あまねく空を~明治旧大名家ものがたり

澄田こころ(伊勢村朱音)

第一章 天高し

第一話 いざ東京

 


 時は明治。二六〇余年続いた徳川幕府を瓦解がかいせしめた維新という大きな嵐が、日本列島を吹き荒れ、花の大江戸が東京と名を変えてから四年。


 数えで十二になるあまねは東海道第一の宿である、品川宿にいた。日本橋から始まる東海道、その最初の宿場。東京を出発した旅人は、ここで見送りの者たちと酒宴をもうける。反対に一路東京を目指し、長い旅路をやってきた旅人は、旅の終わりを目前に、ここでひと時の休息を取り、旅装を改めた。

 

 そんな行く者と来る者が交差する街道沿いの一軒の茶屋。その埃っぽい縁台に座り、じっと周が見ているのは草鞋わらじをはいたおのれの足。旅立つ前には、藍色をしていた脚絆と足袋はすっかり薄汚れ、色あせている。


 それらをすべて取り去り、新しい浅黄色の脚絆と足袋に付け替え、先ほど茶屋の隣の履物屋で買った、まっさらな草鞋に履き替える。ただそれだけの事だが、背筋がのび、これまでの旅の疲れも吹き飛ぶようだった。


 足元を覗き込む日に焼けた顔に、白い歯がこぼれる。ピーヒョロローと鳥の鳴き声が頭上から降り注ぎ、思わず顔をあげ空を見た。雲一つない群青の空が、高く高く広がり、輝く日の光をまともに顔へ受け、目を細めた。


 まだ残暑厳しい八月に安芸の国をたち、ようやく東京の玄関口品川宿にたどり着いた今、秋の気配色濃い九月となっていた。

 御一新といっても、人々の暮らしは江戸の代と何ら変わりない。旅は駕籠か徒歩が当たり前。蒸気船に乗れるようなお方は、限られている。


 武士の子である周も例外ではない。雨の日も風の日も、東京を目指し歩き続けた。東海道一の難所、箱根峠では駕籠にのったが、自分の足ではるばるこの地までたどり着いた事に変わりはない。


 吉原宿の松並木より、悠然とそびえる富士の山を望んだ時は、旅の無事を祈願し山に向かって手を合わせた。

 秋晴れの品川の空に一羽の鳥が大きな弧を描き、自由気ままに飛んでいる。周は鳥の滑空する姿を、しばし見ていた。


「どうしました。ぼーっと空を見て。つかれたのですか?」


 周の隣には二本差し姿の侍が座っていた。周のお供である内藤利光ないとうとしみつ。頭は散切り、木綿の小袖に裁着たっつけ袴をはいているが、足元は西洋人がはくブーツというものをはき、団子をほおばっている。


 当節、まだまだこのようないで立ちは珍しい。異人かぶれと子供の二人連れ。かなり目立つ旅人だ。茶屋の前を通る人々が、先ほど内藤が手拭いで埃をぬぐい、ぴかぴかと黒光りするブーツを珍奇な目で見ていた。


「違います。あの鳥があまりにも気持ちよさそうに飛んでたので」


 周が空を指さすと、内藤も団子を手に持ち空を見上げた。


「あートンビだ。周さんの髪はとび色だから親近感をもったんですね」


 内藤の冗談を聞き、周は耳の上で結っている髪を撫でつけた。そうしても髪が黒くなるわけではないが、もう癖になっている。周は生まれつき髪が茶色く肌は雪のように白い、異人のような外見をしていた。白い肌は日に焼け目立たなくなったが、この髪はどうしようもない。内藤のブーツと同じように、珍奇な目でこの髪も見られていた。


 内藤に会うまで、周の多々ある劣等感の中でこの外見が一番の憂いであった。初めて会う人はみなぎょっとした顔をし、そのあと目線をそらす。そういう様子を見るたび周の心はキュッと萎縮し、その場から消えてしまいたい衝動にかられた。

 しかし内藤は違っていた。初めて周の外見をほめてくれたのだ。


 藩命により、イギリスに密航留学をした経験を持つ内藤。幕末、外国への渡航は禁止されていた。西欧諸国の脅威に立ち向かうには西欧を知らねばならぬ。広岡藩、藩主深水通武ふかみみちたけの命により五人の優秀な若き藩士が選ばれ、清国経由で密かにイギリスに渡った。


 みつかれば死罪。まさに命がけの海外留学だった。この時内藤は若干十七。今の周と五つしか違わない。


「私は常々来世ではトンビに生まれ変わりたいと思っているのです。トンビは、猛禽類で生態系の頂点に君臨している。天敵のいない空を自由に飛び回れる。楽しいだろうな」


 モウキン類? セイタイ系? 周が聞いたこともない言葉の意味を教えてもらおうと、内藤の顔を見た。すると、羨まし気な顔どころか、空に消え入りそうな横顔だった。来世を考えるなぞ老人のすることだ。内藤はまだ三十にもなっていない。

