最終話 姫君と

 翌日、表御殿の書院に周を呼んだ。通武は上座に、少し離れて宙が座っている。宙は昨日の勢いはなく、しおらしくうつむいていた。無理もない。通武はそう思った。宮子からの品を渡す折、豊島が宮子の出家を宙に言ったそうだ。そしてかたく宮子に会いに行く事は、できないと言いきかせた。


 何も馬鹿正直に言う必要はないだろうに。あんなに張り切っていた宙を思い、通武は不憫でならなかった。そうは言っても、宮子のところに連れて行ってやれるはずもない。もう宮子は出家の身であり、俗世のものとは極力合わない方がいいのは当然である。


 宙の意をくみ、通武まで憂鬱な気になったが、平伏から顔をあげた周を見て、息を吞んだ。久しぶりといっても、二月ふたつきほど見ぬまに周は随分と変わっていた。国元で見た時よりもたくましくなっている。


 日に焼け体も少し大きくなっているが、見た目だけではない、内面の成長も表に現れているようだ。あどけなさがのこる白い顔で、通武に理由を問うてきた無邪気な周はもういないのであろう。


 かつて通武にも少年という時はあった。その時の渦中にあるものは、己の成長などわかろうはずもない。しかし、その過程を経てきたものには、もう訪れない少しのにがみを含む青さに気恥しさを感じつつも、羨望を向けずにはいられない。


「久しいの周。息災であったか」

 通武は親しみがにじむ声で言った。


「殿様におかれましては、東京への無事のおつき、祝着至極に存じ上げます」

 宙への助言と同じことを言いよった。通武はさかしらな顔をして口上を述べた周に、少しばかり安堵した。


「そなたを国元から送り出した時より、いろいろと状況はかわった」

 周には詳しい事情を言うつもりはない。この利口な少年は、おのれで正解を導きだすだろう。


「真之介にかわり、宙姫に仕える心づもりはあるか? この姫はちと他のものと育ちが違い、骨がおれるぞ。このまま国元に帰った方が得策と思うが」


「国元をたちましてからこの日まで、殿様のお子様に忠義を尽くす覚悟に変わりはございません」


「しかし、この宙は女子というばかりではなく、片腕もきかぬ。男子であるそなたはどう忠義を示すと言うのか。国元の家族も心ではそちが帰るのを、待っておるやもしれん」


 周が伯父の商家で大切に育てられた事を、政次から聞いていた。通武は、わざと周を試すようなことを言った。


「このお役目を頂いてから、国元の事は忘れる事にいたしました。私は、宙姫様の片腕になる覚悟でございます。身の回りのお世話はできませんが、おそばに侍り、命をかけてお守り申し上げる所存でございます」


 通武は遠い昔同じような口上を聞いた覚えがあり、色あせた光景がまざまざと脳裏に蘇った。言わずもがな、それをのたもうたのはほかならぬ、通武であった。


 宮子との婚儀をすませ、初めての夜を迎えた寝所で通武は言った。将軍の孫であり、名君と誉れ高き藩主の娘御に、「命をかけてお守り申し上げる」と、白絹の寝間着を着てうつむく宮子の顔を見ながら。


 胸の内が熱くなるのがわかった。あの時の自分の決意と覚悟を持って、周も宙に尽くすという。これほどの思いにあふれるものを退ける道理があろうか。いやない。


 周のこの口上を聞き、宙もさぞ感激しているであろう。そう思い通武はちらりと宙を見ると、膝に置いた右手がふるふると震えていた。

 そうであろう。女子はこのような言葉に弱いもの。男として育てられたとはいえ、元は女子。うれしくないわけがない。そう通武は素直に思ったのである。しかし……


「たわけ! 誰がお前に守ってもらおうと思うというのか。我が片腕がきかぬから、あわれというか。残念ながらこの腕が使えなくとも、不自由なぞ感じたことは一度もないわ。何も分かっておらぬおまえなぞ、国に帰れ!」


 烈火のごとく怒りだしたのだ。その激情のまま立ちあがり、去り際事態が飲み込めずぼーぜんとする周に、捨て台詞をはいた。


「おまえとは、そのような事は望まん。まにおうておる」


 いうだけ言い、さっさと通武の断りもなく書院より出ていった。

 あまりに乱暴な行いに、ここは父としてがんと叱らなければなるまい。あの時の宮子も、通武の言葉を聞き喜んだではないか……いや待て。はたしてそうであったか。そう思いなおし、記憶の補正を取りさり、しばし胸の内に沈む記憶をたぐる。


