第七話 一家生産の業

 その数日後、西郷は鹿児島へ向かうため、東京を出発した。かつての主君、島津久光に東京転居を進めるためだった。久光は、廃藩や急激な近代化政策に憤りを感じ、未だ鹿児島より動こうとしなかったのだ。


「大垣屋が申すには、最近明治通宝という紙でできた紙幣が流通しているそうです」


 金の蒔絵の施された豪華な硯箱、茶道具や貝合わせなどの道具類を前に並べ、家令の田島が大垣屋から仕入れてきた話を通武に披露していた。


「ほう、それは持ち運びが楽ではないか」

 通武は気のない返事をする。


「なんでもドイツという国で作らせたそうです。紙も洋紙なら、西洋の印刷術を用いたとか。しかし、本当にそんなもの価値があるのでしょうか。今の政府に信用などありません。この東京の廃れようときたら。郡上藩主青山大善さまのお屋敷など売りに出しても買い手がつかなかったそうで、まこと難儀な事でございます。噂では墓地になるのではと」


 田島はぶるっと身震いを一つした。青山の屋敷は、この広岡藩下屋敷のすぐそばにあった。田島の口は油をぬったように、すべらかに動き続ける。


「御前様の花嫁道具をこれだけ買い戻せたとは、感無量でございます。骨董類は早々に売り払ったとの事。しかし、さすがにこの道具類は売るに忍びず、手元に置いていたそうです。ほんに大垣屋は気が回る。娘の佳代の事も聞かれましたが、滞りなく勤めに励んでいると申しておきました」


 大垣屋は、よほど安い値でこの道具類を返してくれたとみえる。この田島の機嫌のいいこと。大垣屋も娘の事を言いだすとはぬかりない。ようは、不詳の娘をよしなにという事だ。


 先日西郷の来訪時、宙の嫁ぎ先の事ばかり考えていた通武だが、西郷の言葉ではたと宮子の道具類を思い出したのだ。買い戻せるものなら、宙のため買い戻してやろうと思った次第。そういう経緯があり、田島を大垣屋に遣わしたのだった。


「そうそう、大蔵省のお雇い異人が面白いことを言うていたそうです。紙幣もそうですが、洋紙も現在輸入に頼っている。しかしこれから国内の洋紙需要は多くなり確実にもうかる。日本で洋紙を生産するべきだと熱弁をふるったそうです」


「そうは言うが、政府は今生糸の輸出を見込んで富岡に官営の製糸工場を作っているそうだ。国内需要向けの製紙工場をつくる程余力はなかろう」


「その通りでございます。この事業には十万両ほどかかるとか」

 十万両とはこれまた莫大な費用だ。大垣屋ももうかると聞けば事業をおこしたいだろうが、十万両もの費用一商人が工面できるはずもない。


 日本には古来より手すきの紙があるのだ。洋紙に頼らずともよかろう。通武は長雨により頭痛がぶり返し、こめかみを押さえた。そのしぐさを見た田島は、早々に話を切り上げ下がっていった。


 この鬱々とした梅雨に元土佐藩主山内容堂公が、亡くなった知らせが今朝がた届いた。「鯨酔公げいすいこう」とあだ名されるほど酒好きで有名であった。その酒がたたった。

 共に大政奉還の建白書を提出し、朝廷を中心に、徳川家を含む雄藩の連合政権を目指した。その夢はついえたが、明治になっても、酔夢の中の桃源郷に、容堂公は溺れていたのかもしれない。


 我らは、かすむ先行きの見えない道を、崖があるとも知らずに走ってきたようなもの。もう落ちてしまえば、這いあがる気力もない。国元でグチグチと駄々をこねるか、酒に溺れ命を縮めるか。そんな事しかできない。哀れな生き物よ。

