第三話 若君と
たしかこの風呂敷に包んであったはず。周は行李の中を探っていた。小豆色の風呂敷に見当をつけ開くと、松葉色に染めた羽二重の着物が入っていた。これは、伯父が東京へ行く前にあつらえてくれた晴れ着である。
これから大事なお役目に着くのだからと、身の丈より随分大きく仕立てられた着物を伯母が丁寧に上げをしてくれた。その着物と縞の袴を重ね、真之介の前に差し出した。
「こんなものしかありませんが、御着替えください」
真之介の言葉が足りなかっただけで、着替えが入用なだけの事だった。周の着物を手に取った真之介は、満足そうに言った。
「ほう、よい品ではないか。おまえ父に大事にされておるのだな」
それをあつらえたのは、伯父であると訂正する余裕なぞ今の周にはなかった。自分の居室に若君をお通しするという分不相応な行いに加え、その若君は肩のあたりできれいに切りそろえられた下げ髪、目にも鮮やかな振袖をお召しなのだ。頭が混乱するのも無理はない。
混乱する周の前で、真之介は松葉色の着物を撫でながら話し始めた。
「朝起きると風呂に入れられ、髪は切られるわ、こんな着物まで着せられるわ。おまけに無理やり駕籠に押し込められて、この屋敷につれてこられたのだ。訳がわからん」
男の身で女のかっこをさせられた理不尽に憤りを見せる真之介。大名家の跡取りとして誰よりも武士らしくお育ちになられた若君に対して、あまりに非道な行いである。屈辱に震えるお心を慰めようと、周なりの回答を口に出していた。
「男子に魔除けとして、女子の着物を着せる風習があると聞いたことがあります。幼い頃は女子の方が丈夫ですから。悪いものから身を守るという意味があるそうです」
「なるほど、おまえ頭がよいな。我は今まで中屋敷から出たことがなかった。初めての外出に母上はご心配されたのだろう」
真之介はすっかり納得しているが、この風習は七つまでの男子を女子のように育てるという事で、一時的な魔除けではなかったような……周は自分で言った言葉に納得しきれず、ぐずぐずと考えていた。
「とにかくこの窮屈なものを早く脱ぎたい」そう言って真之介はゆっくり立ち上がった。周は慌てて答えの出ない思考を即座に中止し、無礼にならぬよう出ていこうとすると、背中に真之介の声がささる。
「おい、我は一人で着替えなぞしたことはない。小姓なら手伝え」
大藩の若君ともなると赤子の頃より従者を従えている身分。着替えどころか戸を自分の手で開けた事もないだろう。小姓としての心得の足りなさに、恥じ入りながら慌てて着替えを手伝うため、真之介のそばによった。
若君だとわかっていても金糸銀糸が織り込まれた分厚い帯をとき、振袖をぬがせ下からとき色の襦袢があらわれると、自然と頬が赤らんだ。小姓はどんな時も動じてはならぬ。若君の手となり足となるがお役目と心得よ。東京への旅立ちを前に、父の屋敷へ挨拶に行った時、かけられた言葉を思い出し奥歯をかんだ。
頬の赤身は収まったが、早く襦袢を隠してしまいたくて、着物を真之介の肩にかけ、袖を通すように言うと、右手しか通さない。左手もと促すと、
「我は左手が動かん。おまえが通してくれ」
赤い振袖は袖丈が長く誂えてあったので、そう言われるまで手に気づかなかった。お怪我でもされているのかと、急いで正面にまわり、そっと左手を握ると氷のように冷たく、骨と皮ばかりのいびつな手であった。
「毒を盛られての。それ以来肩より下は動かなくなった。大名家ではよくある世継ぎ争いというものじゃ。命は助かったのだ我は運がよい」
飼っていた猫が腹を下したが助かった。ただそれだけの事。それぐらい軽い響きだった。「そんなひどいこと……」そう思わず口から出かけたが、ぐっと言葉を飲み込み、黙って真之介の着付けを終わらせた。
