第七話 出生の秘密

 通武は書院へ向かう。人払いがされているのか、あたりに広々とした書院の中にも、豊島以外人の気配はない。通武が従者を従え入ると平伏したまま豊島は出迎えた。


 上座に座ろうとした通武は、豊島の前に置かれた懐剣が目に入り、ぎょっとした。やれ御一新だ新しい世だと世間は騒いでいるが、ここはまだ江戸なのだ、そう通武は痛感した。桐模様の緞子どんすの敷物に腰を落ち着けると、人払いを命じ気配が遠のくがはやいか、口を開いた。


おもてを上げよ。長々しい口上はいらぬ。端的に申す。あの娘はいったい誰なのじゃ」


 豊島はゆるゆると顔を上げた。このものに会うは何年ぶりであろう。通武は心の中で数えたが定かにはできなかった。しかし、そのうつむく顔に刻まれたしわに、通武は見覚えがなかった。


ひろ姫さまでございます」

「琴姫ではないのか?」


 琴姫とは真之介の妹姫で五つの年に世を去った。通武は亡くなったのは真之介であり、琴姫が身代わりになっていたのではないかと推測していた。しかし違った。通武は宙姫なる名を聞いた覚えがない。


「余の子なのか?」


 恐る恐る聞く。何年も宮子に会っていない間、ほかの男と通じていたのではないか? あってはならないことだが、不義の子を真之介の影武者にしたてていた。そう考える事が一番しっくりくる。尼になった理由も納得できる。しかし、恐ろしく答えなぞ聞きたくもない。


 「綸言りんげん汗のごとし」上に立つ者の言葉は一度発すると、取り消しはきかぬ。そう重々周の父、政次に教え込まれた通武であったが、恥をしのび「今のは忘れてくれ」そう言おうとした矢先、豊島が口を開いた。


「宙姫さまの事をお話しするには、真之介様がお生まれになった時のことをお話ししなければなりません」

 通武は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。



 御前様の三度目のお産は、大変な難産でございました。お腹は大きく膨れ上がり、産み月の一月ひとつき前に産気づかれたのです。朝方から苦しまれ、真之介様がお生まれになったのは、こくを回った時分でございました。


 みなお世継ぎ様のご誕生に沸き上がり、産湯のお世話に立ち働いておりました。私は御前様のお世話をすべくおそばにはべっておりましたが、突如再び苦しまれ産婆を呼びますと、まだ大きく膨らんだお腹の上に産婆が馬乗りになり、御前様にいきむように申したのです。

 二、三度いきまれますと、もう一人お子がお生まれになったのでございます。



「宮子は畜生腹ちくしょうばらであったのか」


 そう言って通武は絶句した。人は一回のお産で一人の子を産む。二人を産むというのはけものすなわち畜生と同じ、畜生腹といって忌嫌われた。特に男女の双子は不吉なもので、どちらか一方を密かに葬ることもあった。

 豊島は抑揚のない声で続ける。



 私は震える手で姫君をお抱きし、部屋の外へ出ようとすると、御前様がかすれた声で私を呼び止められました。双子のお産で精魂尽き果て息も絶え絶えのご様子でしたが、なんとか気を保っておられたのです。


 「その子はわらわの子である。手出しは無用」とおっしゃられたのです。では、里子にと申すとそれもならぬと。そこまでおっしゃると気を失われたのでございました。


 私は真之介様の乳母めのととは別に密かに乳母を探し、奥御殿の中で宙姫様をお育てする決意をいたしました。乳母はなかなか決まらず、やっとみつけた乳母には私の子であるとたばかり、他の女中にはさる高貴な方よりお預かりいたしたお子であると言い、このことは内密にいたすようきつく言い聞かせました。


 産婆と私以外誰も双子であったことは知りません。御前様は、日中宙姫様のおそばに来られることはございませなんだが、夜になると、ねんねされた姫様を抱かれ、静かに涙をお流しになられていました。


