第六話 Alice's Adventures in Wonderland

 薩摩から将軍家に輿入れされたのは、十三代家定公の御台所、天璋院篤姫様ではなかろうか。周は国元で大人たちの世間話から、この名前に覚えがあった。商人たちは世の中の動きに敏感で、情報収集も商売のうちである。


「さあ、それはどうか。あん方には二度とお会いできもはんで」

宙の悪気のない質問に、西郷は伏し目がちに答えた。そのギョロリとした大きな目玉が、ふせられることなどほとんどないことである。


「これは、申し訳ございません。お亡くなりになったとは思わず」


 今生で二度と会えないとは、死を意味する。そう宙は単純に思ったようだ。しかし、周は知っていた。江戸へ向け進軍するのは、西郷率いる官軍。薩摩藩は、再三薩摩へ帰る事をすすめたが、天璋院は頑として従わなかった。

 最後まで徳川の嫁という立場を貫いたのだ。その筋を通した態度を、江戸っ子はもろ手をあげて称賛したという。


「いえ、生きちょられる。あん方は一生おいに会うてはくださらん」

 そう言う西郷の顔に、拭ってもぬぐい切れない寂寥感がくっきりと影を落としていた。



 新橋芸者が引く三味線の音が、座敷から離れた部屋まで聞こえてくる。そこで、宙と周、内藤は異国の本を囲んでいた。


「この本はいったいなんじゃ」

 西郷の土産の本をしげしげとみて宙が言った。赤い表紙には金の縁取りがされ、真ん中に女の子の絵が刻印されている。


「Alice's Adventures in Wonderlandという書名で、訳すとおとぎの国のアリスの冒険ですね」

 

 内藤が答えた。周から真之介改め宙の学友になったと聞かされた内藤は、この奇妙な縁をおもしろがった。風変わりな姫は留学経験のある元藩士に、先ほどから質問を浴びせていた。

 周がぱらぱらと中をくると、英語の文と絵が描いてあった。


「奇妙な絵ですね。うさぎが人間のかっこをしている」

「こっちの絵は、ろくろ首のようじゃ」


 筆で書かれる日本画とは違い、細い線で描かれた絵は細かなところまで書き込まれている。髪をおろした女の子の首が、不自然にのびている絵に、宙の目が釘付けになった。


「この女の子の名がアリス。子供向けのおとぎ話です。文も比較的簡単ですから、この薩摩辞書で調べながら読めると思います」


 薩摩藩士が編纂したこの辞書には、英語の言葉の後に日本語で説明が書かれている。このアリスの本を気に入った宙が、ぽんと膝を叩いて言った。


「よし、父上に言って英語の教師をつけてもらおう。我も前から興味があったのじゃ。この間のことも、英語さえ話せれば、あんな大ごとにはならなかったはず」


 周も内藤に出会ってから、英語の重要性を痛感していた。しかしみずから勉強したいとは言えなかった。宙の提案は願ったりかなったりだ。


「お佳代、こっちに来て見てみろ。変わった絵だ」


 宙が絵の得意な佳代に見せてやろうと声をかけたが、佳代は近づいてこない。ぼーっとしているわけではなく、膝の上でこぶしを握り締め、上目づかいで内藤を見ている。


「あのお、そちらのお方はまことに薩摩ではなく広岡のお方ですか?」

 変な事を聞く佳代に、内藤は苦笑しながらうなずく。


「では、なぜ西郷様と御一緒に来られたのです?」

 のんびりした佳代には珍しく、いやにこだわる。宙がしびれを切らして聞いた。


「お佳代、しつこいぞ。違うと申しておるだろう。内藤さんが薩摩のものだったら何か不都合でもあるのか」

 おずおずと言いにくそうに、佳代はきりだした。


「戊辰の戦が起こる前、江戸には、放火や強盗をしてまわる集団が現れたんです。うちの家も入られて、二千両とられました。私はおっかさんに納戸にかくしてもらったんですが、怖くて怖くて」


「それが、薩摩とどう関係するのか」


「納戸に隠れていても、怒鳴り声は聞こえてきて、その強盗は、薩摩言葉を話していました」


 佳代の言葉に返すものはおらず、沈黙が流れる。内藤が深く息を吐きだし言った。

「薩摩の御用盗みですね。薩摩は武力で徳川家を叩き潰したく、挑発行為に及んだのです。事実、その挑発に業を煮やした旧幕府方は薩摩藩邸を攻撃。この事件が戊辰の戦のきっかけになった」


