第二話 湯島聖堂博覧会

 かつてこの地に、幕府直轄の昌平坂学問所があった。優秀な幕臣の学び舎であったが、その門戸は各藩の藩士にも開かれていた。広岡藩からも、藩校で優秀な成績を収めた藩士をここに遊学させていた。そういえば、東京へ連れてきた藩士の中に誰かここで学んだものがいたような。通武は思い出そうとしたがその思念はあたりの喧騒にかき消された。


 数日前より大成殿を会場に、湯島聖堂博覧会が催されており、本日は皇后陛下が行啓される。その行啓にあわせ、在京の旧大名家、公家、お雇い外国人並びにその家族が招待されていたのだ。


 皇后陛下をお迎えするため入徳門にゅうとくもんをぬけ、大成殿へ続く石畳へ移動した。静々と歩く通武の後ろが賑やかしい。やれ、「日差しが強うございます、姫様」やら「足元にお気をつけ遊ばせ」など、しゃべらずともわかろうと思う事ばかり。豊島には屋敷の留守を任せたものだから、重い重しがなくなったとみえ、今日の女中たちは浮足立っている。


 ここで、通武が注意をすれば、それすなわち豊島の顔に泥をぬるようなもの。通武が東京にきて若い女中を雇い入れたものだから、まだ豊島の教育が行き届いていないのか。


「お佳代さん、早く姫様に日傘を」


 慌てた佳代の返事が遠くで聞こえる。佳代は宙の二つ上、広岡藩の出入り商人であった大垣屋の娘である。大垣屋には幕末以来、度重なる借り入れがあり、その額は雪だるま式に増えていた。知藩事となり、禄制改革をしても焼け石に水であったが、藩がなくなり、新政府が返済を肩代わりすることとなった。


 宮子が京へ行く折、家財を売り払ったのも大垣屋である。深水家が若い女中を探していると聞いた大垣屋から、娘をという申し入れがあったのだ。大店おおだなの娘が大名屋敷へ奉公にあがる事は、江戸よりの習慣。金のためというよりも、行儀作法を身につける、花嫁修業のようなものだった。


 大垣屋の頼みを断るわけにもいかず、年の頃も宙とつり合うので、よい話し相手になると思い雇い入れたのだが……


 佳代という娘はほんに一日中、とかくぼーっとしているのである。大事に育てられた箱入り娘なのであろうが、限度がある。そう思っても、大垣屋に今さら突き返すわけにもいかず。

 佳代が上のものに叱られている姿を見た通武は、そっと宙に言うた事がある。


「お佳代にがまんできねば、おすえにまわしてもよいが」

「お佳代は何も考えていないのではありません。じっくり見ているだけです」


 そうきっぱり宙が言うものだから、馬がおうておるのかと思い、それ以上は言わなかった。しかし、何を見ていると言うのか。


 石畳の両側に、すでにずらりと招待客が並んでいた。見知った顔がちらほら見受けられた。目が合うと軽く会釈を返す。散切り頭に洋装姿の者もいれば、羽織袴に髷姿の者もいる。みな激動の幕末を、藩主の重責を背負い生き抜いた元藩主たちだ。


 奥方を連れているものはごくわずか。武家の奥方は屋敷の奥深くに住まい、表へ出てくることは滅多にない。反対に外国人はみな夫婦同伴であった。


 西欧から進んだ技術や知識を得るため、政府が高い報酬をはらい雇用しているのだ。西欧諸国に負けぬ国づくりのため、政府は急激な近代化を推し進めている。

 かつて攘夷攘夷と声を荒げ、外国人を襲っていた薩長の連中は手のひらを反すように、彼らを頼っていた。今の政府の要人は薩長の志士で占められている。


 去年、約五十人もの政府首脳や実務官僚が長期間にわたり、アメリカ、ヨーロッパ諸国を歴訪するため横浜港を出発した。維新の立役者岩倉卿を特命全権大使とした、岩倉使節団だ。今、この空っぽの国を動かしているのは、薩長の後塵を拝してきた土肥の出身者たちだった。


 今日この行啓を計画したのも、その者たちだ。広岡藩は、新しい政府の中枢に食い込むことができなかった。同じ尊王の志を持ち討幕を成し遂げたというのに。


 目をそむけたい光景から目をそらし、通武は宙を見た。横には周が松葉色の着物に、黒の羽織姿ですました顔をしてたっている。


 昨年、宙と変わらぬ身の丈だった周は、今宙より一寸ばかり頭がでている。また背がのびたようだ。髪は相変わらず赤い。冬の間、すっかり肌の色は元通りになり、透き通るように白い。


 普段ならたいそう目立つ周だが、今日ばかりは、そうではない。外国人の中に入れば、周の外見は違和感がないという事に通武は気づいた。


 静まり返った場に先ぶれの声が響く。出迎えの人垣は波を打つように一斉に こうべを垂れた。コツコツとよく響く上品な足音を先頭に、大勢の気配が目の前を通りすぎ、石段の向こうへ消えていった。


 皇后陛下の案内役は、留守政府の首班しゅはんが務めるそうだ。あの懐かしい男が、今目の前を通っているのかもしれぬ。通武は石畳を見つめながら、懐古の念が胸から湧き上がるのを感じた。



