第九話 アリスの服
通武からもらったペンとインクで佳代は、アリスの絵を模写し始めたのだった。宙と周は本の内容に魅せられたが、佳代は西洋の絵に魅せられ、二人が本を使っていない間、絵を模写し続けた。
「つまりは、断られたという事ですか」
「周、そんなはっきり言うな。まだわからぬではないか」
縁談の返事は通常、後日仲人からあるもの。今日あった縁談の返事がその日にあるわけがない。
「はい、帰り際お見送りにでた父にお仲人さんがそっと耳打ちしたそうでございます。この話はなかったことにしてくれって」
これを聞いた二人は、残念そうにため息をついたが、佳代はちっともめげてはいない。
「私、はっきりと落胆している父に言ったのです。縁談よりも、西洋画を習いたいと」
「よう言うたの。で、大垣屋はなんといったのじゃ。習わせてくれるのか?」
佳代は、力なく首をふった。
「そんなもの習ったら、ますます婚期が遅くなると泣きながら怒られました」
今のご時世、西洋画を習うには外国人に頼むしかない。年ごろの娘が外国人の傍によるなどもってのほかである。大垣屋でなくとも、世の親なら真っ当な判断だった。
「大垣屋さんなら、きっといい嫁ぎ先を見つけて来られますよ」
娘の器量などに何か問題があっても、持参金さえはずめば、嫁ぎ先は決まるものだった。
周の慰めは佳代に不要のようで、落ち込むわけでもなく、持ち帰った大きな風呂敷をいそいそと開け始めた。
「そうそう、忘れておりました。頂いたペンとインクのお礼に、父が宙様へこれをと言われていたのでございました」
風呂敷の中には西洋の服が入っていた。宙が広げてみると、アリスが着ている服そっくりだった。
「宙様も今アリスに夢中であると父に言いましたら、絵に似た服を居留地で買ってきてくれたのです。なんでも、ワンピースというのだそうです」
「それは、かたじけない。見ろ周、アリスの服によう似ておる」
裾がふんわりと広がった、空色のワンピースに白の前掛けがついていた。
「きっとお似合いになりますよ」
周は心底そう思って言ったのだが、宙は顔をしかめた。
「いやまて、アリスはイギリス人だぞ。髪が茶色いはず。我の髪は真っ黒だ。アリスを正確に再現するには、周が着れば良いと思う」
宙の無茶ぶりに、周の顔は硬直した。
「なにもアリスを再現しなくてもいいではないですか。これは大垣屋さんが宙さんにくれたのですから」
「そうこれは、我のものじゃ。だから我は周に着てほしいと思う」
「私も、この服を着た周さんが見たいです。そして絵に描かせてください」
女子二人に、熱望され最初は頑なに断っていた周だが、宙の一言で押し切られた。
「この服は、
着る本人の意思は聞いてもらえないのですか。そう周は言いたかった。
最近体つきが男らしくなった周に入るかどうか、いぶかりながら……いやむしろ入らなければいいと思いながら、周はしぶしぶ袖を通した。やはり外国人の体つきは女子でも大柄であるのか、すんなり入ってしまった。
白くて長い足袋のような物もはいた。佳代が周のまとめている髪をほどくと、肩にかかる長さまで垂れた。絵の中のアリスと同じ髪型だ。
「思った通り、よう似合うではないか。周も鏡を見てみるか、ほんに異人のようじゃ」
周はうなだれて首をふり、普段は開いている足をもじもじと閉じる。袴とは違いこのワンピースというものは、股がたいそうスースーする。太ももの内側が心もとない。
「やはり、畳の上だと絵になりませんね。こう西洋らしい景色でないと」
もう手にペンと紙を持っている佳代が残念そうに言う。
「馬車の前はどうじゃ」
「たしか、殿様は朝から役所の方へ馬車に乗ってお出かけになりました」
馬車とアリス(周)という組み合わせに、未練が残る口ぶりで佳代は言う。通武は何やら出かける事が多くなった。物見遊山ならば、宙も周も連れて行ってもらえるのだが。
