第二話 柿の木の下

 後残り五町ほどで中屋敷にたどり着く、というところまでやって来た。城に近い上屋敷は、大名と正室の住まい。城から少し離れた中屋敷は、世継ぎの若君の住まいである。

 その中屋敷へ向かう道すがら、武士どころか、町人にさえ出会わなかった。そんな人っ子一人通っていない通りの前方から砂埃があがり、その中より人影が現れ、隊列を組んでこちらに歩いてきたのだ。


 先ぶれを先頭に、家紋入りの漆塗りのはさみみ箱を担ぐ中間ちゅうげん。まげ姿で腰に大刀小刀を差している護衛の武士。騎馬の武士の後方では、女中が壁をつくり静々と歩いてくる。その女中の壁の隙間から見える駕籠かごは女駕籠で、深水家の家紋があしらわれていた。総勢百人ほどの華やかな行列が突如あらわれたのだった。


 朽ち果てた大名屋敷の前を時代から取り残されたような、いや時代の変革を拒む行列が粛々しゅくしゅくと進んでいく。その光景は、東京と名をかえたこの土地では滑稽で、滑稽であるが力強い意志と武家である誇りを手放さない固い決意の表明であった。

 周は心のおりとなっていたかつて夢見ていたものがむくむくと沸き上がり、通り過ぎていく行列に深く頭を垂れる。

 ようやく顔を上げると、内藤がいぶかしげに行列の後ろ姿を見ていた。


「深水家のお方であの駕籠を使用できるのは、御前様(奥方様)しかおられない。御前様は中屋敷におられるはず」


 物見遊山とはいいがたい行列であった。二人は胸騒ぎを覚え中屋敷に急いだ。広岡藩の中屋敷は壁も崩れず体裁は整っているが、やけに閑散としていた。

 裏門から入り、江戸詰めの家臣の詰所に入ると、留守居役があわただしく下男と下女に指示を出していた。内藤は留守居役と懇意らしく、呼び止め話を聞いている。

 

 その間周は初めて入る藩邸の中を好奇心に目を輝かせながら、きょろきょろと辺りを見ていたのだった。

 裏門は家臣が使う門である。周が入ることができる場所に、きらびやかな御殿があるわけもなく、質素な建物しか建っていない。それでも、藩邸に入るだけで参勤交代に付き従ってきた勤番侍の気分を味わう事ができた。

 内藤が顔をくもらせ、速足で戻ってきた。


「数日前に政府の役人が来て、この屋敷を明け渡すよう通告したそうです。真之介様は青山の下屋敷に移られたそうですが、御前様はなぜか京へ行くとおっしゃって、国元の許可のないまま出立されたそうです」


「なぜゆえ、もうすぐ殿様がこちらにお越しになるという時に? 京まで出迎えに行かれたのでしょうか」


「わかりません。とにかく事情を知っている老女が真之介様について下屋敷に向かったそうです。我々も向かいましょう」


 先ほど入った裏門から出て、屋敷の隙間の狭い路地をいく角もまがり、大山道に出て西へ向かった。道沿いには茶畑に加え桑畑まで広がっている。

 

 政府は武士の人口が激減し、荒廃する東京の打開策として明治二年に桑茶政策を出した。輸出用の茶と生糸の生産に必要な、桑の葉の栽培を奨励し、植え付けを希望する者には土地を払い下げた。

 しかし元は屋敷の跡地。いきなり開墾しても作物が育つ肥沃な土地になるはずもない。うつくしい田園風景とはいいがたい青山。夜になると闇深く恐ろしくも寂しい場所に、下屋敷は立っていた。


 長屋門を通り藩邸内に入ると、中屋敷とは打って変わって、蜂の子をつついたような騒ぎの渦中であった。急遽真之介様がこちらにやってきたゆえの、騒ぎなのだろうか。周の不安そうな顔色を見た内藤は、ぽんぽんと肩を抱き明るく言った。


「無事に真之介様はこちらに着かれたのですよ。下屋敷は国元からの物資を、貯蔵しておく事が主なお屋敷。突然の世子のおこしに戸惑ってるのでしょう」


 ちょうどそこに身なりのよい女中が通りかかり、内藤は周の身分とこちらに来た事情を説明した。女中は周を見てぎょっとしたが、あわてて表情を取り繕うとすぐに奥へと消えていった。

 周はひとりうつむき、髪をなでつけていた。


 ほどなく、髪にちらほらと白いものが混じり、眉をそり落とし能面のような顔の、見るからに位の高い奥女中がやってきた。周を見ても、顔色一つ変えずその能面は言った。


佐々さっさ様のご子息、周殿でございますね。お話は伺っております。 わたくしは御前様付きの老女、豊島とよしまにございます。今日よりこちらの屋敷に移りました。どうぞこちらに」