 都合よく忘れていた真実は、残酷だ。通武の万感込めた言葉を聞き、宮子は薄く笑ったのみであった。長い間その笑みが理解できず、記憶の底に沈めていた。「女はわからぬ」という一言を添えて。


 その薄い笑みと、京で宮子に言われた言葉が重なる。「同じものを見たかった」宮子もひ弱なものとして守られるのではなく、同じ思いを持ちたかったという意味であろうか。天女のように崇められるより、同じ目線で通武の進む先を共に見たい。そう初めての夜に、言いたかったのではあるまいか。


 十五の余に、そんな複雑な女心が理解できるわけがなかろう。はっきり言葉にせぬとわからないではないか。今この年になりようやく、目に見えぬ心情を推し量ることができるようになったというに。そう嘆いても、もう愚痴を言う相手はいない。


 長年澱のように心の片隅にあった不可解な謎は、宙の言葉でようやく一つに溶け合った。

 今目の前にいる、狼狽の色をかくせぬ周にかけてやる言葉なぞない。さあ、悩むがよい。余は答えを導きだすのに、二十年かかったのだ。宙は親切であるぞ。自分の気持ちをはっきり言葉にするのだから。そう心の中で、通武は周を激励した。


 出ていく宙のため女中が慌ててひいた障子が、左右不ぞろいに開いていた。障子の向こうの庭をのぞむ。

 枯れた葉を落としていた黒松の木は、力強く枝をはり、青々とした新しい松葉が枝を覆っている。その豪壮なたたずまいに通武の心は一時慰められたのだった。


「時に周よ。陸蒸気なるものは知っておるか?」

 突飛な通武の質問に答えられぬかと思えば、


「横浜から品川までの間を走る、蒸気機関車の事でございますか。イギリスから技術と資金を援助されたとか」


 したり顔で言ってのけた。やはりこやつには何も教えてやるまい。通武は意地悪くほくそ笑む。


「宙は虫の居所が悪かったのだ。女子とは時にそういう事もある。気にするな」


 通武の言葉をいたく感慨を持って受け止めたとみえる周は、敬慕の情をにじませ、通武を見た。それに満足した通武は、笑いをかみ殺した。しばしたってから、周の供をしたイギリス帰りの内藤の事を、ようやく思い出したが、もう遅い。自分の意地の悪さに通武は一つ、咳ばらいをするのみであった。



 家臣の場は今、人であふれていた。昨日通武より遅れて、総勢五百人は超えようかという大行列がこの下屋敷に到着した。国元より東京へ移住してきた元藩士たちだ。


 周の住む長屋も賑やかになり、両隣は家族をつれた藩士一家が入った。書院を辞し長屋へ帰る道すがら、すれ違う人に挨拶をしつつ周の頭は混乱していた。

 なぜ殿様は蒸気機関車の話をされたのだろう。旅の途中、線路の普請を横浜から品川にいたる間、あちこちでみかけた。多摩川にかかる大きな木造の橋の上を機関車が走ると内藤に聞いた時は、心底驚いた。


 留学時、イギリスで蒸気機関車にのったという内藤の話を聞いても、鉄でできた巨大な大八車ぐらいの想像しか周にはできなかった。通武の前で披露したウンチクは、すべて内藤の受け売りである。


 殿様の前に再び呼ばれたというのに、やっと本当の名を知った宙姫を怒らせてしまった。気にするなと殿様はおっしゃったが……周の心は重い鉛を飲んだように沈んでいた。


 とぼとぼと歩いていると、猫の鳴き声がする。あたりを見回しても猫の姿はなく、人影もない。声のする方に歩いていくと、あの柿の木の上に紫の飾り紐を首に巻いた白い猫がいた。上ばかり見てのぼったのだろう、自力では降りられない高さに驚いているようだ。猫がしがみついている枝は細く、身動きするたびしなっている。


 猫の真下にいき、飛び降りるよう周は猫に声をかけたが、おびえ切った猫に通じるはずもない。かくなる上は登って猫を捕まえるしかなさそうだ。そう思い周は手慣れた手つきで、実がぽつぽつと残る柿の木を登り始めた。


