第五話 西郷の土産

 しばらくして、道具を持って佳代は戻って来た。毛氈もうせんの上に紙を置き、迷うことなく白い紙に筆を入れた。筆の動きはなめらかで、さらさらと紙の上をすべるようにはしっていく。その勢いに乗り、墨の爽やかな匂いが香ってくる。

 あの何時もぼーっとしている佳代が、生き生きとした目をして、紙に向かっている。


 これは妖術か。うっすら笑いを浮かべた佳代の恍惚とした顔を見て、通武は驚異を感じ唾をごくりと飲み込んだ。紙の上にみるみると今日見たしゃちほこがそっくりそのまま現れたのだ。ちゃんと屋根をのせたガラスの箱に収まっている。

 ガラスとは、触れる事はできても、透明でそこにあることをしばし忘れる事がある。しかし、佳代の絵にはちゃんと中のしゃちほこが見え、なおかつガラスがあることも、はっきりわかる。


「ああ、こういう事でございますか。豊島ようやく得心いたしました。ガラスをつぎはぎいたして、上からかぶせているとは」


 豊島は佳代の描いた絵を見て、しゃちほこに驚きはしても、佳代に驚いてはいなかった。どうも、驚いているのは通武だけで、佳代の絵が達者な事はみな知っているようだ。また、通武だけが知らなかったのだ。疎外感を感じる通武だが、口には決して出さぬ。


「佳代はこれほど絵がうまいとはのお。実に驚いた」

「はい、佳代は見たものをそのまま描くことができるのです」


 佳代が褒められ、宙はうれしそうである。以前宙が言った。「じっくり見ているだけ」とはこういう事か。そう合点がいった通武は佳代に言った。


「今日の博覧会には多くの書画があった。それをじっくり見ていたから、遅れたのであるか」


 御一新前ならば、藩主が女中に直接声をかけるなぞ、もってのほか。藩主は身分の低いものとは会話できぬ。そう決められていた。下々のものと話がしたければ、直に話ができる豊島や田島を通しての会話となった。


 通武から話しかけられ、恐縮しきりの佳代は震える声で言った。

「書画よりも、堂内を舞うほこりを見ておりました」


 ほこり……たしかに、大成殿の堂内には書画が数多く展示されていた。しかしその書画よりも、ほこりを見ていたというのかこの娘は。展示物には、徳川家から寄贈されたものも含まれる。そのような、貴重な御物を前にして……

 通武は驚きを通り越し、うっすら怒りすら覚える。いや、この世には自分に理解できない事、知らない事は山のようにある。無知の知すなわち、己の無知を知ることが肝要。


「父上、宙はご報告せねばならぬことが、ございました」

 まだ佳代に対する怒りが収まらぬ通武を、宙は居住まいを正し真っすぐ見つめる。自然と怒りはさめ、通武の体も背筋が伸びた。


「宙がこうして今日こんにち何不自由なく過ごす事ができますのも、父上母上からこの命をいただいたおかげと宙は思うております。感謝の言葉しかございません」


 宙の真摯な言葉を聞き、通武は思わず涙ぐみそうになった。まことにその通り。そなたの命は生かされておるのだ。自分の生い立ちを薄々気づいておるのか。このような事を言い出すとは。知らずにすめばそれに越したことはない。そう思っていた通武だが、このような立派な感謝の言葉をかけてくれるようになるとは。

 涙をこらえるのがつらくなってきた。涙ぐむ目を紛らわすため、豊島を見ると、この老女も目頭を袖で拭っていた。


「そのような命を今日、捨てるところでございました」


 通武の目は点になる。今日捨てるとはどういうことか? 頭の中は疑問でいっぱいになる。まさか、馬車の中では納得していたがやはり嫁に行きたくないと、周と二人世をはかなみ心中しようとしたのではあるまいか。


 そうだ、今日一日周と博覧会を回っていたようだ。途中で抜け出してもわかるまい。杏壇門で二人に会うた時、お付きのものは誰一人いなかった。

 周を見ると、顔色が青ざめておる。やはりそうなのか周。二人で心中を図ったが果たせなかったということか。そういえば、帰りの馬車の中で気づいたが、かんざしがなくなっていた。まさかあれで喉をつこうとしたのか。


 通武の妄想は止まることを知らず暴走する。真偽を問いただそうと、意を決し口を開きかけたその時。


「異人に手をあげ、腹を切るところでございました」


 腹を切る……つまり切腹……切腹とは武士が己の不徳の責任を命をかけてとるということ。

 はて、切腹とは女子もすることであったか……世も変わり、そういう風潮でもはやっているのか……いやいや、そんなわけがあるものか!

「この、ばかもの!!!」

とっぷりと日もくれ暮れ静寂漂う下屋敷を、通武の怒声が地響きのごとく震わせたのであった。



 宙が外国人相手に切腹騒ぎをおこしてから、一月ひとつきがたった。深水家の屋敷は、朝から女中たちのかまびすしい声に満ちている。その声は、二人の勉強部屋にまで聞こえてきた。


「うるさいのお。ちっとも書に集中できないではいか」


 宙が書見台においた書物より、顔をあげて言った。台の上には、頼山陽らいさんようが著した日本外史十五巻がのっていた。十五巻と言えば、豊臣氏にかわり徳川氏が抬頭たいとうする部分である。


