする。

「ホームレスおじさんも蝶好き?」

「いやあおれは別に。へへっ、お嬢ちゃんは?」

「あたしはめっちゃ好き。綺麗だし可愛いし。見てこれ、イヤリングも蝶のモチーフなんだ」

「おや本当だ。しかし何だセルゲイ、こんな可愛い娘がいたなら紹介してくれても良かったろうに」

 その言葉でエリューシュカが目を丸くし失笑した。しかしここが図書館だという事に気付くと、手で口を抑えて笑いを堪えながら言った。

「あたしとおじさんは親子じゃないよ。あたしはこの人の行き付けのお店の子。〈古い思い出の宿亭ロスタルギヤ・ガスチニーツァ〉って言うの、覚えておいて」

「こりゃまた、そうだったのか。セルゲイが行く店なら大層イイトコなんだろうな」

「良かったらホームレスおじさんも後で来なよ。セルゲイおじさんのよしみでご飯奢ったげる」

 二人のやりとりを見て私は少し安心した。年頃の女の子ほど残酷な人間もいない。ましてや身なりのあまり良い方ではないヴィズドムィ相手には、年頃の子ほどその異質さを嫌う者も多いのだ。とは言えやはり、ある意味では異質の者同士馬の合う部分があるのだろう。ヴィズドムィに登場されては図書館で勉強するという話がお流れになっても仕方無い。ラビリンスク以外の街々を訪ね歩いたというヴィズドムィと、ラビリンスク以外の街に出た事が無いエリューシュカ、ヴィズドムィから聞ける話はきっと腐るほどある。きっとそれも勉強の一種だ。

 そのまま話に花を咲かせ始めた二人にアトリウムに移動してはどうかと提案し、彼らは乗った。私はどうするのかと訊かれ、調べものがあるから気にしなくていい、じき迎えに行くと告げると、二人はアトリウムへ向かって歩いて行った。二人が本棚の陰に見えなくなるのを見届け、私も予てより目的であった歴史の棚へと赴く。中央亜史の本は大国の歴史の端に追いやられ、民俗文化史の棚と挟まれるように置いてあった。その中でも現在においてЯR両国が統一したM国は特筆すべき歴史を有しているためか数冊の概説史本があった。一冊を手に取り、近くの椅子に腰掛け頁を開いた。


  一九八一年四月 アルカジイ・レゾンスキーによるR国官邸自爆テロ未遂事件発生。ЯR両国の対立が顕在化。

  一九八三年九月 R国のЯ国空爆。ЯR紛争勃発。

     同年十月 R国が対Я国決起令発令。以後、国境付近での交戦が表面化。

  一九八五年三月 元宗主国家連盟がЯ国支援を表明。英仏等の欧米から支援を受けるR国と対立激化・全面戦争へ。

  一九八九年八月 アメリカの介入により一時的に休戦するも、国境付近の山間及び都市部降下でのゲリラ戦が続く。両国とも物価高と資源不足により栄養失調による餓死者が急激に増加。国連決議により全面的な人道支援が決定。

  一九九五年七月 対R国パルチザン指導者ヴァルトフ・セバスティアン・ヤナーエクが国連軍により拘束。難民認定後、国連の保護施設へ移送される。

 一九九七年十一月 R国地下深くにて極秘裏に製造されていた核搭載IRBMがフィンランド湖水地方の小港町に着弾。後にミョルニル事件と呼ばれる。

    同年十二月 核兵器の誤使用により国際世論の反発を受けた欧米諸国がR国への支援を停止、Я国の勝利により紛争終結。

  二〇〇一年三月 国際連合の仲介を経た協議の末、Я国がR国を併合統治。以後、国名をM連邦共和国とする。

     同年四月 旧Я国カシュパル・イェルヴナ大統領に平和に対する罪、旧R国レギーナ・ヤジェク首相は人道に対する罪で起訴。元首不在の状況となる。

     同年九月 残党勢力による核密輸問題が浮上。テロ支援国家としてM連邦共和国が含まれる。国連選挙監視団の監査に基づく第一回共和国統一選挙にて総督職にヴァルトフ・セバスティアン・ヤナーエク氏当選。

