第二章 子の星

第一話 馬車の中

 周がひろの学友となってより、年が明け二人はともに十三となった。そんな明治五年の春。

 通武は、宙と共に馬車に乗っていた。ちょうどかつての江戸城外堀の内、大名小路と呼ばれていたあたりに差し掛かった。ここにあった大名屋敷は打ち壊され、一帯は原野と化していたが官有地とされ、ちらほらと政府の施設である洋館がたっていた。


 宙は馬車の窓から興味深く、この景色を眺めていた。髪が随分長くなったが、まだ髷を結うほどではなく、束髪そくはつに結い、束ねた所に、赤珊瑚のかんざしを挿していた。


 この娘は中屋敷を出るまで、外を知らずに育った。通武が東京に来てからは、寺社仏閣、宙の体に負担のかからぬところへ連れ出した。見たこともない景色を、宙は息をのむように眺める。その目を輝かすさまを横目で見て、通武はそっと口元を緩めるのだった。


 通武は不自由な藩主時代を思い出す。毎月一日、十五日、二十八日が定められた登城日であり、この日は何があろうと城に向かわねばならぬ。遅刻も厳禁。上屋敷から城まで目と鼻の先であるが、登城時刻の二時間前から屋敷をでる。江戸在府中の大名が一斉に動き出すためその混雑たるや凄まじい。

 

 遅々として進まぬ行列を駕籠の中、じっと待つのである。無事拝謁を終え屋敷に帰ってくると精も近も尽き果てた。屋敷にいるからと気を緩める事は出来ない。朝起きる時刻から寝る時刻まで一日の予定はすべて決められ、それを遵守せねばならなかった。気分次第で予定を変えるなぞもってのほかである。


 財政苦しい藩の懐事情を考えると、町人のように春は花見、夏は隅田川の花火と、浮かれ歩くこともできない。ひたすら邸内に閉じこもり、武術の鍛錬、書見に明け暮れる毎日だった。


 今自由な身となり、宙と出かけるのが何よりの楽しみとなっていた。先日は、芝の増上寺へ参拝した折、愛宕山まで少し足を伸ばし山頂を目指した。


 急な石段をさけ、緩やかな坂道を選んだが、宙にはつらかろうと、従者におぶらせようとした。しかし、宙は歩くと言って聞かず、そのまま山頂まで一人で登りおおせた。傍らに周がいたことは、言うまでもない。

 流れる景色から通武に目を移し、宙は言った。


「今日も馬がよかったです。この間の増上寺へは、馬で参ったではないですか」

 春にしては、暖かい日よりだったため、通武は宙を前にのせ馬で参ったのである。馬を宙はたいそう気に入ったようだ。


「今日は物見遊山ではなく、正式な場に向かうのだから馬はのう」

 宙のわがままを、通武は曖昧にかわす。


「周は今日、馬で向かっております。我も周といっしょがよかった。周は乗馬がぐんぐん上達しております。この間も練習の時いっしょに乗ったのです」

 通武はその言葉に、少々引っかかる。


「そなた周の乗馬につきおうておるのか?」

「はい、豊島の許しがある時だけですが。馬番の林もいいと言ってくれました」

 聞いておらんぞ。通武は心の中でぐちる。そんな不貞腐れた気分を微塵も感じさせず、務めて平静を装い言った。


「父のように大人と乗るのはよいが、周ではまだ危ないのではないか?」

「そんなことはありません。もちろん、父上のような大きな馬ではなく小柄な馬です。広岡より連れてきた馬でやさしい気性の馬だと林が申しておりました」


 馬番の林は広岡より連れてきたもの。馬の扱いに殊の外たけておるが、馬の数もめっきり減ったので仕事のしがいもないであろう。通武は、東京へ連れてきた家臣の処遇に頭を悩ませているのだった。


「ちゃんと周が後ろから我を抱きかかえるように、手綱をしっかり握っています。その力強さは父上には劣りますが、なかなかです。我は安心して身を任せる事ができます」

 二人には、強い信頼関係が築かれているようで何より……そうは思うが。通武は咳を一つした。


「そなたとこうして二人きりになることは滅多にない」

 今馬車の中には女中も従者もいなかった。普段通武や宙のそばには、四六時中使用人が侍り、一人きりになれる時間なぞ、皆無である。


「我が家は寅丸がなくなり、父の子はもうそなたしかおらん。それがどういう事かは、わかるの」

 通武の言葉に、利発そうな目をきらきらさせて答える。


「はい、もちろんでございます。お家を守るは武家のならい。我は立派な当主となるよう励みまする」

 半年前ならばその答えで正解であったが、今は違う。宙は女子なのだ。女子は当主にはなれぬ。通武の顔が一瞬曇った事に気づいた宙は、慌てていいなおした。


「忘れておりました、我は女子でした。女子は嫁にいき子をなし、夫となる殿方に従い、お家の繁栄を陰ながら支える事が勤めでございました」

 少し胸をはり得意そうに言った。その様を哀れに思うは、通武の勝手である。


「そなたが嫁に言っては、誰が深水家を継ぐというのじゃ」

 笑いを含む声で言うと、宙は以外そうに言った。


「父上は後添えを、迎えられるのではないのですか? 父上はまだお若い。これからお子などたくさんできる、と豊島が言うておりました」


 娘からあけすけにこのような事を言われると、返す言葉もない。たしかに、今年になってから、田島にせかされているのは確かだ。候補の名も幾人か聞かされた。しかし、再び妻をめとるは億劫であると、通武は思うのである。


 そう思うは逃げであり、当主としてあるまじきことだともわかっている。宮子が、帰ってくるわけでもないというに。豊島でさえ、もう先を見ている。


「まあ、後添えをもろうても、子ができるかどうかは仏様しかわからぬ事。もし子ができねば、そなたに婿をとらねばならぬ」


「さすが父上、その通りでございます。婿をとれば、宙は嫁にいかずともよいのですね。さすれば、宙はずっと周といっしょにいられます」


「そっそれはどうかの。周も嫁をもらうだろうし……」

 通武は動揺のあまり、舌を噛んでしまった。いかん、この娘は何もわかっておらぬ。通武は心を鬼にして言うことにした。


「はっきり言うておくが、周とそちは夫婦めおとにはなれぬぞ。深水家の婿養子となれば、旧大名家か公家から選ぶが慣例」


「当たり前ではないですか、我と周が夫婦なぞとおかしなことを」

 宙は切ない顔で言うでもなく、真顔で言うてきた。拍子抜けした通武は、胸をなでおろす。


「わかっておればよろしい。母も十四でこの父と夫婦になったわけだが、そちも、もう十三。そう遠いことでもないゆえ、心づもりはしておくように」

 先ほどの動揺など威厳でかくし、通武は重々しく言い、宙は明るい返事を返したのだった。


 馬車は大名小路をぬけ城の外堀にそって走り、湯島へと向かう。春のかすむ空を背景に、桜並木が車窓を流れていく。木々がこんもりと生い茂る小高い丘の前で、馬車は止まった。


 御者ぎょしゃが扉をあけ、通武から降り、宙の手をとってやった。その手を強く握り、勢いよくぴょんと馬車から飛び降りた。その拍子に、菊と桜の折枝が手描きされ、八つ藤菱が金糸で刺しゅうされた真っ赤な袖が、鳥のつばさのように翻った。


「ここが幕府の学問所であった湯島聖堂ですか」

 そう言う宙を、先に徒歩で来ていた女中がわらわらとかこむ。深水家一行以外にもそこかしこに、馬車や駕籠がとまりあたりは騒然と人でごった返していた。

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