「宙様、無駄口をたたくようでしたら、私は即刻退出いたしますが、それでもよろしゅうございますか」


 講師である泰山先生が宙を睨みつける。慌てて宙は再び書に目を落とし、紙を乱暴にめくった。するとまた、叱責が飛ぶ。


「本を粗雑にあつこうてはなりません。下々の者にはこのような本、目にすることもできないのですぞ」


 泰山先生は、身分が上の子供であろうとも容赦はしない。先生曰く、歴史に学ばざる者愚かなり。宙の反省しているさまを見て、満足したのか、よどみない言葉で、豊臣政権について話し出した。

 二人が毎日学んでいるものは、四書すなわち大学、中庸、論語、孟子に始まり、白氏文集などの漢文体でかかれた書物ばかり。女子が漢籍を学ぶことは滅多にないことである。


 お姫様教育と言えば、お茶にお花、書道香道和歌にお琴。学びの道にいそしみ婦道を磨くは、女の道である。宙はこれらすべてを拒否したのだった。

 真之介であった頃に学んだものをそのまま続けたいというので、通武は許すしかない。豊島は反対したが殿様のお許しとあらば致し方ない。しかし和歌を学ぶことだけは譲らなかった。周もいっしょに和歌を学んでいる。


 そもそも、この邸内の喧騒は宙が原因なのだ。博覧会での騒ぎを西郷は見逃してくれたのに、自ら白状してしまったのだから。正直にいう宙に、通武は怒りの矛先を収めるしかなかった。

しかし「大事に至らずよかった」ではすまなかったのである。迷惑をかけた西郷を屋敷に招き、酒宴を開きもてなそうと通武が言い出したのだ。

 留守政府の首班ともなれば多忙である。通武の誘いに応じて西郷が屋敷に来たのは、あの騒ぎより一月もたってからの事。もうすっかり桜も散り、風薫る季節となっていた。



 夕闇迫る時刻、車寄せに西郷をのせた馬車が到着した。家人が出迎え、通武と宙それに周は表座敷で西郷を迎えた。上座の譲り合いがあり、西郷が上座に腰をおろすと宙が頭を垂れた。


「博覧会の折は、大変ご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした」

 通武からきつく叩き込まれたセリフを、そのまま言った。


「ほお、今日は一段と大人しゅう座っちょる思うたら、こん挨拶で頭がいっぱいであったとみえる」

 今日は軍服ではなく、羽織袴を着た西郷がからかうように言った。


「そうなんです。何回も練習させられて、まいりました」

 西郷の言葉についつい本音がでた宙を黙らせようと、通武が割って入る。


「ほんに迷惑をかけた。この姫はついこの間まで男として育った故。勘弁してやってくれ」


「そげん事情でありもしたか。じゃっどん、みずからの非をわざわざとは。わっぜ見上げた姫じゃ」


 宙の後ろに控える周は、通武の誘いに西郷はのらないのではないかと思っていた。薩摩は男尊女卑の風習が色濃い地方。宙のようにずけずけと物をいう女子は、西郷にとって好ましい女子ではないはず。しかし杞憂であったようだ。


「今日は招いていただいた礼に、土産がありもす」


 そう西郷が言うと、今日も従者としてやってきた内藤が、片木盆へぎぼんにのせられた土産を運んで来た。


「薩摩の芋焼酎は、安芸守殿へ。この本は姫とその友へ」

 西郷は友という時、周を見て言った。周と宙は友になりえないと言っていたのに、西郷は認めてくれた。周は土産よりもその言葉に、胸が震えるほどの喜びを感じた。


「これはかたじけない。気をつかわせた。この本は異国の本か?」

 周の位置からは見えないが、本の表紙には異国の文字が書いてあるようだ。


「今アメリカにいっちょ使節団から送ってきた本じゃ。向こうで今人気がある子供ん本と説明書きがありもした。それとこれは英語の辞書じゃ。二人で使いやんせ」


「そのような貴重な物もらうわけにはいかん」


「気にしやんな安芸守殿。これは大久保がおい個人に送って来たもん。おもしろかものがあれば送ってくれと頼んどったとじゃ」


 宙と周はそろって西郷に礼を言った。

「西郷様は、私と周を友とお認め頂いたのですね」


 西郷は、うれし気な宙の顔をみて、大きな目を細め言った。

「男子と女子は友になりえず。じゃっどん姫んような胆んすわった女子ならば認めざるを得んやろう。そのうち姫も大きうなられる。周が傍におっとなら、友じゃなくなるやろう。女子とは、男がつくるもん。男は男がつくるもんじゃ」


 宙と周は怪訝な顔をした。西郷の謎解きのような言葉が理解できず、けむに巻かれた。そんな二人の様子を見て西郷はふっと笑い、通武に言った。


「姫ん許嫁は決まっちょらるか?」


「いや、まだ決まってはおらぬ。いろいろあたってはいるのだが」


 博覧会の日より、通武は内々に宙の許嫁候補を探している。周もその事は知っていた。大藩の姫君となれば、生まれたばかりで許嫁が決まることもあり、しごく当たり前のことである。しかし、この事を考えると胸に薄いもやがかかる。その理由を考えてみるが、周にはわからない。


「決まったら、お知らせたもんせ。花嫁道具をみつくろいもんそ」

 軍人らしからぬ細やかさに、宙は驚いた顔をしている。


「西郷様に選んでいただけるのですか?」

「こう見えてん、おいは目利きじゃ。そん昔、将軍御台所様の花嫁道具をそろえた事がある」

 少し得意げに西郷は胸をそらせた。


「天下の西郷様に見立ててもらうとは、その姫様はさぞ、お幸せになられたことでしょう」

 まだ、婚姻の意味も分からぬ宙は無邪気に言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る