  二〇〇二年五月 ヴァルトフ総督訪米。テロ支援国家の解除を目的とする会談で条件付き解除を確約。

 二〇〇三年十二月 旧R国核開発施設の完全閉鎖。M連邦共和国軍及び米露連合軍によるトリグラフ作戦開始。M連邦共和国とアメリカ合衆国の国交回復。

  二〇〇六年七月 両国を分断していた旧国境のジラント連山に鉄道トンネル開通。旧来のロープウェイは観光資源化。


 ヴィズドムィが語っていた話は、後にЯR戦争と呼ばれる出来事の端緒だろう。異なる思想が元で袂を分かったЯ国とR国による冷戦期最期の代理戦争だった。戦争末期、核兵器の誤使用でまったくの無関係であった第三国が巻き込まれた事により、R国側への支援が途絶しЯ国側の勝利に終わった。その後両国はM国として統一し、現在では総督を頂点とした独裁体制が敷かれていると聞いた事があった。そしてヴィズドムィの話の限り彼はR国出身であり、両国が統一する以前は彼もまた戦争に駆り出されていたに違いない。であれば、私が彼の話に焦燥感を覚えたのはやはり彼の背景そのものに関連しているからだろう。街で噂になっているという名無しのホームレスの話題になった時、彼は自分の事を知っているのかとブルガーコフに訊ね返した。それは噂のホームレスが自分であると自覚していたからだ。そしてタクシー運転手から聞いた噂では、そのホームレスは他者からの施しを尽く断っていた。だからこそブルガーコフも噂と違って気風の良い男だと評価したのだ。私がタクシーの運転手から聞いた話を彼が知っている筈は無いが、ともすればヴィズドムィは何故自らを偽っているのだろう。その理由次第では我々ともども既に平穏無事では済まされない。彼は都市評議会や入管、他の街の者たちにも同様に噂らしい人物として振舞っているのだろう。だが、それはまず以て本当なのか?

 エリューシュカのように勘の鋭い人間が存在するとして、私の言動の些細な一挙手一投足から何かを感じ取って訝しむような者がいたとしたら、それが積み重なって大事にならないとも言い切れない。ラビリンスクに永住権を得てからというもの偶に外に出す手紙は言葉に細心の注意を払って何度も書き直す日があったし、外部の情報も仕入れる事は稀で、それによって無知に陥り自身の行動に自信を持つ事もできた。すなわち私はこれにより完璧に一致している。ブルガーコフの言った通りだった。ようやくこれ以上、自分を見失わず自由に生きる事ができている。私は本を棚に戻した。手が冷たくなっていた。微かに震えていた指先を握り締め細く長い息を吐いた。

 ブルガーコフはどうだろう。彼はカフェにやってきた時、ここではついぞ見た事の無い腑甲斐無い姿を私に見せた。ラビリンスクに身を置いて何ものも失わずにいられると言い放った彼は、鋭気を挫かれたように弱々しい言葉を吐露したのだ。恐らく私以外の前でそのような素振そぶりを見せる事は無い。彼は何故あの時あんなにも情けない姿を見せたのだろう。

 ふと思い立って踵を返す直前気づいた。私はエリューシュカと共に目的があって図書博物館に来たのだし、タイミングの悪い事にヴィズドムィまで合流してしまっている。ここで彼女の元を離れてしまうのは心証が悪い。ましてやヴィズドムィに至っては今後注意するべき人物になった。勿論人を疑うのは良くない。それに確証が無い時点であれこれ詮索して言動に現れてしまっては元も子も無い。ここでの私はただに私でしかない。誰にも咎められようのない私だ。

 もう一度、細く長い息を吐いた。そしてアトリウムに向かった。

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