 真之介様、宙姫様。お二人のお顔は瓜二つでございましたが、真之介様はお体がお弱くすぐお熱をだされ、一方宙姫様は、ご丈夫で風邪などひかれたこともございません。

 使用人たちは最初、宙姫様の噂を影でしておりましたが、そのうち妹姫の琴姫様もお生まれになり、だれも気に掛けるものもいなくなりました。

 

 そのまま数年がたち、その間、江戸方と国元がお世継ぎを巡り対立を深めましても、御前様は頑なにご自分のご意思を表にお出しにはなりませんでした。ただお子様たちの成長を静かに見守られていたのです。


 宙姫様も健やかにお育ちになり、御前様さえ承知なされたら、私は里子にお出ししようと思っていた折、はしかが流行り琴姫様と真之介様が、相次いでお亡くなりになられたのです。


 折しも、長年のお世継ぎ問題がようやく決着いたし、殿様が討幕へと舵を切られた折でした。ここで真之介様がお亡くなりになり、世子が寅丸様になれば、苦渋の思いで従った、江戸詰の佐幕派の不満が噴出するのは目に見えて明らか。


 御前様はお子様を二人なくされた失意の中、ご決断されました。亡くなったのは、琴姫様と豊島の子であり、宙姫様を真之介様の身代わりにすることを。

 それ以来乳母は里に帰し、真之介様におなりになった宙姫様のお世話は、私一人でしてまいりました。今日こんにちまで殿様を恐れ多くもたばかりし罪はこの豊島一人が、背負う事でございます。



 ここまで言うと、豊島は深々と頭を下げた。ひれふす豊島を見下ろしていた通武の頭の中は安堵、落胆、驚愕、空虚、憐憫様々な感情が入り乱れ、もはや自分一人では処理しきれずにいた。しかしはっきりする事は、怒りの感情はないという事。


 長年二人に通武は騙されてきたのである。跡取りをなくすという一大事から、通武は排除されていたのだ。しかしそれもさもあらんと通武は思うのである。


 豊島は宮子の乳兄弟。一回り年上の豊島は宮子が産まれた時より傍におる。通武が宮子の傍にいた時間など、二人の間に流れた時に比べれば、微々たるもの。二人の結びつきに割って入る事なぞできようはずもない。


 実際、あの時点で真之介の死が公になれば、佐幕派の不満は爆発し、藩政は再び混乱におちいるのは必至。さすれば、佐幕派を粛清せねばならず、多くの死者が出ただろう。その指揮をとるのは、ほかならぬ通武である。


「しかし、なぜ宮子は出家を」


 通武は聞くだけ虚しいと分かっていても、聞かずにはおられなかった。


「私が御前様のお気持ちを推察するなど、恐れ多いことなれど、思うにけじめをおつけになられたのではないでしょうか」


 けじめか……通武は心の中で繰り返す。やはり、余は捨てられたのだな。そう思い豊島の前に置かれた懐剣を拾い上げた。


「そなたも、けじめをつけるつもりであろうが、それは許さぬ。変わらず宙姫の傍におれ」


 そう言い残し、懐剣を手に廊下へ出た。この下屋敷の庭は中屋敷程広くはないが、美しい回遊式庭園である。通武は腕を大きく振りかぶり、池に向かって懐剣を投げ捨てた。もうこんなものは何の役にもたたんのだ。


 通武はその足で御殿の廊下をいく角も曲がり仏間へ向かった。先祖の位牌がずらりと並ぶ祭壇の中、小さな位牌を一つみつけた。「琴純信童女」線香を二本立てその位牌に向かって手を合わせた。線香の匂いが立ち込め、通武の周りにまとわりつく。通武以外誰もおらぬ静謐な仏間の中、頬に一筋の光が流れた。

 仏間から出た通武を、田島は今か今かと待ち構えていた。


「いかがな次第しだいでございましたでしょう」


「うむ、あれは宙姫というそうじゃ。以後そのように。それと、仏間の位牌を一つ新しく作ってくれ。戒名は豊島に聞け。ではよしなに」


 通武の命に驚いた表情を浮かべる田島であったが、それ以上何も言わず下がっていった。

 長旅の疲れもあるが、屋敷の居室に引きこもる気分でもなく、庭の東屋に座りぼんやり何を眺めるでもなく遠くを見ていた。供のものは遠慮して、離れたところに控えている。


 さあ、これから何をすべきか。藩主についてからの激動の世は終わった。思えば、藩主としてもっとも最善なる行動を今までしてきたのであって、通武個人の事など考えもしなかった。通武が「したいこと」など、ないに等しいのである。


