第四話 夕餉

 屋敷へ帰り、表御殿にある二人の勉強部屋でくつろいでいた。周の緊張した体はまだこわばっていたが宙はひょうひょうとしている。西郷の言う通り豪気なお方だと、周は舌を巻いた。

 手持無沙汰な二人は、佳代が入れてくれた茶を飲みながら囲碁を始めた。最近やり方を覚えた宙は、周を負かそうと勝負を仕掛けてくる。


 碁盤に向かう周の背中にさく姫が体を摺り寄せてきた。頭を撫でてやりながら、周はちらりと佳代を見る。茶を入れた後は、宙の後ろに座って西日がさす庭園をぼーっと眺めていた。この調子なら二人の会話は耳に入らないだろう。都合のいいことにお付きのものは佳代だけだった。


「宙さん、あんなことを言いだしてどうするつもりだったのですか」

 周は少し声を落として聞いた。まさか本当に腹を切らないだろうが、どう事態をおさめるつもりだったのだろう。周はその事が気になった。


「むろん、腹を切るつもりであった」

 思わず声が出そうになったが、周はなんとかこらえ、声を潜めて早口で言った。


「何を考えているんですか。素直にあやまればいいだけではないですか」

「なぜあやまらねばならんのだ。誤解であっても、我の誇りは傷つけられた。その事実は変わらん」


 宙は鷹揚に答え、白い石を碁盤に置いた。

 周にはとても理解できない理屈である。宙は以前、「武士とは命よりも誇りをかけるもの」と言っていた。逆に言えば、誇りのためならば命を捨てるということか。その馬鹿げた妄執を嫌悪する周がいる一方、自分自身には手の届かない境地に、憧憬の念を抱く周がいた。


 言葉も出ない周をよそに、宙は周の目をじっと見て言った。

「我の命は半分彼岸にあるようなもの。いつ果てようとかまわぬ」


 半分彼岸とは何を意味するのか。宙が真之介であったことに関係しているのか。断片的な事実から周は考察を試みようとしたが……やめた。

 周の前に現れた時にはもう女子の宙であったのだ。それだけで十分ではないか。今は黙って碁石を打てばいい。そう思いなおし、周は黒い石を、宙の白い石の隣にそっと置いた。


「しかし、宙さんの命はあなたお一人の命ではございません」

 周はそれだけは、宙に伝えたかった。


 二人は時間も忘れ碁を打ち続けた。宵闇迫る廊下からさわさわと足音がして、豊島がやって来た。能面のような豊島だったが、最近は少しだけ顔つきが柔和になった。一礼して顔をあげると、心ここにあらずの佳代を見て咳払いを大きく一つした。

 不思議な事に大きな音にも反応しない佳代だが、豊島の咳払いは敏感に聞き分けるのだ。びくんと体を硬直させた佳代を睨みつけ、豊島は言った。


「夕餉の支度が整いました」

「有無、致し方がない。いい局面であったがこの辺りで終わりにいたそう」

 盤上は、周の優勢であったが、これ幸いと宙は立ち上がったのである。それに続いて、周も口元に笑みを浮かべ腰を上げたのだった。



 西洋の灯り、ランプがともる室内はあかるい。ろうそくの灯りで食事をしていた時分より、うまく感じるのは気のせいか。通武の酌も進む。

 下座に宙と周が並んで座り、今日の博覧会の様子を話しながら楽し気に食事をしている。その充足した光景を眺めながら、通武は酒を飲んでいた。普段あまり酒は飲まないが、今日は西郷に会い、いささか気分がよい。


 幕末の長州征伐に西郷は参謀として参加。広岡には幕府の本営がおかれ、朝敵(長州)を打つべしと幕府より打診されては、広岡藩は従うしかない。

 しかし、広岡を戦禍から守るには、長州との武力衝突を避けるのが得策。それに加え、外国勢力が虎視眈々とこの国をねらっている情勢で、大規模な内乱が起きれば付け入る隙をあたえてしまう。


 通武は参謀西郷に長州への寛大な処置を求めた。その折、この国の行く末を、新しい政事まつりごとのありようを二人で語り合った事が、昨日のように思い出される。

 結局、武力衝突は避けられ、長州は首の皮一枚で命脈を保たれた。もしあの時、長州を叩き潰しておれば、後の世は大きく変わっていただろうか。「もし」などと、今いる時をさかのぼり過去を自戒しても、詮無い事。過去にいる己にとって過去は今なのだから。

 通武は盃をかたむけた。ひりつく酒が喉を落ちていく。


「父上あの金のしょちほこは、どうやって名古屋から運んで来たのでしょう」

 酒の回った通武は、適当に相槌をうつ。


「やはり、船ではないでしょうか」

 周が利口な口をきく。


 通武と宙、それに周の三人で食事をとるのが、この下屋敷での習慣となっている。周の居室はこの表御殿に移された。広岡から連れてきた藩士たちの部屋が足りなくなったのだ。

 周は最初相部屋でもよいと、頑なに断ったが、通武に言われると素直に従った。表御殿におるのだから、食事も共にするようになった。

 通武としても、宙と二人だけの場をどうやり過ごせばいいかわからないので、周の存在は大いに助かる。


「じゃあ、何時あのガラスの箱にいれたのじゃ。船ではゆれてガラスがわれるぞ」

「そこはやはり、会場に着いてからですかね」


 二人の会話を聞きながら、豊島は宙の左側に座り、給仕をしていた。片手ではやはり食べにくく、宙の目線で取りたいお椀を察知し、宙の箸がつまむ位置まで運ぶのである。はたから見ていると、息がぴたりと合っており、宙の左手の役を豊島は完璧にこなしていた。その豊島が、左手の役をしばし置き、口を挟んだのだ。


「僭越ではございますが、しゃちほことは、小さきものなのでございますか。ガラスの箱に入る程」

 今まで三人の会話に、豊島が入ってきたことは皆無である。博覧会にいっていない豊島にとってよっぽど不思議な話だったのだろう。


「いえ、とても大きなガラス箱に入っていたのです」

 周が答えると、宙も後に続く。


「ガラスの板でぐるりを覆って、上に屋根が吹いてあった」


「ガラスの板とは、馬車にはめ込まれた窓のようなものですか」

 二人はそろって頷いた。


「しかし、あの窓はしゃちほこが入る程大きくはございません」

「あの大きさの板が何枚も組まれて、大きな箱のようになっているのだ」


 宙がじれったそうに言った。通武は笑いがこみ上げてきたが、ぐっとこらえ、このゆかいな酒の肴を堪能する事にした。今日の給仕で、博覧会の供をしたものは、佳代しかいない。

 まだ豊島は、得心がいかぬようだ。宙と周二人がかりで説明するも、相手は理解してくれぬ。しびれを切らし宙が言った。


「佳代、部屋より墨と筆を持て。ここでガラスに入ったしゃちほこを描いてやれ」


 ランプに照らされた橙色の障子を見ていた佳代の体がピクリと揺れ、慌てて廊下を走っていった。女中が廊下を走るなど、普段なら豊島の雷が落ちるところであるが、今日はさすがに何も言わなかった。

 見たこともないものを説明するには、絵に描いた方が早い。百聞は一見に如かずである。しかしどうして宙は、佳代に描けと言うたのか。通武は不思議でならなかった。

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