「この部屋から出るのは、勘弁してください」
周の悲痛な叫びに、女子二人は興ざめた様子で舌打ちしながら視線をそらせたその時、玄関の方から女中たちのあわただしい足音が聞こえてきた。通武が帰ってきたようだ。
「帰られたのかもしれません。ちょっと見てきます」
これ幸いと佳代は、玄関に様子を見に行った。胃をキリキリとねじり上げられ苦痛にたえる周の横で、そわそわと期待しながら宙は、佳代を待っていた。しばらくたって、どたどたと騒々しい足音をさせ、佳代が戻って来た。
「大変です。殿様がお客様を連れてこちらに向かわれてます」
「周早く脱げ、見つかったら厄介だ」
そうせかされても、このワンピースの留は背中についている。佳代が慌ててはずそうとするが、焦って手元が鈍る。もう足音がしてきた。
「これで体を覆え、後は我がなんとか言いつくろう」
そう言って、宙は大風呂敷を周に投げた。それを受け取った周はしゃがみ込み頭からすっぽりと風呂敷をかぶったのである。
間一髪、数人の足音と共に通武の朗らかな声が聞こえた。
「今戻った。今日は珍しい客を連れてきたのだが、周はどうした」
「おかえりなさいませ。今隠れ鬼をして遊んでおったのです」
宙のかしこまった声が聞こえてきた。隠し事など微塵も感じさせない、堂々たる態度が目に浮かぶ。このような態度がとれる胆の太さが羨ましい。周なら後ろめたいことがあると、相手の顔からついつい視線を外してしまう。
「困ったの。周に合わせたい客人じゃ。どれ父もいっしょに探してやろう」
「いえいえ、ずるはいけません。どうぞ座敷でお待ちください。すぐ見つけて連れていきますゆえ」
この状況でまだ落ち着いた声を宙は出している。佳代ははたして平静を装う事ができているだろうか。周はそれが心配だった。
「先ほどから、あちらの娘さんがちらちら風呂敷包みを見ておりますぞ」
低く少ししゃがれた声に、周は聞き覚えがあった。この屋敷の人ではない、他を圧する凄みのきいた声。全身に悪寒がはしった。
「どうも、そこに大きなネズミが隠れているようだ」
風呂敷の前に宙が立ちふさがり何やら言い争っているが、動転した周の耳には届かない。もうだめだ。そう思うと、突然視界は明るくなり、風呂敷を握る人の顔を、こわごわ見あげた。
周の父佐々政次が、外国人の女子のかっこをしている息子を、無表情に見下ろしていた。一年ほど前、広岡を立つ挨拶をしに、佐々家の屋敷で会って以来。その時の父の顔と何ら変わりない。眉一つ動かさぬその顔に、周は震えあがった。
「少し悪ふざけが過ぎたのだ。今日大垣屋からこの服をもろおての。一番似合う周に着てみろと我が命じたのだ。周は何も悪くない」
宙の弁解なぞ、父が素直に聞くわけがない。周は目を強くつむり、体に力を入れた。案の定問答無用、胸倉をつかまれ、思い切り張り倒された。畳にしたたか肩と頭を打ちつけ、頬は焼きごてを押し付けられたように熱い。口の中に、みるみる血の味が広がった。
顔を上げると、佳代の悲鳴が聞こえた。唇に感覚がない。血が口の端から滲んでいるようだ。血で畳を汚すような無礼な事はできない。ぬぐおうとしたら、宙がすかさず、着物の袖口でぬぐってくれた。
「何も殴らずともよいではないか。悪いのは我だ。殴るなら我を殴れ」
恐れ知らずにも、宙は政次に食って掛かる。その腕を周は強く握る。宙の決死の抵抗など、赤子のたわ言にしか聞こえない。そんな顔をして政次は言った。
「姫、あなたがお命じになられても、それをうけたは、こやつ。責を負うは下のものでございます。あなた様も上に立つお立場の方。その事をよく理解した上で、ものをお言いなさい」
そう言われては何も言い返せず、宙はこぶしを強く握りしめている。その膝の上で震える右手を見て、周はぶたれた頬よりも、胸が痛んだ。
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