 この能面がすべての事情を知っている老女であった。老女とは女中の役職名で、高位の役職である。

 老女の口から周の名がでて、ようやくこの長かった旅の終わりを実感できた。急な屋敷替え、小姓の話もなしになったのではないかと不安に思っていた。安堵する反面寂しさも、ほんの少し心の片隅にひっかかる。

 旅が終わるという事は、内藤との別れを意味するからだ。


 周には年の離れた二人の兄がいた。長兄は戊辰の戦で官軍に従軍し、京の伏見で命を落とした。次兄とはあまり顔を合わせたことすらない。

 実の兄たちより昵懇じっこんとなった内藤のおかげで、つらい旅もずいぶん楽しいものへと変わった。異国の言葉である英語も、教えてもらった。


 周の中にある世界は狭い。海を渡れば世界は広がっている。そう内藤に言われ、小さなの胸に雄大な海を渡って来た風が、吹きぬけた気がしたのだった。

 心から謝辞をのべると、内藤は寂し気に笑う。


「下級藩士の私が、佐々様のご子息と親しく旅ができるなぞ、光栄でした」


「そんなことおっしゃらないでください。私なんて庶子の三男坊です。それに商家に育った身。今回の事は身に余る出来事で」


 頼りないかわいい弟でも見るように、目じりを下げて内藤は言った。


「周さんのさとさも素直な性格も十分な美徳です。もうこれからは、生まれなんてあまり関係のない世の中になるやもしれません。だからどうか自信をもってお勤めに励まれませ」


 内藤の激励の言葉に、自然と目頭が熱くなる。そんな周を見て、ますます内藤の目じりは下がり、目に光るものがにじむ。

 それを隠すためきびすを返し足早に去っていった。これから出仕する大蔵省へ挨拶に行くと言って。

 このやり取りをじっと脇で見ていた豊島は、感動の別れの余韻をぶった切るような冷たい声で言った。


「さ、案内あないいたしましょう。わからぬことは何なりとおっしゃってください」


 しかし、気軽に話せるほどこの老女は親しみやすくも、やさし気でもなかった。余計な事は聞くな、と口にしなくとも気配で周に悟らせるだけの迫力を持っている。

 この下屋敷はざっと見て一万坪。南側に面する表に庭園と御殿があり、表と塀で仕切られた残り半分に、多くの物資を貯蔵する蔵、馬屋、藩士の居住する長屋がいくつも建つ家臣の場がある。


 まだ幕府の屋台骨がゆるがぬ最盛期には、江戸詰の定府じょうふ侍、国元からの勤番侍と会わせて千人を超える家臣がここで働いていた。さぞここは人がごった返すにぎやかな場であっただろう。


 周たちが入って来た長屋門付近は人の出入りもあったが、奥へ行くにつれ人はまばらに静まり返っていた。後ろを振り返らない豊島の片はずしに結われた頭を見失わぬよう、後をついていく。


 藩士の住居の中でも、上級藩士がつかう長屋に周は案内された。小さな玄関の前で豊島に礼を言い、中へ入る。先ほど豊島に渡された桶の水で足を洗い、三畳の小上がりにあがる。

 障子を開けると六畳の居室は明るく窓辺には文机がおかれていた。奥の障子を開けると手入れのされていない小さな庭までついている。草の合間に紫の萩の花が申し訳程度に咲いていた。


 左側のふすまを開けるとそこは納戸で、国元より送られた荷物が置かれている。中屋敷へ送られた荷物であったが、ちゃんとこちらに移されていた。


 今日からここで一人の生活が始まるのだ。こんな立派な役宅まであてがわれ、はやくそれに見合う働きをせねば。明日には真之介様へ目通りが許されるだろうか? どんな方だろう。いや、お人柄など関係ない。立派に役目をまっとうすればよいだけ。


 殿様から直々にお役目を頂いた自負が先走りする。しかし今の周にはすることがない。とりあえず、旅装束を脱ぎ行李の中にあった長着と袴に着替えた。肩ひじ張ってはいるが、安心と疲れからつかのま文机に突っ伏し、うたた寝をはじめてしまった。


 ぐずぐずと眠気が覚めない意識の向こう側から、人の声がざわざわと聞こえてくる。自分はまだ旅の途中で、いつもの旅籠の騒々しい朝だ。夢の中では東京についていたのに。頭の隅にこびりつく夢を引きずりながら目を覚ますと、目の前の障子が橙色に染まっていた。

 今何刻なのだろう朝か夕か? そう思い混乱したが、文机の木肌を頬に感じ、ようやくここは東京の下屋敷だと思い出した。


 障子を少し開け、外の様子を伺う。夕餉の支度のいい匂いがしてきた。ここにいて夕餉にありつけるのだろうか? 武士は食わねど高楊枝ではあるが、腹がへってはいくさはできぬである。

 この長屋に厨はついていなかった。昼に団子を食べた切りの腹を抱えとりあえず、周は草履をひっかけ玄関より外へ出てみることにした。


 先ほど、老女に案内されこの長屋まで来た道のりを頭に思い浮かべ、大きな井戸が傍にあり、女中たちがせわしなく出入りしていた建物がくりやであろうと推測した。その場所へ迷うことなく周は入り組んだ敷地内を難なく歩いて行った。


