第六話 深水通武

 元広岡藩主、深水ふかみ安芸守あきのかみ通武は慣れぬ馬車の中で深いため息をついていた。


 先に東京につかわした家令の田島が、築地の居留地で調達してきたというこの馬車という乗り物は、ひどく乗り心地が悪い。髷に羽織袴姿の通武が座る椅子は布張りで、綿がはいっているのか弾力はあるが、車輪が石を踏むたび椅子の上から一寸は飛び上がる始末。そのため、横に置いたかごをあわてて押さえねばならなかった。


 窓の外の景色は、飛ぶように過ぎ去っていく。こんなせわしない乗り物の中では、考えもまとまらぬ。そう思い何度目かわからぬため息をついた。


 品川の港で蒸気船をおり、馬車に乗り換え青山の藩邸へ向かっていた。もう江戸の代ではない。あまたの従者を従えのんびり駕籠にゆられて旅をするご時世ではないのだ。


 そう思うと、藩の財政を食いつぶすいまいましい参勤交代が今は懐かしく感じるとは、皮肉なことだ。

 藩邸に一刻も早くお着きいただきたいと、田島は馬車を用意した。しかし、通武はすこしでも、藩邸につく時刻が伸びないかと心の中で懐古の念をいだいていたのである。


 なぜこんな事になったのか。真之介と名乗る娘があらわれ、正室の宮子は京に出奔。通武は自問自答するが、答えはなかなか見つからない。幕末以来の持病、頭痛がでて、通武はこめかみを指でもむ。

 自分はまだ、三十も半ばの年齢。しかし京で宮子に会って以来、いやに昔のことが思い出された。


 通武はそもそも、広岡藩の分家である広岡新田藩の生まれであった。新田藩は兄が継いでいた。部屋住みの男子は養子先がなければ、一生無聊ぶりょうをかこうことになる。そうならぬよう、通武は幼少の頃より学問や武芸、礼儀作法に精を出した。そのかいあって、本家である深水家の婿養子の話が舞い込んだ。本家には男子がおらず、正室の子である宮子との縁組だった。


 通武十五、宮子が十四の年、婚儀をり行い、その席で初めて、宮子の顔を通武は見たのだった。武家の婚儀とは、家と家との契約であり個人の感情など意味をなさない。そこに情がわくかどうかは、その後の当人たち次第である。


 白無垢姿の宮子はまだ幼さが残る、人形のように整った美しさだった。宮子の母は十一代将軍 家斉の二十二女松姫である。将軍家斉はあまたの妻妾をもち男子二十六人、女子二十七人をもうけたが、多くは夭折している。成年した子女は大名家の養子か正室として迎えられた。松姫も先代の広岡藩主の正室に迎えられたのだ。


 この先代藩主、通武にとって舅は長年たまりにたまった借財によって傾きかけていた藩の財政を立て直した名君であった。大胆な人材登用により、優秀な家臣を下級藩士であっても側用人に据え、様々な財政改革を断行させた。


 宮子は将軍の血を引く尊い姫君として、大切に育てられたのだった。そんな宮子をまだ十五の通武は美しいとのぼせるどころか、圧倒的な気高さに恐れおののく始末であった。


 馬車の中の通武は、その時の感情を数十年ぶりに思い出し、自分の若さを笑った。今の自分ならば、あの時の宮子と対峙しても臆せず受け止める事ができるだろうか? いや、今でも自信はない。


 そんな状態では、情を通わす愛情深い夫婦になぞなれるわけもない。しかし、宮子との間に子をもうけることは、婿に入った自分の使命。夫婦になって三年後にできた子は二月ふたつきで世をさり、次の子は死産。やっとできた待望の跡継ぎである真之介が、無事育ったことに、通武はどれほど安堵した事か。


 名君の婿養子という立場も、重く通武にのしかかった。舅の急死により藩主の座についたのは、大老井伊直弼が暗殺される桜田門外の変の前年であった。


 世は幕末の動乱を迎え、ペリー来航以来吹き荒れる攘夷(外国勢力の排除)の動きは日本中を席巻し、なかなか攘夷を実行できない弱体化した幕府に代わり、帝の権威が上がった。その結果、尊王が声高に叫ばれるようになったのだ。


 もともと深水家は尊王思想が脈々と受け継がれてきた雄藩(有力な藩)である。通武も幼い頃より尊王の教えを叩き込まれてきたのは、言うまでもない。やがて尊王と攘夷は結びつき討幕という大きなうねりとかわっていったのだ。


 尊王の思想をもって薩長と手を組むか、将軍家斉の血筋を重んじ幕府につくか、難しい決断を通武は迫られた。この決断によっては、藩をつぶしかねない究極の選択であった。名君であった先代ならどう判断するか、心の中で何度熟考しても答えは出ない。


 家臣たちも討幕派と佐幕派、二つの勢力に真っ二つに分かれていた。

 江戸藩邸は世子真之介を担ぐ佐幕派が多数をしめ、国元は真之介の病弱を理由に側室が生んだ寅丸を跡取りにおす討幕派が対立するという事態になっていた。藩の跡目争いと佐幕派と討幕派の対立が結びつき、藩政は混迷を極めた。


 参勤交代の緩和で正室が国元へ移住する事が許されても、この闘争ゆえ宮子は江戸を動かなかった。


 この事態を打開すべく通武は、政争の中心となっていた京で、朝廷守護を志し孝明天皇の厚い信任を得て、深水家に恥じぬ判断として、討幕へと突き進むことを決断した。ただし、跡継ぎは真之介とすることで分裂した藩をなんとか一つにまとめる事に成功した。