同情などこの方に似合わない。この方は、憐れまれるのではなく憐れむ側の御身分の方。周はそう思い、心を固く引き結ぶ。
身軽になった真之介は、ごろんと畳の上に寝転がり、大きく片手で伸びをした。二人の背丈は同じぐらいだったので、着物の
ただし、朱鷺色の襦袢は振袖の袖丈なので、松葉色の袖の中でだぶついていたが。
若君とは屋敷の奥でお暮しだから肌が白いのか。周がそう思うほど、真之介の肌は白く透き通る程に美しい。もともと肌の白い周だが、長旅ですっかり色が黒くなり国元にいた時よりも随分たくましくなっていた。
真之介は、肩幅もなく体つきは
「ああ、なんと楽なことか。ほんに女子とはあんな窮屈な物を着ているなぞ信じられん」
天井を見上げ、しみじみという。こうやって行儀悪く寝っ転がっている姿は、同い年の男子にしか見えない。友などいなかった周は初めて友を家に招いた気になり、羞恥心が薄れ口の端が徐々に上がっていく。
ふいに上を向いていた真之介の顔は、横を向き、周を見る。周は、素早く口元を引き締めた。
「ところで、あの赤い実がいっぱいなっている木はなんじゃ。あのような木見たことがない」
柿の木は庭園に植わっているような木ではない。庶民の生活に根差した木。高貴な方は、柿の木も見たことがないのか。身分が違えば、見える景色も違う。改めて身分の差というものを感じた。
「干し柿をお食べになった事はございませんか? あの赤い実を干すと干し柿になるのです」
「あれが干し柿の木か。初めて見た。我は物を知らんな。これからは、おまえがいろいろ教えてくれ」
知らぬことを恥じるわけでもなく、ごまかすわけでもない。下の者に教えをこう。真之介の飾らない性格が、周には好ましく思えた。早くこの方にお仕えしたい。それには、真之介様にもとの居場所に戻っていただかねば。
「私は、豊島様を呼びに行って参ります。若君が迷子になられたと心配されているでしょう」
そう言い立ち上がろうとする周を見て、真之介は右手だけを使い慌てて起き上がり、正座をし改まる。
「ほんにお前に会って助かった礼を言う。しかし、勘違いをしておる。我は迷子になったのではない、おのれの意志で
若君出奔! 長旅の疲れと度重なる想定外の事柄が続き、ついに周の頭の油は燃え尽きた。若君がこの屋敷から出て行かれるのなら、小姓としての自分は終わった……しかし真之介の話は、ここで終わったわけではなかった。
「ものは相談だがどうやったらこの屋敷をぬけられる? おまえならできるだろう」
出奔の手助けをこわれた周。頼りにされていることは喜ばしいが、今現在あたりの静寂を考えれば、厨のものまでかりだされ、表の捜索にあたっているはず。このまま若君を表に引き渡せば、小姓の役目は安泰。しかし、小姓は主の命に絶対服従。
焦げ付いた頭は鈍く動き出し、周の赤い髪はどんどん下がっていく。その迷うさまを見て、たたみかけるように真之介は言った。
「おかしいとは思わぬか。政府の連中は好き勝手に事を運びよる。幕府からの拝領屋敷とはいえ、即刻立ち去れとはあまりにも礼をかくやり方だ。せめて元藩主の父上に承諾をとるべきだ。我は深水家の意地を見せつけるため、中屋敷へ舞い戻り、
出奔の理由を、胸をはりまくしたて、最後に荒く鼻息を一つついた。周は真之介の言葉にいたく感激した。なんとご立派な心構え。役目の是非を心配する自分はなんと小さい了見だ。幼いころより次期藩主として育てられてきたお方は、こうも腹がすわっているものか。
「わかりました。中屋敷まで
「おまえ道がわかるのか? 我は道を覚えようと駕籠の中より目を皿のようにして外を見たが、さっぱり覚えられなんだ。では頼んだぞ。それでこそ我の小姓だ」
二人は顔を見合わせ、同時に口の端をにやりとあげたのだった。
主要な門はすべて警固の侍が固めているだろう。みな御殿のある表を中心に探しているようで、塀で仕切られた周たちが現在いる場所は手薄だった。真之介は塀に小さな穴を見つけ、こちら側にやって来たのだと、得意げに教えてくれた。
