第五話 赤坂の中屋敷

 内藤の案内で下屋敷へ向かった逆の道順を、正確にたどってゆく。時が気になり、自然と急ぎ足になったが、真之介は遅れずついてくる。疲れを心配する周に笑みを見せた。


「我はあれから庭を歩きまわり、毎日抜け穴にもいった。力をつけ虎視眈々とこの機会をうかがっていたのだ。周さえ見つかればかならず中屋敷につれていってくれると思っての」


 周もつられて笑みをこぼす。二人は同じ思いで抜け穴に通っていたのだ。今二人の機運はぴたりとあった。この好機を逃してはならない。

 赤坂の中屋敷の総門そうもんに、四半刻歩いて到着した。広岡藩の中屋敷であった総門は、すっかり様変わりしていた。


 洋装に銃を手にした門番が門の傍にある番所に立っており、後ろの柱には薩摩藩兵屯所と書かれた看板が高々と掲げられていた。その看板は、意気揚々と屋敷に着いた二人の前に、大きく立ちふさがった。

 簡単には中へ入れそうもない。ここは引き返すしかないのだろうか、そう思案する周の横を、真之介は一直線に門番の前へ進み出た。


「ここは、広岡藩の中屋敷ではなかったか」


 いきなり子供に話しかけられた門番は、怪訝そうに言った。


「ここはもう、西郷さあが薩摩より率いてきた御親兵ん屯所じゃ。なんの用がある」


 薩摩言葉をしゃべる門番に睨まれても、真之介はひるまない。


「ちと中へ入りたい、そこを通せ」


 尊大なもの言いに門番が怒り出すのではないかと、周は胆を冷やした。まさか目の前で仁王立ちする子供が、広岡藩の姫君だと夢にも思っていまい。


「なんちゅうこつをうとじゃ。ここは天子様をお守りすっ兵がおっところ。女子供が入れるわけなか!」


 案の定門番は大声をあげて威嚇した。周は門番が持つ銃に目が釘付けとなり、何時かまえるか気が気でならなかった。真之介と門番の睨み合いが続くその時、声を聞きつけ門の中より体格のよい男が出てきた。

 その男は門番の洋装とは違い見るからに仕立てのよい洋装を着て、胸のあたりで懐中時計の金の鎖が揺れていた。門番は慌ててこの状況を説明した。


「桐野さあ、申し訳あいもはん。変な子供が中に入れろち騒いで、困っちょりもす」


 桐野と呼ばれた男は、じろりと真之介と周を一瞥して言った。


「随分身なりんえ子供たちだ。恐らく、広岡の江戸詰め藩士ん子供じゃろう。ないか忘れ物でもあっとな?」


 そう聞かれ、真之介はすかさず言った。


「お猫のさく姫が数日前より行方をくらませた。こちらに戻っているのやもしれん」


「猫なんに、姫がつくとな」


 桐野は無礼を怒るわけでなく、猫の名が気になるようだ。


「ははうっ……御前様より下されたお猫ゆえ」


「そんた大事なん猫や。じゃっどん見ちょらんな」


 と言いながら桐野は門を大きく開け、二人に入るように促した。


「おいは半刻したや、日比谷ん兵部省に帰る。それまでは、探してんよか」


 それだけ言い、屋敷の中へ消えていった。


「おめたちよかったな。桐野さあはわっぜ子供にやさしか」


 門番はかけた歯を見せにかっと笑い、何事もなかったように正面を向いて門番の仕事に戻った。周は門番に頭を下げたが、腕を強くひっぱられ、真之介に引きずられるように屋敷の中へと入っていった。

 正面に唐破風からはふの車寄せがそびえておりその横を真之介はすり抜け、建物の壁伝いに奥へと進んでいく。書院造の豪壮な御殿を見ると洋装に刀を下げている兵が、大勢廊下を闊歩していた。訓練に使用するまとや大砲が運び込まれ、大名の威信にかけ贅をつくし建てられた優美な屋敷は、戦場いくさばにおける本陣のような殺伐とした場所へ様変わりしていた。


 真之介がどこを目指しているのかわからないが、めくらめっぽうに歩いていく。突然視界が開け、広大な庭園に出てようやく真之介の前進はとまった。軍事調練でもしているのか、遠くから地を揺るがすようなときの声が聞こえてきた。


「なんとか、この屋敷を取り戻してやろうと思っていたがこれでは無理だな。もうここに母上はいらっしゃらないのだし」


 冗談ともつかない言葉はとても弱弱しく、消え入りそうだった。周は腕を組んで大真面目な顔をして言った。


「我々がもっと大きく立派な武士であれば、大砲を打つことができれば、必ず取り戻せました」


 真之介は思わず吹き出して笑った。


「そうじゃ、子供であるからこの状況に甘んじておるのだ。我らが大きゅうなったら見ておれ」


 大人になってもそんなことは、無理に決まっている。二人にだってわかっている。真之介はこの屋敷から出た事がないと言った。つまりこの屋敷が真之介のすべてだったのだ。それなのに泣きごとを言って易々とあきらめては、あまりに口惜しい。できなくてもいい。理不尽には決して屈しない。そう思う事で、ここで過ごした真之介の時間は汚されないと、周は思った。