 強硬な江戸の佐幕派は脱藩し、上野の戦に参加、そのまま東北へと流れていったそうだ。今でもその消息は知れぬ。


 結果、薩長率いる官軍が幕府を倒し、敗れた佐幕派の藩は重い処分を受ける事となった。藩をあげ抵抗を貫いた会津藩は朝敵の汚名を着せられ会津の領地は没収。北の最果てのやせ細った領地をあてがわれ、その地へおいやられた。


 東北の諸藩も奥羽越列藩同盟をつくり新政府に敵対したが、近代的歩兵軍を前に降伏。そしてことごとく重い処分を受けた。仙台藩の分家 亘理わたり伊達家は藩士を引き連れ、私財を投じ蝦夷地の開拓を目指した。今年になって藩主の母自らも開拓地へ向かったと聞く。


 蝦夷地は大変寒く冬には大地が凍り付くという。どれほどの苦労が蝦夷の地で待ち受けているか、通武には計り知れない。


 一歩判断を間違えていれば、広岡藩もそのような境遇に落ちていただろう。無事明治の代を迎えることができたのは、藩主として最善の策をとることができた結果だと通武は思う。だが、宮子はそうは思わなかったという訳だ。


 東京より、一報が届いて通武は唖然とした。何事もなかったように夫婦仲睦まじく共に暮らせるとは思っていなかったが、さすがにこういう事態になるとは予想だにしなかった。


 寅丸は昨年亡くなり、もう子は真之介だけとなった今、いったい東京にいるのは誰だというのだ。赤子の真之介はたしかに男子であったはず。

 出立を早め、疑心暗鬼の心持ちで京へ向かった。跡目争いに巻き込まれた寅丸の死の痛手から、まだ立ち直れない側室は、東京にはついて行きたくないと言った。通武はそれを許し、海辺の別宅をあたえた。



 宮子は嵯峨野の尼寺にいた。そこは竹林に囲まれ、俗世と隔たった静寂な地であった。小さな尼寺には、宮子が東京より連れてきた従者の気配がない。

 通された庵に白い頭巾を被り、墨染の衣を着た宮子が静かに座していた。この尼寺に着いた時より、覚悟していた光景だ。そう思い尼姿の宮子を見て通武は、表情を崩すまいと口元に力をいれる。


「この度は、遠く安芸からのお越し恐悦至極に存じあげます」


 そう言い、深々と頭を下げた。


「東京より連れて来た者たちはどうした?」


 そう言いながら、宮子と顔を合わせるのは何年ぶりになるかと通武は考えていた。宮子の顔は、何一つ変わっていなかったからだ。


「手当を渡し、任を解きました。東京に帰るもの、京に残るもの、国に帰るもの。それぞれの道をいきました」


 通武が「そうか」とつぶやくと、竹林を渡って来た風が二人の間を吹きぬけた。もう晩秋、風は冷たく通武は身をすくめる。


「ここは、いいところじゃな。風も清かで気持ちのいいことだ」


「すべては豊島に託しました。わらわがまねいたこの事態を、許して頂こうとは思いませんが、どうかあの子の事はよしなにお願い申しあげます」


 頭を畳にこすりつけるその姿を、通武はじっと見ていた。記憶の中の宮子は、近寄りがたく感情のない、天女のような女だった。それが今、わが子の行く末を懇願している。もっとはやくこの姿を見ていたら……そう気づいてももう遅いのだ。


 通武は最後に一言「恨んでおるのか」と宮子の顔を見て問うた。お家をつぶす事も、領地をなくすこともなかったが、結局、藩はなくなってしまった。幕府への忠誠を捨て去り、新政府に味方しても同じ結果となったのだ。

 英邁えいまいな父を持ち、将軍の孫である誇り高き宮子には、耐えがたい屈辱であったろう。


 しかし宮子は静かにほほ笑んだ。不謹慎にもその慈愛に満ちた尼姿の宮子を、通武は心底美しいと思った。


「いいえ。ただ、殿様と同じものを見たかっただけやもしれませぬ」


「それは……」


 と言いかけ、通武はその先の言葉を飲み込んだ。どうせ、あたってはいまい。宮子の事など何一つわからない。いやわかろうともしなかった。宮子だけではなく、側室の事も、他の女たちの事も。


 その結果、誰もついては来ない。東京で待っている人もいない。いや一人だけ、名も知らぬ娘が待っている。ああ娘も女ではないか……通武はそう思い、深くため息をついた。


「女はわからぬ」


 そう自分にしかわからぬ声でつぶやくと、膝に手を置き立ち上がった。



 馬車という乗り物は、あっという間に人を運ぶ。思案に暮れる通武は気が付くと、もう下屋敷の表門についていた。


 従者は徒歩でこちらを目指している。通武一人馬車から降りると、田島を筆頭に江戸詰めの家臣がうち揃い、出迎えた。うつうつとした心持ちは馬車の内に捨て置き、出迎えの家臣をねぎらう。久しぶりにみる顔も混じっていた。


「早速だが田島、は豊島の話を聞きたい」

 

田島は承知したと頭を下げ、おずおずと言った。


「京のあたりはいかがでしたでしょうか」


 回りくどい言い方をしているが、宮子の事を言っているのだ。


「尼になっておった」


 通武が簡潔に述べると、あたりからどよめきがおこった。


「そ、それではもうこちらにお戻りになられぬという事ですか」


「戻るも何も。おくはもう俗世を捨てたのだ」


 通武はそう言いながら、捨てられたのは自分ではないかと心の中で自嘲した。くどくどと田島が何やら申しているが、とんと通武の耳に入ってはこない。


 旅の汚れを落とし、居間で何を考えるでもなく庭を見ていたが、人差し指はせわしなく脇息を打ち続けている。女中が豊島の来訪を告げると、ぴたりと人差し指は止まり、はりつめていた緊張を開放し立ち上がった。

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