今周は真之介の右手を引いて、塀伝いに歩いていた。どこかに塀が崩れているところがあるはずだ。ここに来るまでに見た武家屋敷の事を思い出し、周は脱出経路を探すことにした。しかしあまりに広大な屋敷のため日は暮れ、心細くなった真之介が手を握ってきたのだ。
口では疲れたからと言っているが、明らかに暗闇を怖がっている。竹のように伸びていた背はしおれ、周の手にすがるべく強く握っていた。
とぼとぼと歩く二人の足音が宵闇の中に響く。
「おまえには威勢のいいことを言ったが、ただ母上の元に帰りたかっただけだ。後からゆくとおっしゃったのに、一向にこちらに来ない」
長いまつげをふせ、今にも泣きだしそうな顔をして真之介は言った。薄闇の中に浮き上がる白いその横顔を見ていると、
中屋敷にはもう御前様はいらっしゃらない、と周は知っている。今、真之介に「京に行かれた」と一言えば、この無謀な脱走は終わるだろう。でも、それを終わらせるのは自分ではない。
「きっと抜け穴は見つかります。表の塀に穴があいているぐらいですから、こちらの塀にも必ずあるはずです。闇が怖いのであれば、何か歌でもうたいましょうか?」
いとこたちと歌った、郷里のわらべ歌を思い出し、しょぼくれた真之介を心配して声をかけたのだが。
「子供扱いするな。我は怖いのではない。つかれただけじゃ。こんなに歩くのも初めてなのだ」
まだ強気が残っている。安心し、周が握り合った手に力を込めた時だった。
「向こうに子供がいるぞ」大きな声が闇を切り裂き提灯の明かりが見え、幾人もの男たちがこちらに走って来る。しかし
「走りましょう。まだあきらめてはいけません。あいている長屋に逃げ込めば、やり過ごせます」
そう周は言い、前を向いて動こうとしない真之介の手を強く引いたが、真之介はその手を離してしまった。
「我は走ったことがない。この動かぬ手では転んでしまう」
片手が不自由だと、体のつり合いが取れずたしかに走りにくいだろう。しかし……一人では無理でも、真之介の隣には周がいるのだ。なにより、命を狙われる暮らしに耐えてきた、真之介のわがままを叶えてやりたかった。
「大丈夫です。私が支えます」
離された手を再びつかもうとして、周は言った。周の伸ばされた手を拒むように、真之介は一歩後ずさり、ふるふると首を横にふる。揺れる黒い艶髪に、提灯の光が反射した。
「もうこれ以上みなに心配はかけられない。おまえにも迷惑をかけた」
それだけを言い、周に背をむけ歩いて行った。その
人の波に埋もれた真之介の頭上には立待月が上がり、その
翌日、豊島が周の着物を返しに長屋を訪れた。それをおくとさっさと立ち去ろうとしたが、周は必死に食い下がる。
「真之介様はあれからどうされたのですか?」
周の言葉は耳に届いているのに、豊島は能面のような顔のまま出ていこうとする。
「私は真之介様のお相手をするよう殿様から言われてこちらに来たのです。真之介様に会わせてください」
小姓ごとき身分の者が奥女中を束ねる老女に、懇願するなどもってのほかである。しかし昨晩の闇にとけた真之介の姿をもう一度みたい。若君と手をつなぎ屋敷内をさまよったなどと自分でも夢であったのではないかと思っているのだ。
豊島は戸口で立ち止まり「殿様」という言葉に反応し、くるりと振り返り、
「あの方は真之介様ではございません」
そう一言言って去っていった。周は水に突き落とされ視界も音もぼやけたように、自分の身がたいそう心もとないものに思えた。しかし部屋には豊島に渡しそびれた、目にも鮮やかな真之介の赤い着物が残されていた。
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