 石段を登り、杏壇門きょうだんもんから回廊内に入ると、正面には孔子像を祀っている、間口が十間もある巨大な大成殿が立っていた。前庭には石が敷かれ、ぐるりを回廊が取り囲んでいる。


 周は思わず、感嘆の声をもらした。大成殿の前に置かれた金のしゃちほこが目に飛び込んできたのだ。名古屋城の金のしゃちほこは、この博覧会のためにわざわざ東京へ運ばれた。長旅をしてきた高さ八寸は超えるしゃちほこは、屋根つきのガラスの箱の中に収まっている。その周りを見物人が取り囲んでいた。


 皇后陛下は先に観覧を済まされ、もうお帰りになった。遠目だがちらりとお見かけした陛下はたいそう美しい方だった。周は雲の上のそのまた上の太陽のような皇族の方を見て、目が潰れてしまうのではないかと、本気で心配した。


 深水家の一行は、通武と宙の組に別れ見学を始めた。周は当然宙と回ったが、しばらくして宙がおつきの女中たちに言った。


「お前たちも自由に見物したいであろう。我には周とお佳代がついておれば大事無い。回廊内からはでん」

 そう言って強引に女中たちと別れてしまったのだ。


「あの者たちはうるさくてかなわん。お佳代、日傘はもうよい」

 宙はしゃちほこの前で、後ろから日傘を持って従っていた佳代に言った。


「でも、姫様が日に焼けてしまいます。姫様のお肌はたいそう美しいのに」

 おっとりと佳代は言った。


「美しいのなら、周にさしてやれ。こやつの方が色も白い」

「男に美しいは誉め言葉になりません。それに、日傘をさしてないとまた佳代さんが怒られますよ」


 周は強気な態度で宙に意見した。二人は、共に勉学にはげむうちに、距離もかなり縮まり、気がおけない友となっていた。


 佳代は穏和な笑みを浮かべ、そんな二人を黙って見ていた。万事このような調子。大人たちには、佳代は甚だ評判が悪い。特に豊島は佳代を何時も、苦虫を噛み潰したような顔をして見る。しかし存外、三人はうまくいっていた。


 三人は大成殿内に入る。堂内は、絵画や書を見学する人でごった返し、薄暗くたいそう埃っぽい。天窓から入る光の束が、ほこりを浮き上がらせまっすぐ孔子象を照らしていた。その荘厳な光景に宙と周は思わず手を合わせた。佳代は孔子象を拝みもせず、ぼんやりと堂内の隅で、立ちすくみぴくりとも動かない。


 二人はこのようになる佳代に慣れているので、その場において堂内から出た。大成殿を背にして左の回廊には主に動物のはく製や骨格見本、右の回廊には染織品や漆器などが展示されていた。


「さあ、どちらに行くか。周はどちらがよい?」

「私ははく製が見たいです。鷹のはく製があると聞きました」

「よしでは、左から見るとしよう」


 回廊内では、日本人や外国人など関係なく、同じ場で同じものを見て楽しんでいた。その中でも、周はちらちらと一瞥される。外国人が着物を着ている、と奇異の目で見られているのだろう。少し前の周なら、うつむき髪を無意識になでつけていたが、今はもうそんな事はしない。堂々と前を向いて歩いている。


 イノシシや、鳥のはく製が並んでいる。お目当ての鷹のはく製もあった。腹の羽毛が白茶の縞になっており、鋭いくちばしと黄色い足が特徴だ。


「やっぱりトンビに似ています。顔つきがそっくりだ。宙さんも見てください」


 気分が高揚し宙に早口で、話しかける。宙は周が夢中になると、周りが見えなくなるのがわかっているので、適当に相槌をうつ。


 周は内藤が言っていた猛禽類という言葉が気になっていたのだ。「類」というからには、なかまの事ではないか。トンビは人の食べ物を奪うほど狩りが達者だ。トンビと同じように狩りの得意な鳥と言えば、鷹だ。日本には昔から代々の将軍たちも好んだ鷹狩りという物がある。


 狩りが得意な鷹とトンビは同じ猛禽類というなかまなのではないか。そう仮説を立てていたのだ。今日鷹を見てこの説は立証された。

 周が一人自分の世界に入り込み思考の海で遊んでいると、隣から宙の声がする。


「触ってはいかん」


 見ると、宙の傍にいた外国人の男の子が、柵から手を伸ばしイノシシのはく製を触ろうとしていたのだ。宙と身の丈が変わらないから、同じ年ごろだろう。


 あたりに人はまばらだった。外国人の子供は、何か宙に向かって怒気を含む声でしゃべっている。その言葉は、内藤に少し教えてもらった、英語のような気が周はした。触ってはいけないは確か英語で……


「ドンタッチ」

 そういうと、子供は周に気づき、悪意のこもる好奇心をむき出しにし、じろじろと周を見た。


「触るなと張り紙がしてあるが、この子供には読めぬ」

「そうですね。日本語でしか書かれてない」

 二人が話す姿をまだ子供は見ていた。すると、口の端をにゅうっと上げ笑みを浮かべ言った。


「らしゃめん」


 たどたどしい発音だが意味はしっかり理解できた。外国人のめかけとなった日本人女性を侮蔑の意味を込めてそう呼ぶ、と二人は知っていた。

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