 下から見上げるよりそう高い場所ではなかったが、猫は毛を逆立て震えている。誰かの飼い猫だろう。飾り紐は正絹のしぼりで豪華だ。周がそっと近づき手を差し伸べても、フーっと威嚇するばかり。もっと近づき「大丈夫、大丈夫」と言いながら背中をやさしくなでてやると、吊り上がっていた金と青の目はだんだんと下がっていった。


 ようやく、抱きかかえる事ができた。すると、周を呼ぶ声がする。この声はと思い下を見ると、やはり女中を連れず一人きりの宙であった。


「何をしておる、危ないではないか」

「猫を捕まえていたのでございます」


 大きな声で返答すると、宙は木の下まで近づき言った。

「その猫は母上のさく姫じゃ。迷子になっておったか」


 そう言われたものだから、周は慌てた。京に行ったはずのお猫様がなぜここに、そう思ったが何より御前様のお猫に粗相があってはならない。抱きなおそうと、体勢を変えた瞬間、枝が大きな音を立てて折れ、周は真っ逆さまに地上に落下した。


 したたか頭をうち、痛みにたえ強くつむった瞼の裏に星が瞬く。それがなんとか収まり目を薄く開けると、宙が周を覗き込み泣いていた。下げ髪が涙で頬にへばりついている。


「どうして泣いておられるのですか?」

 周は不可解な心持ちがして聞いた。


「ばかもん! お前が死んでしまったかと思うたからに決まっておろう」

 声を荒げきつい言葉を発しながらも、宙の目からぽろぽろと美しい大粒の涙が、とめどなく流れ落ちている。


「これぐらいじゃ死にませんよ」

 頬のぬれた髪を払い、真珠のような涙を、手のひらに掬い取りたい衝動を抑え、周は素っ気なく言った。


「お前にひどいことを言った我に、ばちがあたったのじゃ。仏様がお前を連れていったと思うた」

 周が仏様に連れていかれて、なぜ宙にばちがあたる事になるのか、周は皆目かいもくわからなかった。


「それよりお猫様は、大丈夫ですか?」

 周の言葉に少々むっとした顔をして、宙は膝にのせた猫を見せた。どこもケガはなさそうで、ホッとした。


「さく姫は父上が京から、連れてきてくださったのだ。京へ行く必要はなくなったの」

 そう寂しそうに言い、宙は立ち上がった。


「そのうち必ず行きましょう。私がお供します」

 涙をぬぐう宙を見上げ、周は言った。


「だからそうではないと言うておろう。お供ではなく。いっしょに行こうと言うておるのだ」


 お供すると、共に行く。このどこが違うのか、再び周は皆目わからなかった。周の得心がいかぬ顔を見下ろし、宙はいら立ったように声を荒げた。


「ほんにおまえは頭がよいかもしれんが、人の心というものにたいそう鈍い!」

 そういい仰向けに転がっている周の横で、同じく背を土につけ、天を指さし言った。


「空を見上げよ。共にとはこういう事ぞ」

 二人の見上げる晴れ渡った空は高く。目は青しか映さず、まるで空を飛んでいるようだ。


「とても気持ちがいいです」

 そう周が言うと、宙はたいそううれしそうに破顔し「我もじゃ」と言った。こうすることで、「共に」が分かったわけではないが、周は一応得心した顔をする。宙ならば、その顔に騙されないだろうが、周といっしょに空を見ているのだからわからないだろう。


「さきほど、不自由なぞ感じた事はないと言うたが、あれは嘘じゃ。本当はこの木を初めて見た時登りたいと思った。でも、片手ではどうにもならん。おまえが登っている姿を見て羨ましく思うた」


 そういえばこの木の下で会った時、宙は木を見上げていた。

「今一つ不自由が増えた。おまえを受け止められなくて、我はたいそう焦燥にかられた。腕が動けば助けられたのに。毒を盛られてより初めて、この動かぬ腕を呪ったのじゃ」


 そう言い周を見て目を細める。落ちてくる人を子供がたとえ両腕が動いたとしても、受け止められるわけがない。むしろ落ちたものの下敷きになって危険である。それでも宙はそうしたかったのだろう。


