第四話 脱走

 それから六日がたった。周は草を刈った庭に出て竹刀をふり鍛錬をするか、国元から持ってきた書物を読むしかすることがない。毎日暇に任せ、周が動ける範囲の場所はくまなく散歩した。それでも一日は長く、下働きの手伝いでもしようと声をかけても、みな遠慮して仕事をくれない。


 豊島はあの方を真之介ではないと言った。しかし、そんな事は関係ない。あの方は自ら真之介だと名乗った。どちらを信じるか明白である。周は豊島に仕えるのではなく、真之介に仕えるのだ。主人の事を信じるのが道理ではないか。部屋の隅に置かれた赤い着物は幻ではない。たしかにそこにあるのだ。

 そう強く自分を鼓舞しても、部屋で一人、時間を持て余していると、育った商家の事ばかり考えてしまう。


「ここは、静かすぎる」


 周のもらした言葉に、誰も返してはくれない。この長屋に暮らすものはまばらで、周の両隣は誰も住んでいなかった。


 広岡の城下にある家は、運河沿いにたち、音であふれていた。上方から瀬戸内の海を渡ってきた廻船は港で荷をおろす。その荷を積んだ高瀬舟は運河をのぼり、各商家の店先まで運ぶ。

 高瀬舟が到着すると人足にんそくのかけ声が威勢よく聞こえてくる。そうすると、奉公人が廊下をばたばたと走り荷受けに出るのだった。活気あふれる賑やかな光景を虫籠窓むしこまどからいとこたちと除き見たものだった。


 志郎しろうは漢字の書き取りを自分がいなくても、ちゃんと一人でしているだろうか? 論語はどこまで覚えただろう。佐久さくは一人で寝られるようになっただろうか。寝られないといってお話をせがむのに、話の途中で周の手を握ったままねむってしまうのだ。

 伯父は、大福帳を目の前に置き、渋い顔をしてそろばんをはじいていることだろう。最近めっきり朝晩の冷え込みが厳しい。伯母は喉が弱いので咳をしているかもしれない。

 

 胸の奥がわやわやと震え、鼻の奥がツンと痛い。そのままごろんと寝転がり周は袖で顔をおおった。おおったそばから、袖はみるみる湿っていく。こんな姿を父に見られたら「武士の子が泣くな」と殴られるだろう。そう思っても、一度堰を切った涙はとまらない。

 ひとしきり泣いて、天井を見上げると随分高く感じられた。あの時の真之介も窮屈な着物から解放され、この天井を見上げていた。


「真之介様も同じように高く感じられたのだろうか? 」


 独り言に自分で返す。


「きっとそう思われていたはずだ」


 大きく伸びをして勢いよく立ち上がった。あの柿の木に登ってみたくなったのだ。

 外へ出て柿の木に向かって歩いていると、表とこちらを仕切る門の前を通った。この向こうに真之介がいる。分厚い木戸を押してみた。動くわけもなく、木目の浮き上がったざらざらとした感触だけが手のひらに残る。


 門に触れる手をなかなか離せずにいると、遠くから馬のいななきが聞こえてきた。周はその方角へすぐさま駆け出した。国元からの早馬かもしれない。

 

 思った通り、旅装束の背の低い侍が、ぬいだ塗一文字笠を下男に投げるように渡し、裾を絞った野袴をばっさばっさと鳴らし猛然と歩いてくる。その横をこれまた必死の形相で、下屋敷の留守居役が走っていた。


「豊島様は殿様に直にお話しするとしか言われず、馬で行列を追いかけたのですが、御前様は会って下されず。こちらはほとほと困り果てていたのです」


「しかし、御前様の行列の費用はどうしたのか? 江戸方にはそのような蓄えなかったはず」


「それが、お道具類や呉服など高価なものはすべて大垣屋に売り払い、八千両を工面されたそうです」


「なに、まことか! 先代から受け継がれた書画骨董類もか?」

 

 言いにくそうに留守居役は返事をした。


「命より大事にされていた宝物、いったい何があったというのだ。して、真之介様はどこに?」


「それが……」


 周が一番知りたい答えが目の前をせかせかと通り過ぎ、二人の後ろ姿は門の中へ吸い込まれていく。

 周はしばらく門の前でうろうろしていたが、侍は一向に出てこない。しびれをきらし、この間真之介がこちらへ侵入してきた穴へむかった。毎日の散歩で北西の隅にみつけていたのだ。


 土壁にあいた子供一人通れる穴の前で周はあたりを伺った。この中を通って表へいってみようか。そう思い穴に手をかけると、やわやわと柔らかいものが手にふれた。朱の色をした鹿の子の飾り紐、ちんころだった。真之介の頭についていたものがここでほどけて落ちたのだろう。周は夕日の色をした紐を拾い、たもとに入れた。


 真之介様はちゃんといらっしゃる。あの着物とこの紐があればお会いする機会もきっとくる。それまで待とう。待つのも小姓の勤め。そう周は思い、自室に帰ったのだった。しかし、その決意を揺るがす話がすぐに周の元へもたらされたのだった。