 立ち上がろうと、膝に置いた手を縁台にかけると、手のひらにちくりと微かな痛みが走った。見ると、枯れて茶色くなった松葉であった。目を落とすと、足元に無数に落ちている。一つ摘まみ、指先で回してみた。針のような二葉がくるくると回る。かさかさに枯れた松葉からは、松脂の匂いさえしない。


 遠くから甲高い女の声が、築山の向こうから聞こえてきた。誰かを呼んでいるようだ。その声はだんだんと近づいてくる。


「姫様、お待ちください。姫様」


 現在この屋敷の中に、姫は宙姫しかおらぬ。女中が宙姫を呼んでいる。そう思い、通武は東屋から出て、声のする方を見た。格子柄の銘仙を着た童女どうじょが、速足でこちらにやってくる。通武はその童女に声をかけた。


「そのように足早に歩き、どこへ行くのだ」


 切れ長の目はたしかに、宮子に似ている。真之介に瓜二つであったというが、通武は真之介の顔を思い浮かべようとしても、もうできなかった。

 女中が通武に気づき、慌てて大儀そうに膝をおった。ここの女中は年かさのものが多い。


「父上様でございますか」


 宙は通武を臆することなくしげしげと見つめて言った。その目は生気に満ち、どこまでも遠くを見定める事ができる強い眼差しである。

 自分の運命を変えるだけの力を、この娘は持っている。世の常では忌み嫌われる存在であっても、今こうして通武の前に立っている。そのたくましい姿に、亡くなった子供たちの姿を重ねた。この娘は一人ではない。


 そう思うと、胸の奥に長年ため込んでいた哀惜の念が沸き上がり、通武は膝から崩れ落ちその場にうずくまりかけた。しかしそんな醜態をさらすわけにはいかない。感涙にたえなんとかうなずいた。


「宙にございます。父上様におかれましてはこの度の東京への無事のおつき、祝着至極しゅうちゃくしごくに存じ上げます」


 と立派な口上をのべたのだった。通武はその口上にいたく感服し、宙をほめると、

「父上様にどうご挨拶したものかと周に相談いたしましたら、このようにと周が教えてくれたのでございます」


 うれしそうに言う。そして、質問に返答していないことに気づきつけたした。

「母上に会うため、京へ行く鍛錬をいたしております。京までの道のりはたいそう遠いと周が申すので。我は片腕がききませんので、たくさん歩く練習がいるのです」


 片腕がきかぬなど、通武は聞いていない。感動は一気に引いていく。

「そなた片腕がきかぬとはどういうことか。そのような身で出歩くなぞ、危ないではないか」


 通武が身を案じて慌てて言うと、宙は意に介さず言った。

「毒を盛られたのです。でも、そんなことは大したことではありません。この世には目が見えぬもの、耳が聞こえぬもの、歩けぬものもいると周より聞きました。その者たちに比べれば、我は恵まれております」


 討幕派が寅丸を跡継ぎにせんがため、毒を盛ったのであろう。側室は知っていたのだろうか。田舎に隠棲したものを、今さら詮議するは愚かな事だ。そうは思うが。「しかし……」と通武が言いよどむと、なおきかん気な目をして言いつのる。


「ですから、どうか母上の元へ行くお許しを下さいませ。周と共にいく約束をしているのです」

 

 今生での初対面をすませた父と娘であるのに、宙に特別な心情はなさそうである。それにしてもさきほどから周、周と何回言うたことか。

 国元で会った周の顔を憎々しげに思いだし、小姓として東京へやったはずの周に、岡焼きをしている自分に通武は驚いた。琴姫が産まれた折も、娘の父親なぞという感慨になったことはついぞなかったというのに。