 何もかも周にさらけ出せる宙の強さに、周の頭はめまいをおこす。周はこんなにも人に信用されたことはない。嘘を訂正しなければならない事が周にもあった。自分をさらけ出すというのは本当に恐ろしい。それでも、宙なら受け止めてくれる。そう確信して今まで誰にも話したことのない、心の内を話し出した。


「私も国の事は忘れたと言いましたが、片時も忘れた事はありません」

 周は自分が商家に預けられて育ち、母と会ったことがないと宙に言った。


「藩がなくなってから、伯父と伯母が私の事で相談しているのを聞いてしまったのです」



 佐久を寝かしつけ書を読んでいた夜、行燈の油が切れ、取りに廊下を歩いていると、話し声が聞こえた。伯父は藩御用達の呉服商である我が家の商売は、先行き不安だと漏らしていた。歳入の半分は深水家並びにその上級家臣からであり、一番の大口であった殿様が東京へ行かれるのだ。店の売り上げが半分とはいかずとも、大幅に減るのは必至。


 すると伯母が、もうお武家様という身分もなくなったのだから、佐久と婚約させこの家を周に継がせてはどうかと言い出したのだ。賢い周なら、このご時世をうまく渡り切るのではないかと。


 周は、商売が嫌いというわけではなかった。武士に不要といわれるそろばんもできたし、数が並ぶ大福帳を眺めるのも好きだった。伯父と伯母の期待に応え、商人になるのが最善であると理解はできる。しかし、自分は武士であるという誇りを捨てる事はできなかった。


 このままこの家にいれば、後を継ぐことになるだろう。育ててもらった大恩ある伯父のいう事にはそむけない。そんな懊悩おうのうした毎日を過ごしていた時に、通武に呼び出されたのだった。だから、殿様に対する忠義を胸に故郷を飛び出してきたわけではない。周は自分の小さな誇りと叔父に対する恩義を天秤にかけたのだ。恐れ多くも忠義心を利用したことになる。



「なんだ、最初から正直にそういえば良いものを」

 告白を聞き、宙はあっさりと言う。周は少々肩透かしをくらった心持ちになり、むくりと起き上がった。


「自分の気持ちにしたがい、正直に行動する事は正しい。おまえはそれを後ろめたく思っているようだが、我が許す」

 空をとらえていた眼差しを周に向け、そうはっきり断言した。胸のつかえがすとんと胃の腑のあたりまで落ちていくようだ。


「父上は、小姓ではなく学友として我の傍におるのがよいであろうとおっしゃっていた。学友とは、共に学問に励む友という意味らしい」


「それでは、何もお役に立ってないように思うのですが。それに姫様と友とは恐れ多いことでございます」


「おまえは小さいことを気にするな。我が家の役に立たなくとも、この新しい世の役に立てばよいのじゃ。おまえのその頭を世のために使え。そのために今できる事を励め」


 周は今まで深水家の役に立つことばかり考えていた。そんなことは些末なことだ、と宙は言う。目の覚めるような気分を今、周はあじわっている。


「はい、一命をかけ精進いたします」

「おまえはすぐ命を懸けるの、そんなものはかけずともよい。武士とは命よりも誇りをかけるものではないのか」


「はい、姫様のおっしゃる通りでございます」

 周は破顔する。しかし宙は少し不服そうに言った。


「姫様はやめてくれ。名前で呼ぶのがよい」

「では、宙さまでは?」


「それも何やら学友としてふさわしくないように思う。そうだ宙さんでよい。母上も時より我をそう呼んでいた。なぜそう呼ぶのかわからなかったが、本当の名を呼ばれておったのだな」


 周は身分ある方をさん付けで呼んだことはないと渋ったが、宙は強引に決めてしまった。

 ここで、また周は的外れな事を言った。


「なぜ宙さんは、こちらにいらっしゃったのですか? また穴を通ってこられたのですか?」

 宙は呆れた顔をして起き上がる。


「ちょっと考えたらわかろうに」

 それまで二人の周りをうろうろしていたさく姫が一声ニャーンと鳴き、抱え上げる宙の頬をぺろりとなめた。


「まあよい、あの赤い着物を返してもらおうと思ったのだ」

 赤い着物は返しそびれ、まだ周の行李の中に大切にしまわれていた。周は膝をついて立ち上がり、自室へ向かって勢いよく走りだした。

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