 あの早馬の侍が、部屋を訪ねてきてくれた。「参った参った」と四十前ぐらいの侍は頭をかきながら周が差し出した座布団に、どっかと疲れをにじませながら腰をおろし、深水家の家令をしている田島だと名乗った。


 明治二年の版籍奉還により大名の称号は廃止され、新たに華族という身分を政府から保障された。深水家も華族となったわけだ。その華族の家政や使用人の監督をするのが家令という役職だった。

 一小姓である周の上役は家令である田島だ。早馬で駆け付け、その日のうちに周の様子を見にきてくれたのだ。


「お勤めご苦労様でございます。佐々周でございます。真之介様の小姓となるべく国より出てきたしだい。しかし、未だなんの働きもできずじまいなのが口惜しいことです。さすれば、ここは一刻もはやく真之介様のおそばに参りたい所存でございま

す」


 そう言って深々と頭を下げた。なんとか、真之介に近づきたい。豊島に直談判しても無下に断られるのは明白。ここは田島に言うのが最も近道ではないかと周は考えた。


「そのことだが……」


 丸顔の田島は顔をゆがめ、ことさら言いにくそうに言葉を濁す。


「一度国元に帰ってはどうか。殿様も不測の事態ゆえ、帰って来いとおっしゃっている」


 周は信じられない心持ちで、田島の言葉を聞いていた。住む屋敷が変わっただけで、真之介がここにいるのは変わりない。このまま国になぞ帰れない。まして、あの家へ帰りたくても帰れない。伯父と伯母は周が任を解かれ帰ってきたら、心の底から喜んでくれるだろう。


 広岡を出立する朝、見送りに来てくれた叔父たちは、大変なお役目だったら無理をせず帰ってくるよう何度も言ってくれた。それなのに、あの時の周は叔父の言葉をありがたがるどころか、すでに東京をめざしはずむ心の枷にしか感じなかった。


「何ゆえですか。私は真之介様にお会いしました。ちゃんと私の事を受け入れて頂いたと思います」


 そう周が言うと田島は再び「参った参った」と言って頭をかいた。


「そなた、あの方の着替えを手伝ったそうではないか、ならばわかるだろう」


「お手が不自由なのはわかりました。ですが、それならばなおのこと……」


 田島は周の言葉を遮った。


「何も気づかなかったと申すのか」


 あきれて周のにぶい顔を覗き込む。ぎょろっとした丸い目で見られても、周には何のことかさっぱりわからず、首をかしげた。


「あの方は正真正銘姫君なのだ。どうも男のなりでお育ちのようだが、女子おなごには変わりない」


 女子……という事は、自分は姫君の着替えを手伝ったという事。襦袢というのは肌着、女子の肌着を見てしまったのか……

 真之介の顔を思い浮かべれば、白いうりざね顔に筆で書いたようにすっと伸びた眉、美しく切れた二皮目ふたかわめ。紅を引いたように赤い唇。どうして自分は女子と気づかなかったのだろう。周の顔色はゆでたたこのように赤くなり、顔は申し訳なさからどんどん下をむいていった。


 周のまわりの女子と言えば、六つになる佐久か、伯母ぐらいだった。奉公人のねえやもいたが、周の外見を気味悪がり近づきもしなかった。藩校でも男子ばかり。自分と同じ年ごろの女子との接点は皆無。そんな周にとって、男子と女子の違いなど気づくはずもない。

 周の狼狽ぶりをみて、田島は咳払いを一つし、さとすように言った。


「まあそういうわけだから、もう小姓として勤めるわけにはいかぬのだ。ここは国元に帰りなさい」


 恥ずかしさで鈍っていた周の頭は、田島の言葉で再び回転し始めた。


「では、嫡男の真之介様はどちらにいらっしゃるのですか。それがわからぬ限り私は帰ることはできません」


「わしもまったく訳が分からんのだ。御前様が京にゆかれ、真之介様と名乗る姫があらわれたと東京より飛脚が参って。もう国元は大混乱だ。昔中屋敷の表御殿で一度だけ真之介様にお会いしたことがあったが、あの時はたしかに男子であったと思うのだが。とにかく何を聞いても豊島殿はだんまりで……」


 田島は、ほとほと弱り切った様子でため息をついた。


「殿様は今頃国元を出立されたはず。一度御前様にお会いになるため京へ向かわれ、その後東京にお越しになる。とりあえず、殿様がこちらに来られるのを待つとするか?」


 周の必死さに心を動かされたのか、田島は譲歩してくれた。なんとか国に帰らずにすんだ。しかしそれも一時のこと。なんとかいい案はないものか。周はまだ呆けた頭に喝をいれ考え始めたのだった。


 それから数日たっても、よい案は浮かばなかった。下男として働く覚悟はあるが、父の立場もあるし、みなが周の扱いに困るのは目に見えていた。

 考えが袋小路に迷い込み二進にっち三進さっちもいかなくなり書物でも読もうと行李の中をあさっていると、あの赤い着物が出てきた。そうだ、これをお返ししなければ。あの方に会えばなにか道が開けるような気がした。


