第三話 西郷隆盛
パーンと回廊内に高い音が響き渡り、頬を押さえた子供が大声で泣きだした。宙が子供の頬を平手で打ったのだ。この騒動に大人たちが近寄って来た。子供の両親も現れ、子供を抱きかかえながら、英語でまくし立てている。
大泣きする子供は、宙を真っすぐ指さすと、その場にいた全員が一斉に宙を見た。この話が通じない状況を打開するには、逃げるしかない。周はそう思うが早いか、宙の腰に手を回し走り出していた。
赤い振袖をまとった体は一瞬のけぞったが、足は周についていく。あの初めて会った夜、途切れてしまった冒険。今二人は袖を翻し軽やかに走っていた。宙は恐らく初めての経験だろう。しかし、不自由な腕をものともせず、周と体を一つにし、立派な逃げ足を見せたのだった。
回廊内を一直線に突っ切り、杏壇門から外に逃げようとしたら、大きく柔らかな壁にぶつかった。二人は危うく体勢を崩し、尻もちをつきそうになったが、太い腕に抱えられた。
「随分元気な子供たちじゃな」
太くて低い声が、二人の頭上から聞こえる。壁と思ったのは、見上げるほど大きく、よく肥えた大男だった。
「申し訳ございません。慌てていたものですから」
軍服姿の立派な大男に周が謝ると、今度はその大きな背中越しから声がする。
「その声は周さんじゃないですか」
共に旅をした内藤が、大男の陰から顔を出す。こざっぱりとした洋装姿をしていた。
「内藤さんどうしてここに」
逃亡中なのを忘れ、つい足を止めてしまった。すると後ろから子供を抱いた先ほどの夫婦が追い付いてきた。しまったと思ってももう遅い。
子供の父親が逃がさないとばかりに、宙の右手をぐっとつかんだ。白い顔は怒りで紅潮し、赤鬼のよう。宙は抵抗しないが、掴まれた腕が痛いのか顔をしかめる。周は恐怖心をかなぐり捨て、その太い腕に飛びついた。母親の金切り声がかぶさる。事態はますます大きな騒ぎとなっていった。
父親はこの小賢しい子供を振りはらおうと、もう一方の腕を振り上げたところで、あの太く落ち着いた声がこの騒動に割って入った。
「そこまで! こん騒ぎはどげんこっだ」
「この異人は、何やら自分の子供が叩かれたと怒っているようです」
英語がわかる内藤が父親の言葉を、聞き取ったようだ。
「おぬしが子供を叩いたんか?」
軍服の御仁はまだ腕にしがみついている周を見て聞いた。
「違う叩いたのは我じゃ。我を侮辱したから、おのれの誇りにかけて手向こうたのだ」
「まさかこん姫が?」
御仁は大きな目玉を、さらに大きく見開く。周は女子が暴力をふるうとは何事かと、この方はきっと怒りだすだろう。そう思い身構えた。
「なんと豪気な姫か。おなごん子が異人を叩くとは」
そう言い、あたりを震わすほどの笑い声をあげたのだった。周はあっけにとられたが、すぐにことの成り行きを説明した。内藤は周の言葉を英語になおし、両親に話していた。
説明を受けた両親は落ち着きを取り戻したが、子供はまだ母親の腕の中にいた。
大きいなりをして随分甘えた子供だ、周がそう思っていると、内藤が言った。
「侮辱した事は詫びるが、この子供はまだ八つなので、言葉の意味があまりわかっていなかったと申しております。そのような子を叩くとはどういう了見だと」
宙と変わらぬ身の丈でまだ八つ。外国人は日本人にくらべうんと背が高い。それはわかっていたが、子供のころから大きいとは。周は仰天した。
「われは、自分より小さいものを痛打したことになるの。これは責めを負わねばならぬ」
そう宙は冷静に言い、御仁を見上げる。
「御仁その軍刀を我に貸してくれぬか。このような騒ぎを起こしたのは、我の責任。腹を切って詫びを入れるしかあるまい」
御仁の目に殺気が走る。話言葉から察するに、この方は薩摩のお方だ。薩摩の志士であったのなら、数々の修羅場をくぐってきたのは間違いない。この方なら、宙をとめてくれる。周はそう思った。
「ほう、腹を切っちゅうか姫。では、こん異人ん子も腹を切らんなならん。喧嘩両成敗は昔からこん国のつね」
止めるどころか、煽って来る。二人は殺気を漂わせ睨み合っていた。この緊迫した場面に周は口を挟もうとするが、息をのむばかり。硬直した空気に誰も身動き一つできない。物音一つでこの緊張が爆発しそうだ。外国人たちは言葉がわからず、気の毒なほどオロオロしている。
唐突に春の突風が吹きあれ、回廊の軒下に下げられた垂れ幕がばたばたと音を立て、翻る。一瞬張り詰めた場の空気が乱れた。その隙に内藤が子供の両親に、そっと英語で囁いた。
途端、「ノーハラキリ!」と母親は叫び、子供を抱いたまま逃げるように石段をかけおりていった。長い洋装の裾が足にまとわりつき、今にも転びそうだった。残された父親もその後を追おうとしたら、宙が呼び止めた。