 通武は容堂公を偲び、目をつむり、そっと手を合わせた。



 雨は上がったが、湿った空気を払うように、明るい笑い声が聞こえてくる。勉強部屋からだ。


「随分楽しそうではないか。英語の学問ははかどっておるか」

 そう言って通武が部屋に入ると、内藤と周は即座に頭を下げた。


 宙から英語を習いたいと言われてから、教師を探したが適任者がなかなかみつからない。どの家も子女に英語を習わすことがはやっており、教師の数が不足していた。


 このまま習わずにおるのも、本をくれた西郷にも悪いと思い、無理を承知で内藤に頼んだら、二つ返事で承諾してくれた。仕事の休みと夜に通うて来てくれる。

 佳代が慌てて出した座布団に、通武は 腰を落ち着けた。その前に従者が硯箱を置く。


「父上、ご機嫌麗しゅうございます」

 宙の娘らしい挨拶を受け、通武は言った。


「そなたの母の硯箱が戻って来たのだ。嫁入り道具にと思うたが、学問に入用なら使つこうたら良いと思うたのでな」


 宙は見覚えがあるのか、硯箱を大事そうになぜた。

「ようこれで母上は、お歌を書かれておられた。ありがとうございます。大切に使います」


 宙のはずんだ声を聞き、通武は満足した。宮子にも宙にも良いことをしたと思ったのだ。


「あのう、ついでに申しますと、英語に必要なペンとインクなるものがほしいのですが。アルファベットは筆では書きにくくて」


 あるふぁべっと? 通武は聞きなれぬ言葉に戸惑うばかりか、いささか胸が痛む。もう筆もいらぬ世がきたのかと。


「築地の居留地にいけば、手に入るのではないかの。田島に頼んでおこう。もちろん、二人分を」

 通武がすまして言うと、すかさず宙は言った。


「三人分お願いします。お佳代の分も。細いペンでお佳代がどのような絵を描くか見てみたいのです」

 まあそれは、通武も見てみたいと思い苦笑いをする。


「相分かった。三人分のペンとインクじゃな。周はほかに入用なものはあるか?」

 周を見て、親代わりを自負する通武は聞いた。


「新しい英語の本が欲しいのですが」

 遠慮しいしい周は言った。


「かまわぬ。しかし、本は田島に頼んでもわからんだろう。内藤に頼めるかの」


「教材の本は私がイギリスで使っていた本がありますので、それをと周さんには申したのですが」

 内藤の申し出に、周は首をふる。


「そんな貴重な本頂くわけにまいりません」


「貴重でも高価でもないのですよ。イギリスで、本は安価なものです」

 密航留学にそれほど藩から費用がでたわけではない。高価な物を買う余裕などなかったはず。そういえば、西郷からの本を通武は手にとって見たことはなかった。


「どれ、異人の本とはどのようなものか。見せてくれぬか」


 通武の申し出に、周は本を差し出した。木の板かと思うほど分厚い表紙がついており、本自体の厚みもかなりある。和書の倍はある。このような本が安価で手に入るとは、信じられなかった。


「この本は、子供向けですので、そこまで凝ったつくりにはなっておりません」

 内藤が説明する。


「これが、子供の本とは。随分紙をつこうてあるが」


「洋紙は材料もぼろ布と化学薬品という安価なものですし、機械で生産しますから、手すきの紙にくらべ、大量生産できます。そのぶん値段が驚くほど安くなるのです」


「では、このような本も大量に作れるという訳か」


「はい、西洋諸国に対抗すべく政府は殖産興業を推し進めておりますが、人材育成も大事かと。新しい世を生きる子供たちには教育が必要です。その教育には本が不可欠と考えます」


 内藤の熱を帯びた声が、通武の耳に流れ込み硬くなった頭をほぐしていく。

 厚い雲が切れ、ふいに強い日差しが廊下に降り注ぐ。梅雨ももう終わりかもしれぬ。通武の頭痛もいつの間にかおさまり、隅々まで晴れ渡っていた。


 西郷が言っていた、通武にしかできぬ事。この国のためになる、新しい事。この二つが今、結びついた。


「これは、この国のためになる新しい事業ではあるまいか」

 唐突な通武の言葉に、三人は怪訝な顔をする。その顔を見回し、通武は高らかに宣言した。


「我が深水家は一家生産の業をたてようではないか」

 痛みのないすっきりとした頭の中で通武は、金の工面を田島に相談せねばと考えていた。まずはそこから始めねば。

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