第十話 アリスのお茶会

 居留地傍の外国人向けのホテル。その中にある丸い机がいくつも並ぶカフェというところで、三人は休憩をとった。ジョンに勧められティというものを頼んだのだが、宙と佳代はこのティという飲み物を初めて目にした。


 日本茶と同じ茶葉を使っていると聞かされても、ほうじ茶と同じ色をしているが、香りはまったく別もの。薔薇の柄が入った陶器の茶碗を見様見真似の手つきで宙は持ち、ぼんやり琥珀色のティを見ていた。いい匂いに誘われ一口飲んでみると、口の中に渋みが広がり眉をよせた。


 何時もジョンに積極的に話しかける宙だが、今日は口数が少ない。

「周さんがいないから、寂しいのですか? 宙さん」


 ジョンがずばりと聞くが、宙は何も答えない。ジョンは肩をすくめた。その隣で佳代も進められ、お茶を飲んでいる。洋装店で張り切っていた佳代の方が疲れた様子で、瞼が今にも落ちてきそうだ。ジョンの言葉は耳に入っていないのだろう。


「ジョンに聞きたい事があります」

 宙の突然の言葉にジョンは、ゆっくりとうなずき、肯定の意味をあらわした。


「人を好きになった事はありますか?」

 おかしなことを口にしたと、宙は瞬時に顔を赤くする。ジョンは気にせず、口の端をあげにこりと笑い、優雅に持っていた茶碗を静かに置いた。


「もちろんです。日本語では恋をするというのでしょう?」

「恋?」聞きなれない言葉に宙は首をかしげる。


「恋とは、惚れるということですよ」

「では、友を好きになる事とその恋というものはどう違うのですか?」


 こんなへんてこな事、豊島や他の女中がいるところでは聞けない。まわりは外国人ばかり。従者は外の馬車で待機していた。


「友だちとして好きになっても、苦しくなりません。でも恋はとても苦しい」

「人を好きになるとは、幸せな事ではないのですか」


「はいとても幸せです。そして苦しいのです。この正反対の思いを同時に味わうのが恋だと思います。宙さんは誰かに恋をしているのですか?」


「好きな人はいっぱいいます。父上、おたた様豊島、佳代、ジョン。でも苦しくなった事は一度もない」


「周さんは?」

 青い目で、見つめられると嘘はつけない。たとえ嘘をついたとしても、見透かされるような気が宙はした。


「好きでした。でも、今はわからない」

 あれから、一度も周と顔を合わせていない。周が夕餉を自室で取り出したのだった。父上に勉強しながら食べたいと言ったそうだ。もうすぐ試験というものがあるとか。


「我には、恋などできない」

 真之介が背負っていたものがある。それを今宙は背負っている。最近痛みを感じなかった左手に、痛みを感じ宙は袖の上からさする。


「恋はするものでも、できないものでもない。自分の意志ではどうにもならない。穴にすとーんと落ちるようなものです」


「アリスの入った穴みたいだ。ジョンもその穴に落ちたのですか?」


「はい。今でもその穴から抜け出せなくて、困っています」

 そう言って、ジョンが首にいつも下げているロケットを開き、中を見せてくれた。蓋の内側には、美しい女性の横顔が。


「彼女は今神の国にいます」

 居留地にある教会から鐘の音が聞こえてきた。その音は、雲に覆われた空に跳ね返され、地上に鳴り響く。とても悲しい音色だった。


「彼女がいなくなり、僕は死にたいと思うほど苦しかった。そんな時、友だちにあなたの話を聞いたのです。謝罪のためにあっさり命を差し出す女の子が、血のように赤いかんざしをつけている。会ってみたくなった」


 サムライガールに会いたいと言う理由だけで、ジョンは海を越えてきた。航海は危険がつきもの、死と隣り合わせだ。


「命をすてる覚悟があればなんだってできます」

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり。ですね。」

 宙がそう言うと、ジョンは首を傾げた。


「武士の心得が書かれた書にある言葉です。己を捨てる。つまり死に臨む覚悟を持てば、おのずと最良の結果が得られるということです。ジョンは武士の心得をお持ちだ」


「私が武士ですか? そんな恐れ多い」

 そう言って、目の前で大げさに両手をふる。ひとしきり照れ、一口ティを飲んで落ち着くと口を再び開いた。


「私は武士ではありませんが、宙さんは武士の子です。あなたは何がしたいのですか?」


「我にせねばならぬことはあっても、したい事はない」

 宙の言葉に、ジョンは薄く笑い、息をつく。


「世界は広い。宙さんにその世界が見える事を僕は心から願っています」

 終わりの見えないお茶会は、ジョンがポケットから出した懐中時計の時刻が終わらせた。宙はうつらうつらと舟をこぐ佳代を、肘でこづく。ジョンはボーイに預けた帽子を受け取っていた。




 通武は馬車の窓から入る風に髪を乱され、額に前髪がかかる。去年、天子様が散髪をされたことに合わせ、髷を切った。あんなに抵抗があった散髪だが、意外に気に入っている。きつく縛られていた頭髪は軽やかになり、頭の回転も速くなったような気がした。何より衛生的だ。