 着物を持って、表へ向かう門までやってきた。返しに来たと言っても、着物だけ持っていかれるだろう。何かいい方法はないか。考えこんでいるうちに、自然とあの抜け穴までやってきた。この着物を自分が来てこの穴から表へいけば、怪しまれずに真之介を探せるのではないか。


 そう思っていると、白壁にあいた穴からにゅっと右手が伸びてきて、続いて人の頭があらわれた。それは驚くことに真之介であった。

 目の前に立つ周を見て、うれしそうに真之介は周の名を呼んだ。この珍事にあっけにとられたが、迷うことなく真之介の手を取り、こちら側へと引っ張った。


「お着物をお返ししようと思っていたところだったのです」


「ほんにおまえは何時もいいところにおる。さすが我の小姓じゃ」


 萌黄色のちりめん地に蝶の柄の小袖を着た真之介が、体に着いた埃を片手で払いながら言った。周も手伝おうと思い手を伸ばしたが、その手を慌てて引っ込めた。この方は姫君なのだ、体に触れるなぞとんでもない。会えた嬉しさはしぼみ、周はもう小姓の任を解かれたとつげた。すると、真之介はふんと大きく鼻をならした。


「なんだ女の小姓なぞできないというのか。我はついこの間までおのれを男子と思っていた。それが、豊島にはとくとくと説き伏せられる。この間来た田島とかいうものにも散々誰だと問い詰められる。我にもわからんわ。しかし、母上が真之介とお呼びになっていたのだから、我は真之介なのじゃ」


「しかし、男子の私は姫様のお世話もできませんし。あまりお役に立てないと思います」


 周は正直に自分の気持ちを言った。


「別に世話は女中にしてもらえばよかろう。我はおまえといると、こう気持ちが軽くなってはずむ。なにか楽しいことが起こりそうで。理由なぞたいした問題ではない。我がおまえといっしょにいたいのだ。だから、そばにおれ」


 そう言って、周の顔を真正面から恥じらいなど微塵もなくみつめる。羞恥から顔をそむけたくなった周だが、その期待と好奇がまじりあった目で一心に見られると目を離すことができない。

 周は力強く「はい」と一言いうと、真之介の顔に得も言われぬ笑みが広がった。


「では、時がおしい。さっそくこの間の続きをしようではないか」


 真之介はもう母親が中屋敷にいないことは聞かされているだろう。でも、そんなことは問題ではない。真之介が行きたいと思うならお供するのみ。

 着物を部屋に置きにいき、周は真之介をある場所へ案内した。途中、下男や下女と鉢合わせしかけたが、建物の陰に隠れるなどして、難を逃れた。


「そういえば、今回も、前回もお付きの人はどうしたのですか?」


 姫君のお付き女中ともなれば、数多くいるはずである。このように身軽に動けないのだが。


「若い女中は、母上が京へ連れていかれた。年寄りには長旅はきつかろうと。それに、京で任をといても、若ければすぐ次の勤め先が決まる」


 周が見た、行列の従者はたしかに若いものが多かった。


「年寄りのお付きなど簡単にまける。今日は、気分が悪いと言ってあるので、我の代わりに座布団が入った布団を見守っておる事だろう」


 そういって真之介はほくそ笑む。その意地の悪さが浮かんだ顔にしわがよった。鼻をつく臭いが風にのって漂ってきたのだ。柵に囲われた長細い建物から、馬のいななきが聞こえてきた。


「なんだ馬で行くのか?」


 馬屋を見た真之介が少しがっかりしていった。もちろんそんなことはできない。馬に乗って堂々と門から出られるわけもなく、なにより周は馬に乗れなかった。


 暇を持て余している間、ずっと抜け穴を探していた。真之介は必ずまた中屋敷に向かうのではないかと思い。表の外塀を探すのは無理だが、こちら側の外塀をくまなく探した。広岡藩も懐事情が厳しいのか、塀が崩れた所は何カ所もあった。その中でも、人目に付きにくく、手の不自由な真之介にも容易にぬけられる穴は、この馬屋の陰に隠れた穴だった。


 江戸の世には、藩士たちの馬で馬屋はいっぱいであったろう。しかし今は数頭の馬しかいない。必然的に馬の世話をする馬番も少ないというわけだ。

 表へ続く穴とこの外へ続く穴へ周は毎日通っていた。何時でも真之介に会ったら抜けられるように。

 周の考察通り、馬屋に馬番はおらず易々やすやすと穴より外へ出ることができた。見ていたのは馬ばかり。


 周は緩やかに下る、中屋敷へ続く道を目の前にして、真之介の手を取り一気に駆け下りたい衝動にかられた。二人の体は助走をつけ軽やかに飛んでいけるだろう。そう思い隣に立つ小袖姿の真之介を見て、顔を赤らめる。

 この間は、若君だと思い込んでいたから何のためらいもなく手を握れた。あの手は柔らかく暖かかった。思えば、家族以外の女子の手を握ったのはあれが初めてだったのだ。


「何をぼーっとしておる。さあ、行こう」


 赤い顔をした周に目もくれず、真之介は真っすぐ前を見て先を急かす。そうだ急がねば、座布団の正体がばれてしまう。周は熱をさますように顔をぶるぶると左右に振った。

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