「京へ行く事まかりならん!」


 そう強い口調で言ってしまい、自省して言いなおす。母親を恋しがっている宙に出家したなぞと、かわいそうでとても通武には言えない。


「母も京での慣れぬ生活が始まったのだ、すぐにはあちらもあわただしいであろう。それにそなたの今の体では長旅はちと骨だ。来年には陸蒸気なる乗り物が走るそうだ。それに乗れば、旅は格段に楽になる。それができてからでも遅くはない」


 そこまで言って、京より預かり、馬車にのせて運んできたものを思い出した。


「それと、後で母から言付かっているものがあるゆえ、そなたに渡そう」

 宙は飛び切りの笑顔になり言った。

「陸蒸気なるものは聞いたことがありません。周に聞いてみよう。父上ありがとうございます」


 「では後ほど」そう言い、すっかりまだ見ぬ陸蒸気に心奪われている宙をおいて、通武は御殿へ戻った。周が陸蒸気を知っているはずがなかろう。父に聞けばよいものを。そう心の中で悪態をつく通武は、ぽそりと呟いた。


「娘はつまらぬ。父とはもっとつまらぬものよ」


 通武はイギリス帰りの内藤が周の供をしていたことなぞ、すっかり失念していたのである。

 預かった品を、宙の部屋まで届けさせた。あとは、周をどうするか……長年の不義理に気まずさを感じ、少しでも宮子の気が和めばと思い周を東京へ送ったのだが、こういう事になろうとは。国元の別邸で会った、髪の赤い利発ないとこの顔を思い出す。


 周の父親である政次は、通武の叔父にあたる。先代広岡新田藩主であった父の、腹違いの末の弟であった。庶子ゆえ、本家の家老格の名家佐々家の養子となり臣下となったのだ。


 この叔父は心映え優れ、ひとかどの人物である。藩内が分裂し激しい抗争の渦中であっても、大義を重んじ決してどちらの派閥にも属さず事の鎮静化に奔走していた。通武が京で討幕の行動がとれたのも、国元に家老という絶対的な存在として、政次がいたからこそ。


 通武はこの叔父に絶大な信頼を寄せていた。婿養子に入ったばかりの、通武の教育係でもあったのだ。血縁である叔父の教育は、容赦ないものだった。特に心得には厳しかった。


 庭の木の下に、巣から落ちた雀の雛をみつけた通武は、その雛をこっそり育てていた。すっかり大きくなった雀を通武は、空に放つことができずにいた。その姿を見た政次は、


「将来藩を背負っていかねばならぬお方が、雀一匹に情をうつし手放せないとは、なんたることですか。即刻空にはなたれよ」


 と言い通武を激しく叱責した。通武も素直に、雀を手放した。まったく政次の言う通りだと思ったのだ。自分は雀の命どころか、人の命にかかわる決断を下す時がいずれくる。その事に気づかせてくれた政次に感謝した。


 政次の子ども、通武にとっていとこたちも優れ、嫡男 春馬はるまは長崎に遊学し、洋式調練を学び藩の軍制改革に大いに貢献した。しかし戊辰の戦で戦死したことは、今でも悔やまれてならない。


 その春馬の末の弟である周なら、真之介の小姓に適任であると考えたのだ。政次より、周の外見は重々聞いていたが、いざ会うとたしかに驚いた。しかし、ながの習慣により顔色一つ変えなかった。


 通武の変わらぬ様子を見て、周が心底安堵したことは、手にとるように分かった。この外見でどれほど苦労してきたか察するに余りある。心の痛みを知るものは強い。必ず真之介の役に立ってくれるだろうと確信したのだ。


 確かに大いに役に立っている。先ほどの宙の態度を見れば一目瞭然ではないか。しかし、姫の傍に年の近い男子をおくというのはいかがなものか。


 周には違う役を与えて宙から離す手もあるが、あの宙がそう簡単に納得はしないだろう。そう思いふと通武は笑った。まだ一度しか会っていない娘の性分がわかるとは。この娘となら、宮子とはついぞ叶わなかった、家族の情という物を築けるのではないか。


 その関係が良好に続いていくには、周という油が必要。そう通武は思い、周の処遇に考えをめぐらせた。

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