 散髪してから洋装も多くなったが、これにはいまだに慣れない。通武は、最近少々出てきた腹周りをさする。着物ならこの辺りを帯で締め付け、ちょうどころあいよく収まっていたのだが。


 通武は、外を眺めている青い洋装姿の宙を見た。頭には花飾りものせていて、親のよく目をぬきにしてもよく似合っていた。最近めっきり娘らしくなった宙。もう馬車で出かけても、切腹騒ぎを起こすようなこともないだろう。


「今日は楽しみにしていたようだが、猫まで連れてきたのか」


 宙の膝の上に、さく姫が大人しく座り、通武を金と青の目で睨んでいた。今日は猫もめかしこんでいるのか、普段の紫の紐ではなく、宙の洋装と揃いの青い紐を首に結んでいた。


「はい、このさく姫は母上の代わりのようなものですから、今日の初荷式に連れて行きたかったのです」


 京の宮子より預かりし猫。宙には母親代わりだったのか。通武は、微笑をうかべ、さく姫を見降ろしたが、猫は気に入らないのか、ふいと横を向いてしまった。


「おたた様は今日、お越しにならないのですか?」

 先日まで、貴子も同行の予定であった。宙の言葉に、通武は一瞬頬が緩んだが口元を引き締める。


「体調が思わしくないので、今日は大事をとったのだ」

「お大事になさって下さい。まだ残暑が厳しいゆえ。それにしても、この間までとてもお元気でしたのに。夏バテもあるのでしょうね」


 生さぬ仲の母を気遣う宙に通武の心は、遅れてきた僥倖を味わう。

「そなたも、最近浮かぬ顔をしておるではないか。周も今日は工場に来ぬというし、我が家では夏バテがはやっておるようじゃの」


 通武の何気ない言葉に宙は頬を朱に染め、その娘らしく恥じらう顔を隠すため慌てて下を向いた。天衣無縫な宙に似つかわしくないその姿に、通武は眉をひそめた。


 口には出さぬが、宙の変化に通武はとうに気づいていた。というよりも見ていてあきらか。はきはき動いていた口からは、憂鬱なため息がもれ、強い意志を宿した眼光は、愁いをおび何時もうるんでいる。


 何よりもあたりを払うような美しさが、身の内にとどめておけぬほどあふれているのだ。これは、見て見ぬふりはできまい。いや貴子と夫婦になる前の通武なら、闇に葬むっていただろう。


「やはり、娘はつまらぬ」

 ぼそりとつぶやいた通武をさく姫と宙は怪訝な顔をして見る。


 こんなに苦しめ、蕾がほころぶ片時の美しさを与えるのは父ではなく、宙の口からこぼれぬようになった名を持つもの。


「周が気になるのか?」

「そんな事ありません!」


 そう全身で否定するように言うが、顔は熟れた柿の実のように赤く、甘い芳醇な香りまでしてきそうだ。馬車の車輪が回る騒々しくも人を急かす音にしばし耳を傾け、通武は口を開いた。


「そなたには、言い尽くせぬほどその身に余る重いものを背負わせてきた。藩の存亡をかけた継嗣問題。そなたの存在はそなただけのものではなかった。明治になってもお家を守る事には何ら変わることはない。しかしもうよいのだ」

 通武がそう言っても、宙は納得しない。


「しかし、我が家には宙しか子はおりません」

 通武は額にかかった前髪をかきあげる。


「そなたは昔この馬車の中で、言うたことを覚えておらんのか」

 宙は馬車の低い天井に視線をさまよわせ、はたと思い出したようだ。『父上はまだお若い。これからお子などたくさんできる』そう宙は言ったのだ。


「では、おたた様のお腹にお子ができたのですか?」

 通武はゆっくりとうなずく。今日の貴子の体調不良の原因は腹の子であった。


「まだ、無事生まれるかどうかもわからんし、男かどうかもわからん。それでも、どうにかなるであろう」


「急にそのような事を言われても困ります。周にもいろいろあるでしょうし……」

 籠の鳥は、自由な空にあこがれはするが、飛び立つ勇気を持てない。


「貴子が進めていた縁談なら、周は断った。自分の相手は自分で決めたいと、言うてたぞ」


 縁組は親が決めるもの。家を思い、子の将来を思い決めるもの。それを自分で決めると周は言ったのだ。

 貴子がしつこく、心に決めた人がいるのかと尋ねたら、周はこう言った。


「とても自分に釣り合う相手ではありません。ですが、あきらめられないのです。何年かかるかわかりませんが、その方に見合う地位を築くため、勉学に励み己を高めたいと思うております」


 ゆるぎない決意をやどす周のまなこ。その目を目の当たりにしてより、通武は腹をくくっていたのかもしれない。しかし、そんな周の言葉を宙に言うてやるほど寛容な父ではなかった。


 馬車が止まった。川べりの工場についたようだ。開いた扉から通武は顔を出すと、潮風を含む新鮮な新しい風が吹いている。その風を受け、つかの間躊躇したが迷わず一歩を踏み出した。

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