第九話 周の言い分

 おいていかれる。また信じたものにおいていかれる。こんな思いはもうたくさん。追いかけても追いかけても、周には追い付けない。


 奥向きの自室に帰った宙は、西郷にもらった手鏡を食い入るように見ていた。背中にはびっしりと汗が浮いている。


「今のは何だったのだ。我がジョンを好きとな。男としてか? ありえんだろう。この家は、父上とおたた様の浮かれ気分に汚染されておる」


 後ろに佳代が控えているが、宙は鏡の中の自分に向かって思いを吐露する。その見つめる顔は、困惑の色を深め、途方に暮れている。周もそういえば、口ではきつい事を言っていたが、どうしていいかわからぬ、そう顔に書いてあった。二人は同じような顔をしていたが、もう心の内に全く違うものを抱えている。


 宙はこの下屋敷で周に出会ってから、周を己の一部と思っていた。男として生きていくもう一人の自分。二人の心は寄り添い、同じものを見ているはずだった。何時の頃からこんなに我らの心は離れてしまったのか。


「お佳代、周は何が言いたかったのだ」

 佳代はおずおずと答える。


「周さんは、宙様の事がお好きなのだと思います。宙様とジョン殿が仲良さそうにされてるのを見て、焼きもちを焼かれたのではないかと。たしかに、宙様はジョン殿の前では借りてきた猫のようですもの」


 また焼きもちか。宙は舌打ちしたい気分になった。ジョンの前でしおらしくしているのは、英国紳士流のレディーファーストというものを受けるに値する態度をとっているにすぎない。それを周は勘違いしている。宙はだんだん腹が立ってきた。


「我の事を好きとな。それは友としてではなくか?」

「はい、気持ちを突き詰めれば、友ではなく夫婦になりたい思いだと思います」


「夫婦? あいつは我を所有して従わせたいという事か。友として対等である方がよっぽど尊いというのに」


 宙は情を通い合わせた夫婦など、見たことがなかった。宙の目の前で父と母が顔を合わせた事もない。夫婦と主従の関係は同じようなものだと今までは思っていた。多江やおたた様がこの家に来るまでは。


「友では、死ぬまで傍にいることはできないでしょう。夫婦になれば死ぬまで傍におられます」


 昔宙は周に言った。「我の傍におれ」と。母においていかれた寂しさからか。捨てさった男への未練か。理由なぞわからない。でもたしかにあの時周とともにいたいと強く思ったのだ。


 腹立ちは、胸の奥底に沈んでいく。どうして今までのようにはいかないのか。変わらず周には傍にいてほしい。共にいるには、宙も変わらなければならないのだろうか。


「我はどうすればよいのか?」

 宙は藁にもすがる思いで、佳代に答えを求める。


「周さんのお気持ちを受け入れる事が出来ないのであれば、距離をとって離れるのがよろしいかと」


 離れたくはない。それだけははっきりと宙にもわかる。女を受け入れ、宙として生きている自分の半身をもがれるようなものだった。


「受け入れるとは、夫婦になるという事か」

 それはできぬと、通武に釘を刺されていた。


「そうではなくて、宙様も周さんの事を男として好きになるという事です。嫁にいくまでの心のお付き合いと割り切るしか」

「そんな簡単に割り切れるのか」


 父とおたた様の姿を思い浮かべる。二人にしか見えぬものに支配されているような、操られているような。つまり他の者が入り込めない空気が漂っているのだ。


二人を操るものがなんなのか、宙はまったく興味なくただ、二人のいちゃつきを冷たい目で見ていた。その何かに操られた二人は、明日から他人にもどれと言われて、はいそうですかと素直に従う事ができるのだろうか。


「そうですねえ。ますます離れられなくなるかも。そうなれば、駆け落ちとか」

 佳代の声音は、深刻な話に反して、どんどん楽し気にはずんでいく。


「まるで伊勢物語のようではないですか。夜露のひかる晩に手に手を取って逃げていく宙様と周さん。ああ見てみたい。そして絵に描きたい」


 佳代の頭の中では、くっきりと小袿こうちぎ姿の宙と狩衣の周の映像がうかんでいることだろう。佳代の興奮がうつったのか、さく姫が二人の周りをぐるぐる走り回る。


「ええい騒々しい。大人しくせよ」


 そう言いさく姫を片手で捕まえ、金と青の目を宙は覗き込む。周は何時から変わったのだろう。ままならぬ思いを抱え、ずっと我の傍におったのか。


 そう考えると、気づいてやれなかった己に腹が立つ宙であったが、気づいたところでどうすることもできない。それでも、宙は周の友であると自負していたのだ。友の懊悩を少しでも軽くしてやりたかった。周に心の底からすまないと思った。




 大きな西洋風の姿見に、濃い鮮やかな青い布をまとった宙の姿が映っていた。


「宙様この布にいたしましょう。この色が一番お似合いでございます。後は型ですね。やはりここは、女性らしさを出すような……」


 そう言って、佳代は外国人の洋裁師が差し出した紙の束を勢いよくめくりだした。日本人の客はほとんどいないのだろう。洋裁師は宙と佳代を珍し気にしげしげと見ている。


「僕もその色好きです。ロイヤルブルーといって、イギリス王室でもよく使われる色です」


 赤い布張りの大きな椅子に、ゆったり足を組み座るジョン。その姿は調度品の一部かと思うほど、居留地の洋裁店の店内にしっくりととけこんでいた。


「まあ、それはなんと尊いお色でしょう。日本では群青に近い色ですね」


 紙の束から目線を外さず、佳代はジョンと話している。先週の縁談も無事断られた佳代は、縁談よりも生き生きとしている。見本の洋服を着て、つっ立っている宙一人が蚊帳の外であった。


 自分に何が似合うかなど宙は考えたこともないし、好きな物もない。佳代を連れてきて正解だった。


 洋服を着れば、少しは身軽になれるかと思ったが、コルセットというもので体を縛り上げられていて、着物とちっとも違いはないように思えた。それにこの踵が高くなった靴はたいそう足が痛い。日本でも西洋でも、女の身が重いのはいっしょのようだった。


 佳代が選んだ型をちらりと見て、一言袖はゆったりと長めにするよう言い、宙はうなずいた。布と型を決めたらば後は、寸法を測るだけ。そう言われ宙はまだ終わらないのかとげんなりした。しかし自分から洋服をつくりたいと言い出したことを思い出し、大人しく体のあちこちを巻き尺で図られた。


男の洋裁師が宙の体に障るわけにもいかず、佳代が支持を受け、図るものだから時間がかかってしょうがない。その間姿見の前に立ち続けたが、自分の姿を見たくもない宙にとって、苦痛以外のなにものでもなかった。


佳代やジョンは美しいと言ってくれるが、それはお世辞に過ぎない。このいびつな左手がくっついているのに、うつくしいわけがない。宙は鏡の後ろ、窓で四角く切り取られた曇り空を見ながら、そう思っていた。


「仮縫いのドレスができあがれば、お屋敷で調節してくれるそうです。出来上がるのが楽しみですね」


 そう爽やかに言うジョンとは対照的に、宙の顔は沈んでいる。ぎこちない動きで、佳代の手を取り着替えに向かった。

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