「まて、これでは我の気が済まん。せめてこれを受け取ってくれ」
そう言い、頭に挿していたかんざしを差し出した。内藤が、その言葉を英語になおす。父親は恐る恐る腕を伸ばし受け取ると、妻子の方へ去っていった。
「申し訳ございません西郷様。出過ぎたことをいたしました」
内藤はそう言い頭を下げた。内藤はたしかに「西郷様」と言った。西郷と言えば、あの維新の英雄、西郷隆盛公ではないか。周は顔が青くなるのが、自分でもわかった。今の留守政府における事実上一番の実力者だ。そんなお方を巻き込んでのこの大騒動。ただではすまない。
「もう少し、姫がどう出っか見てみたかったが、潮時であった」
ふくよかな頬をあげ西郷はうっすら笑う。笑う西郷を真っ向見据え、宙はお辞儀をした。
「助けてもらって礼を申しあげる。我は深水通武が娘、宙でございます」
「おいは、西郷隆盛じゃ。安芸守殿ん娘御やったか。安芸守殿とは、昔共に戦に赴いた仲じゃ。その娘御とは、これは愉快」
そう言い肩を揺らす。
「そいにしても、二人ん子供が一つんなって走って来た時はたまげた。着物ん袖がこうひらひらとゆれて、まるで比翼の鳥んようやった」
比翼の鳥とは、中国の伝説の鳥。体は一つだが、雌雄の頭が二つついており、一体となって飛ぶという。
「比翼の鳥は仲の良い夫婦の鳥、我らの仲はたしかに良いが、夫婦ではなく友です」
宙はきっぱりと言った。その言葉を聞き、にこやかだった西郷の顔がけわしくなる。
「男とおなごで友ちゅうとな。お互いん魂をかけるような仲に、男とおなごはなれるわけがなか」
宙はこの西郷の変化に怖気ずくことなく、言い返そうと口を開いた。せっかく収まった場がまた荒れる。周はそう気を回し二人の間に割って入る。
「西郷様、先ほどは御無礼いたしました。佐々周と申します。こちらの内藤殿とは、共に広岡より旅をした仲でございます」
内藤もこの場の空気を読んで、即座に周に呼応した。
「はい、今日広岡の殿様もお越しになっていると聞いておりましたが、まさか周さんに会えるとは驚きです」
そう二人で場を和ませようと奮闘していると、石段を、通武一行が登って来た。会場からすでに出ていたようで、あの騒ぎには気づいていないようだ。宙たちが西郷といる事に驚いた顔をしている。そんな通武を見た西郷は、再び柔和な顔へと変わった。
「ほんに、お懐かしい安芸守殿。今姫と偶然会いもうした。なかなかに美しい姫じゃ。安芸守殿もさぞご自慢でしょう」
通武はまったく事情がわからないので、曖昧に笑って言った。
「この姫はこう見えてお転婆で困る。西郷に何か粗相をしたのではないか?」
「いいえ、少し話をしただけ。楽しか時間がすごせました」
西郷の寛大な言葉に、周は胸をなでおろした。粗相どころではない、先ほどの騒ぎを通武に知られれば、周や宙はもちろん女中たちも叱責される。勝手な事をしたのは自分たちなのに。
「内藤、久しぶりに会うお方たちだ。積もっ話もあっじゃろう。ゆっくり話をしやんせ。おいの共はほかんもんに頼む」
そう言い西郷は通武に礼をし、回廊内へと入っていった。周と内藤は大きく息を吐きだし、安堵したことは言うまでもない。
「殿様、このようなところでお目にかかるとは、恐悦至極に存じ上げます」
内藤は今にも泣きだしそうな顔をして、通武に対し、最敬礼をした。
「今日は西郷の共でここへ来たのか」
「はい、外国人の招待客もおりますので、
通武は肩の荷が下りたように、穏やか顔をして内藤を見た。
「あの命をかけた密航留学が、そなたの役に立っておるようで何よりだ」
「そのような……本来ならば殿様のため、身を粉にして働く所存でございました。いわば今の仕事は私の本意ではございません」
「そういうな、もう藩はなくなったのだ。もう公には我らは主従の関係ではない。余の事は忘れ、おのれの才覚を世のためにつかってくれ」
周は二人のやり取りを聞いて、国元に残った元家臣たちの事を考えた。まだ大勢のものが新たなお役目にもつけず、わずかな禄で食いつないでいるという。通武は東京に来ても、残してきた家臣たちの事を忘れた事はなかったのだろう。人の上に立つお方とは、その地位を下りてからも、その責務から逃れられないのだと周は痛感した。
内藤と別れ、ようやく宙の女中たちと合流し、最後に佳代がやってきた。みなにまた白い目で見られていたが、本人はその視線に一向に気づいていないようだった。
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