 内藤が、淡々と二人に説明した。広岡藩邸奥深く育った宙はもちろん、江戸から遠く離れた広岡にいた周にはわからない、薩摩の裏の顔。


「伯母の家は、抵抗した伯父が強盗に殺されて。それだけじゃなく一万両盗まれ商売は傾き、一家離散となりました。従姉いとこと仲がよかった私は悔しくて悔しくて。今でも薩摩が憎らしい」


 何時もは間延びした佳代の声が、怒気を発し震えている。こんな佳代の姿を二人は見たことがなかった。


「新政府は江戸の民衆に未だに人気がない。御用盗みの記憶がみなの頭から離れないのでしょう」


 維新とは、西欧列強に負けぬ近代国家を目指した正義の変革である。その立役者が、薩長土肥の雄藩であり、広岡もその一翼をになったと周は信じていた。

 私的な訪問からか、屈託なくにこやかに、通武と談笑し、宙や周にも親しく声をかけてくれた西郷。その西郷の薩摩。大きな体をゆすって笑っていた西郷と、町衆を震撼させた御用盗みがどうしても結びつかない。


「その強盗達を裏で操っていたのが西郷さんだって、おとっつあんが」

 宙と周は信じられないと顔を見合わせたが、内藤は否定も肯定もしなかった。



 通武と西郷は、酔いを覚ますため庭を歩いていた。冷たい夜風が頬にあたり心地よい。通武の後から西郷がついてくる。従者はだいぶ離れた所にいた。

 にごりなき月の光が二人を照らし、濃い影を落とす。月の光が強すぎ、星は見えない。石燈籠の影を踏み、通武は立ち止った。

 西郷が今宵の礼を述べると、通武は池の水面に映る一片の月に向かい口を開く。


「西郷、余を裏切り者だと思うておるか?」


「ないを言い出すとな、安芸守殿」


 通武にとって西郷は、家臣でもなく、学問や武道の師でもなく同じ藩主でもなく、友と呼べる間柄だった。


「余は討幕に傾倒していたのに、土壇場で裏切った。幕府をつぶしても、徳川家の息の根を止める事がどうしてもできなかった」


 武力による討幕を目指していた薩長。そこに岩倉卿が加わり、密かに徳川慶喜を追討する「討幕の密勅」を帝から頂く裏工作を行っていた。その密勅が下りる前に、広岡藩は土佐藩と協議し大政奉還の建白書を将軍に提出したのであった。


 その建白書を慶喜公は受け入れ、政権を朝廷に返上した。政権を手放したからには、武力で討幕を推し進める大義名分がなくなった。薩長の裏工作は水の泡となったのだ。


「徳川の息ん根を止むっ事をしぶられたのは、奥方んお血筋を考えられたからではありもはんか」


 大政奉還さえ成し遂げれば、武力衝突は避けられる。そう通武は考えた。しかし、大政奉還と同日に討幕の密勅もおり、その密勅から広岡藩は外される。結果として戊辰の戦は勃発したのだった。


「あの戊辰の戦は何であったのか。幕府はなくなり、慶喜公は一大名となっていた。戦う大義はあったのか。余は今でもわからなくなる」


 薩長が主戦派、他の大名は明らかに日和見を決め込んでいた。戦いの先にあるものを冷静に見ていたのだ。新しい政権での立ち位置を探るために。広岡藩も政権の中枢に食い込むため兵をだしたが、最新の武器を持たず、薩長や土佐肥前に比べれば少数の藩兵であった。


 先代が財政を立て直したとはいえ、莫大な借金を減らしただけ。新たに武器を買いそろえるだけの財力は、広岡藩になかった。武功をたてるどころか、多数の死傷者をだした。その中に、周の兄春馬が含まれている。結果として通武の判断は甘かった。


 西郷の横顔は半分闇に覆われ、その一切は見えない。しかし、通武は、答えを欲しそのかげる横顔を見続けた。


「過去ばっかり見ちょっては、前に進めもはん。もうこん国は新たな一歩を踏み出したとじゃ。戻る事はできん。安芸守殿、あなたにしかできんこつが必ずある。こん国のためになる、新しいこつを始められよ」


 古臭い武士という気概にしがみつく男に、何ができるというのか。通武のうつむく影は、より闇を濃くしたのだった。

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