 桐野が許した半刻までまだまだ時間がある。二人は庭園を散策する事にした。三代前の広岡藩主は趣味人であり、隠居してからこの中屋敷に移り住み庭園の整備に心血を注いだ。その庭園は東園と呼ばれ、数々の大名や幕臣をもてなす場となった。その聞きしに勝る大庭園が目の前に広がっている。


 大きな池を真ん中に配した回遊式庭園であり四季折々の木々が植えられ、ちょうど今紅葉が色づいていた。池にかけられた太鼓橋の上から水面に映る鮮やかな赤を、二人は見ていた。


「実に見事な庭園ですね。このようなお庭を臨めるなんて眼福でございます」


 朱の欄干に手をかけ周は言った。その昔藩士たちは、自由に庭園を見学できなかった。許可が下りなければ、入ることさえできなかったのだ。その許可を得ることは大変名誉な事であり、主君への忠義を胸に、ありがたく拝見したのだった。


「まことに、我も初めて見る」


 周は一瞬怪訝な顔をした。


「我は奥から一歩も出たことがなかったのだ」


 御殿は表と奥に分かれており、奥御殿は正室の住まいである。たしか、田島は昔表御殿で真之介に会ったといっていた。今目の前にいるこの方は誰なのだろう? 

 池の鯉がはね、紅葉の水面に波紋がざわざわと広がっていった。

 半刻は何もしなくともあっという間にたち、門番に礼を言い、中屋敷を後にした。高揚を胸に歩いてきた道を今度は、落胆を背負い帰っていく。突然その重苦しい空気を周がやぶった。


「お猫のさく姫とは本当にいるのですか?」


 いとこと同じ名を持つ猫が気になったのだ。


「今さらそんな話をするのか、おまえは」


 真之介があきれて言う。


「母上の飼い猫だ。たぶん京に連れて行ったのであろう。我はたしかな事は知らぬから、先ほど言った事は嘘にはならぬ」


 真之介の強がった言い方に、周は曲がった背中が伸びたような気がした。


「さく姫はとても美しい毛並みの白猫で、目が金と青なのだ」


「それは珍しい、見てみたかったです」


 そう周が言うと、真之介はぴたりと歩みをとめた。


「そうだ周、見に行こう。もうすぐ父上が東京に来られる。京に行けるよう頼んでみる。もしだめでもまた屋敷を抜け出せばよい。周は京までの道を知っているだろう。いっしょに京までいこう」


 御前様は家財を売り払うほどの覚悟を持って京に行かれた。殿様がそう簡単に許して下さるとは思えない。そうかといって、屋敷を抜け出し、子供だけで旅なぞできるわけもない。旅の困難を周はよく知っている。


 ほんの一刻外出するのとはわけが違うのだ。何一つ京へつながるのぞみなぞない。それでも今は、「はい、お供します」と周は言った。

 周は初めて家族以外の人に期待され、その期待にこたえたいと思った。そして、守りたいと心から強く思った。この外の世界に初めて出た無垢な存在である真之介を。一途に母を求めるその姿を。


 周は母を知らない。佐々家へ行儀見習いとしてあがっていた母は、父の目に留まり、周を身ごもると実家に帰された。外聞をおもんばかっての事だろう。父との年の差は、親子ほど離れていたそうだ。

 母は周を産むと、大店の商家へ嫁にいき、それ以来、母の兄夫婦に育てられていた。伯父は周をことのほかかわいがり、その後生まれた実子と何かわることなく接してくれた。しかし、周が物心つく頃から、


「おまえは武士の子なのじゃけぇ、りっぱなお侍さんにならにゃあいけん」


 そう口にするようになり、七つのころに藩校へ通えるよう父に願い出てくれた。商家で育った周は、藩校ではまさに異人だった。みな口も聞いてくれぬが、ひどいいじめにあうわけでもなかった。ひとえに佐々家の男子という立場が周を守ってくれたのだ。


 誰とも親しむことなく勉学に励み、家で論語をそらんじれば、家族はみな拍手をして喜んでくれた。

 この人たちの期待にこたえ、立派な武士になりたい。今まで周の生きる目標といえば、それだけだったのかもしれない。


 その目標は今変わった。真之介を守り京まで連れていく事。それを成し遂げて初めて武士に近づけるのではないだろうか。

 国元よりはるか遠く歩いてきたこの道は、まだ続いている。周はその思いを胸に小春日和の空の下、真之介と共に歩いていた。

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