 閉鎖された日本を飛び出し、新しい世界を見てきたはずの内藤なのに、この現世において居場所がないのか。周はトンビを見ている虚ろな顔から、目をそむけた。


 内藤がイギリスから帰国すると、日本はすっかり様変わりしていた。幕府は瓦解、武士という身分さえなくなっていた。下級藩士である内藤を取りたてた藩主通武に報いるため、一心に異国で広めた見聞を生かそうとしていた矢先、すべては無となってしまった。


 強い風が吹き舞い上がる砂埃、二人が座る縁台の足にカサカサと紙が引っかかる。周が拾い上げたその紙にはびっしりと、文字がすられていた。


「新聞とは珍しい。横浜で買ったものをここで捨てたのでしょう」


 内藤は、その一尺四方の紙を見て言った。幕末より発行されてきた新聞は上流階級の読み物でまだまだ一般的なものではなかった。

 その見出しに「廃藩置県断行」の文字が躍っていた。


 そもそもの二人の旅の始まりは、七月に突然発布された廃藩置県のみことのりであった。広岡藩は幕末の動乱を乗り越え、明治二年の版籍奉還により、藩主深水通武ふかみみちたけは知藩事となった。


 領地や領民を一度天皇に返し、再び天皇から支配することを認められたのだ。これでは、藩主の時と何ら変わりがないと思うが、知藩事は世襲ではなく一代限りの政府から任命された地方長官という扱いだった。


 それでも通武は数々の藩政改革を断行し、成功しかけていた。その尽力虚しくも、地上から広岡藩は消滅してしまったのである。広岡藩は広岡県と名をかえ、政府からの役人、県令が派遣されることとなり、旧大名は東京へ居住することを命じられた。


 そんな折、東京移住の準備であわただしい通武の屋敷に周は呼び出され、世継ぎである真之介の小姓となるため、東京へ行くよう通武から言い渡されたのだった。


 知藩事となってから通武は、城外の別邸に移っていた。その別邸の表座敷、上座に座る通武の前で周は平伏し承諾の旨、緊張に震える声で言上した。しかし元来の好奇心ゆえ、あろうことか顔を上げ尊顔を拝したまま、なぜ自分が選ばれたのか問うてしまった。


 隣に座る元家老、今は参事さんじである父が息子の無礼を𠮟責すると、通武は朗らかに笑った。顔色一つ変えず真っすぐ周を見る通武に、畏敬の念を抱き、そろえて置いた手が畳の目をこすった。


「ほんにそなたの目は澄んでおる。どこまでも見通せるようだ。そして、自分の気持ちに正直なたちとみえる」


 そうであろう? と言いながら眉を上げて笑む通武に、周はうつむいて顔を赤らめ返事をした。その返事に満足したのか、通武は話し始めた。



 東京移住に際し一番の気がかりが、正室の宮子と真之介のことであった。幕末の目まぐるしく変わる政争に巻き込まれた広岡藩は、藩の存亡をかけ京と国元を藩主自らが行き来し、難しいかじ取りをおっていた。明治のになり、知藩事となっても多忙を極めた。


 その忙しさから東京にいた宮子と真之介のもとへは、ついぞ行けずじまい。それは、真之介の妹姫が五つの年に流行り病で亡くなった折も。

 ようやく、共に暮らせるようになるのだ。今さら父親らしいことをしても薄情なことに変わりはないが、真之介に年の近い話相手をつけてやろうと思ったのだと。


 真之介は周と同い年。東京は治安が悪化し外出もままならず、奥女中に囲まれて育ち、さぞ窮屈で寂しい思いをしているだろう。周のその明朗で闊達かったつな性格をもって真之介を慰めてやってほしい。



 そう通武から直々に言われ、あまりにも身に余る言葉であると、周は再び身を縮こまらせ深々と平伏したのだった。


 内藤と周は休憩を切り上げ、昼には品川を出発し、海沿いの街道を北上した。日は高く、少し歩くと汗がジワリと額に浮いてくる。旅人たちが行く松の並木道を海風が通り抜け、しばしの心地よさに二人は顔を見合わせ、笑いあった。 


 芝の増上寺あたりに来ると前方にかすかにお城の姿を望むことができた。その姿は小さいが周にとっては唯一無二の絶対なる存在。幼い頃から散々大人たちから聞かされてきた、千代田のお城の勇壮な姿。その話を聞くたび、その城の主、武士の棟梁である公方様に思いをはせた。小さな胸はその方の事を考えるだけで、大きく膨らんだものだった。


 しかし、もうあのお城に公方様はおられない。かわりに年若い天子様が京よりおこしになり、この国をおさめていらっしゃる。


 周の歩みは、どんどんと早くなった。一歩一歩、足を動かすほどに、旅の終着地へと近づいていく。内藤が後方から「おーい待ってくれー」と声をかけても、気持ちは止められない。振り返り、せかすように手を振り返した。ここまでくれば、広岡藩のご正室とご嫡男がいらっしゃる藩邸はもう目と鼻の先。