 しかし、広い厨をのぞいても誰もいない。二十畳はあろう板間には箱膳がずらりと並べられている。土間に多数あるかまどの一つに、くつくつと煮えた鍋がかけられたまま。中に入っている汁物からは、魚のいい匂いが漂ってくる。


 しかし、ここで勝手に食べるわけにはいかない。周の行動には自分の責任と同じくらい重く、父の立場が関わっている。

 厨に未練を残し、人を探すため再び外へ出た。蔵の陰、長屋の中、人の気配がしない。ここに到着した時見た、大勢の家臣たちはどこへ行ったのだろう。


 もう夕暮れ時。見上げる空は夕焼けに染まり真っ赤な日が、瓦屋根の向こうに沈もうとしていた。その沈む落日が美しく、周は長い影をひきながら、その場に立ちすくむ。

 赤くうるんだ日が屋根に隠れ半分になった頃、ふと後ろを振り返るとそこに大きな柿の木が立っていた。大きく伸びた枝には、赤くうれた柿が鈴なりにぶら下がっている。


 国元では秋になれば、いとこたちと競い合って柿の木に登り実をもいだ。それを伯母と一緒に皮をむき軒につるすと、年の瀬には真っ白に粉を吹いた干し柿ができあがる。その甘さを思い出し頬がすぼまった。


 自分はもうお役目も頂き一人前である。そう先ほどまでは思っていた周だが、柿の木を見ると変わらず木に登りたくなり、伯母の干し柿が恋しくなる。

 この木は登りやすいだろうか? そんなことを考えながら目線を下げていくと、木の根元に夕日の片割れが落ちていた。いや、そんなはずはない。夕日と見まごう程赤い着物を着た子供が立っており、柿の木を見上げていたのだ。


 遠目ではっきりとは見えないが、金糸で刺しゅうを施された振袖は見るからに豪華で、どこかの姫君に間違いない。

 なぜこのような、下々の場に高貴な姫君が一人、おいでになるのだろう? そんな素朴な疑問が頭をかすめたが、近づいては失礼になる。そう思い一歩足を引くと、草履の下でじゃりっと砂がこすれる音がした。

 その刹那その方と周は引き合うように目があった。射すくめられるほどの強い眼差し。竹のようにまっすぐ伸びた立ち姿、尊厳にして犯しがたい雰囲気は、周の知る女子おなごのものではなかった。


 それに加え、深窓の姫君というものは、そそと膝がしらをくっつけてお立ちになる。にもかかわらず、この方の足は男子のように、ぱっかりと開きつま先は外を向いている。


「おまえ異人か? 随分髪が赤い」


 よくとおるかわいらしい声に反しぶしつけな言葉を投げつけられ、喉の奥がずしんと重くなる。今夕日に照らされた髪はさぞ、燃えるように赤いことだろう。


 母の実家は長崎から広岡に移ってきた商家である。「先祖に異人の血が混じっとるのかもしれん。周は先祖返りしとるだけじゃ」周がいじめられ泣きながら自分の外見を嘆くたび、伯父は決まってそういい周を慰めた。


 周は思わずいつもの癖で髪を撫でつけ、その場から逃げ出そうとした。しかしひるむ心根に反し、足は姫君を目指し前進する。はっきりとお顔が分かる距離まで近づき、手のひらをぎゅっと握り締めた。もう、異人となじられて泣いていた自分ではない。大人でもきつい道のりを歩き、ここにいるのだ。ここに泣きに来たのではない。お役目を果たすため来たのだ。


「私は、異人ではありません。元城代家老 佐々政次さっさまさつぐが子、周にございます。そういうあなた様はどこのどなたでございますか?」


 周の反撃にひるむわけでもなく、その方はまだそり落とされていない弧を描くうつくしい眉を、片方だけ上げた。


女子おなごのようにかわいい顔をしておるのに、随分威勢がよいの。われにそのような口を聞いた奴ははじめてだ」


 はきはきとした動じないものいいが周を冷静にさせたが、もう遅い。ここにおられるという事は、深水家に縁のあるお方。主家のお子様に無礼を働いたにひとしい。

 姫君の顔を真正面から見るなぞ、切腹ものの所業である。周のよく回る頭から血の気が引いていく。反攻から一転。青くなる周の姿を侮蔑の眼差しで見るわけでなく、面白がるように口の端をあげその方は言った。


「我は広岡藩主深水通武が嫡男真之介である。おまえの事は聞いておる。小姓になりにわざわざ国元から参ったのであろう。ちょうどよい所でおうた。早速だが頼みがある」


 真之介はそう言って、もはや完全に思考は停止し、氷のように固まっている周に向かって、右手を突き出し言った。


「おまえ、その着物をぬげ」

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