 進路を西に変え、赤坂見附の傍までやってきた。見附とは江戸城の警備の為におかれた城門である。この辺りは大藩小藩の大名屋敷が多々軒を連ねていた。


 江戸の街は、壮麗な武家屋敷の白壁と灰色のいらかがどこまでも続き、まるで大海のごとき景色だと周は聞いていた。ここ赤坂にも、殿様の参勤交代のお供として国元から出てきた勤番侍の住居である長屋塀が一万坪を超える屋敷のぐるりを取り囲み、巨大な表門が堂々と建つ。そんな広大な屋敷がいくつも建っていた


 月三回と定められた登城日には表門から、きらびやかな登城行列が長い隊列を組んで出てきた。同じような行列は二百ほどもあり、先を競うように城の大手門を目指し、広い道幅を埋め尽くした。まさに日の本の中心であった江戸。


 周の歩みもさぞ誉れを胸に軽やかな足取りであるはずだったが、意外にも遅く重くなる一方だった。

 今周の眼前には、緑の畝が美しい茶畑が広がっていたのだ。武門の栄誉を具現化したような、贅をつくした屋敷など今は一つも残っていなかった。


 よく見ると畑の境には崩れた壁の石垣だけが残っている。ぽつんぽつんとのこる屋敷の瓦はくずれ落ち、長屋塀は朽ち果て、大きくあいた穴から中を覗きこむと、広大なかつての庭園は草がぼうぼうで荒れ放題。草むらの奥に何やら獣の気配さえする。


「あんまり身を乗り出すと物乞いに引きずりこまれますよ」


 いたずらっ子をからかうように、内藤は一文字笠をひょいとあげ笑うと、年の割に幼く見える顔に白い歯がこぼれる。

 周の肩はびくっとあがり、不貞腐れた声で言った。


「本当にここは江戸だったのですか?」


 周にとって、夢にみた江戸の街とはあまりに違いすぎ、愚痴の一つも言いたくなっても仕方がなかった。

 幕府が瓦解するまで周の夢は、父のように殿様の片腕として働き、参勤交代に随伴し江戸へ上る事だったのだ。周は実際に殿様の行列を見たことはない。しかし、伯父が何時も言っていた。颯爽と馬に乗り、先代の殿様のお駕籠を警固する若き父の姿を。


「幕末に参勤交代が緩和され、各大名家のご正室、ご嫡男は人質から解放され帰国。明治になり江戸に取り残された武士たちは方々へ。それ以来、人が減りどんどんさびれていったのです」


 空き家となった大名屋敷はまき代わりに壊されたり、物乞いや夜盗の住家になっているところもあるそうだ。


「では、わが藩の御前様(奥方様)はなぜ江戸に留まられたのでしょう?」


 思ったことをすぐ口にする。年少のものだけにゆるされる、無邪気な特権を活用して周は聞いた。


「嫡男の真之介様は、お体がご丈夫でなく、姫様がお生まれになったばかりでしたから。長旅を避けられたのかもしれません。私はその頃、異国に行く準備に追われてまして、詳しくわ……」


 いつも歯切れのよい内藤の口がにぶる。しかし周はその言葉を素直に信じた。


「わが藩は新政府側についていたとはいえ、官軍が江戸に攻め込んできた時は、さぞ怖い思いをされたでしょうに」


「上野では旧幕府軍と官軍の戦いがあり、大砲の音が江戸中に響いていたそうです」

 

周はこれから、お仕えすることになる真之介と、その母君に思いを巡らせていた。


「大砲の音にも音を上げないとは、御前様とはとても豪気な方ですね。内藤さんから聞いたヴィクトリア女王のようです」


 この長い旅の間、周にとって内藤から聞く異国の話は興味がつきず、初対面で旅を始めた二人の距離を大いに縮めてくれた。今では兄のように慕っている。


 周は通武と共に東京に上る予定であった。しかし、領民が世情の急変に不安を感じ、今まで通り通武を県令とし、広岡を治める事を政府に願い出、出立を阻止しようと別邸を取り囲む騒ぎがおこったのだ。

 当然通武の出立は延期となり、周だけでも真之介の元へと、新政府に出仕が決まっていた内藤を供につけ、送り出したのだった。


 内藤は帰国後、藩庁に勤めていたが、藩がなくなると同時に職を失った。イギリスで知り合った長州藩士の伝手つてで、なんとか職にありついたという次第であった。このように職が見つかるものは少なく、大半の下級藩士は働き口を失い途方にくれていた。通武はその窮乏を救うべく、苦慮した結果藩士を東京に連れていく事を決断をしたが、一部の限られた藩士のみであった。

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