第八話 ジョンの授業

 屋敷の方から黄色い歓声があがり、宙のいる東屋にまで聞こえてくる。貴子の嫁入りに際し、久我家から連れてきた女中たちが、すり足ですべるように玄関へ向かっていく姿が遠目に見えた。


「周さんのお帰りみたいですね」

 のんびり佳代が言う声に、胸の内の熱がさらにあがる。


「あの女中たちは、おたた様が連れてきたのになぜ周の世話を焼く。豊島なら許しておらんぞ。おたた様は周に甘い」

 貴子は通武のいとことして、周を厚遇していた。


「あの中の一人、行儀見習いに上がっている久我家の遠縁の娘さんを、周さんのお相手にどうかとお考えのようですよ」

 普段ぼんやりしているわりに、奥向きの噂や、情勢には敏感な佳代だった。


「今年の内にご婚約されるのではないかと、もっぱらの噂でございます」

「婚約? 我は聞いておらんぞ。それに、あやつまだ十五ではないか」


 ジョンに英語をならうようになり、宙は寝る間も惜しみ勉学に励んだ。日中は花嫁修業を隙間なく豊島に入れられ、それをさぼろうものならさぼった分夜にまわされる。夜に英語の時間を死守したい宙は、本人の意思とは反し、花嫁修業に熱が入ったのだった。

 

 最初の内は、ジョンのあの青い目を見る事さえできなかったが、英語で意思の疎通ができるようになると、もう臆することなく会話ができるようになった。

 やっと周に追いついたと思ったのに、また先を越される。


「宙様も十五。私は十七になりました。許嫁がいてもちっともおかしくない年ごろです。三人の中で、まさか周さんのお相手が一番に決まるとは……」


「我らは決まらないのではなく。決めないだけじゃ」

 宙の負け惜しみに、佳代は容赦なくつっこむ。


「宙様現実をみましょう。私、ついに来週ある縁談でいいかげん決めろと父に言われてしまいました。決めろと言われても、先方から断られたらなんとすればいいのやら」


 二人は世間の規格からはみ出した自分たちを、持て余しているのだった。宙が宙となってより数年。このところの花嫁修業の成果か、ようやく女子おなごという役割に少しずつ慣れてきたというのに、今度は嫁という役割をかせられる。


「新しい世になったと言って浮かれているのは、男だけだな。女にはちっとも関係ない。江戸の代といっしょ、女は嫁がねばならん」

 宙の言葉を聞き、佳代は人差し指をあごにあて小首をかしげた。


「そもそもどうして、女は嫁がねばならないんでしょう」

「それは、子を作りお家を繁栄させねばならぬからだろう。御先祖様から代々受け継いできたお家を」


「では、ご先祖様のために女は嫁に行き子を産み、旦那様に従うのですか? おかしいです。私は死んでいる人ではなく、生きている自分のためにしたい事をしたい」


 佳代の話に宙の頭はついていかない。真之介になってから、お家を守る事だけをたたきこまれ、御先祖に恥じぬ行いをせよと言われ続けてきた。母宮子のいう事は絶対であり、まだ宙の中にその言葉は、こびりついている。


「佳代はよいな、したい事があって」

「宙様も何かしたい事は、ございませんか?」


 せねばならぬ事はあっても、したい事はない。俗世から逃げた宮子の言葉を、何時まで守らねばならぬのか、宙にはわからなかった。


「行きたいところはある。でも、はるか遠くだ」

 そう言い、入道雲が沸き立つ空を見た。


「母上も我を女にもどすくらいなら、尼にしてくれたらよかったものを」

 宙の投げやりな言葉に、佳代が真面目くさった顔をして宙の顔をのぞきこむ。


「宙様が、大人しく修行なぞできるわけがない、と母上様は見抜いておいでだったのではないですか」


 佳代の言葉はいちいち的を得ているが、やはり腹立たしい。そう思いむくれていると、


「それに、尼になられていたら、宙様とお会いできませんでした。母上様によくぞ宙様を東京に置いて行かれたと感謝いたしたい気持ちです」


 胸をそらし誇らしげに言う。佳代にはかなわない。そう思い宙は佳代の団扇を取り上げ、佳代をあおいだ。佳代のやや肉厚の唇がほころび、涼し気に目を閉じたのだった。



 これは拷問なのか。周は椅子に座り、宙とジョンを見ながら心の中でこぼしていた。

 ジョンの授業より田島が抜けてから、時間があえば、周も参加するよう通武に頼まれたのだ。女中が周りにいるとはいえ、外国人と二人にするのは心配という親心であろう。


 周の目の前で、宙はにこやかにジョンと英語で会話をしている。宙の英語は日常会話なら支障がないほど、上達していた。短期間でこれほど、上達するとは周は舌を巻いたが、そんなこと意地でもみとめたくない心持だった。


 宙があまりにしおらしく、手折れば折れそうな撫子の花のような可憐な目をしてジョンを見ている。今すぐにでもこの場から逃げ出したいのに、授業が終わるまではじっと椅子に座っていなければならない。


 この光景から目をそらしうつむいても、耳には普段より高い宙の声が嫌でも流れ込んでくる。目をつむり精神を平静に保とうとしても、無理だった。


 宙が猫をかぶっているのはあきらか。その猫を見せたい相手は自分ではない。自分のものにはならない猫。そんなもの消えてしまえばいい。周はそんな乱暴な葛藤を内に閉じ込め、なんとか無表情を取り繕っていた。


「周、聞いておるか」

 宙に日本語で呼ばれ、我にかえる。


「周は生まれた日を知っているか?」

 日本では古くから、新年を迎えると皆が一斉に一つ年をとる風習だ。だから、個人の生まれた日など記録にも残らないし、意識もされない。


「いえ、存じません」

「我は豊島に聞いたら。皐月の生まれだと言われた。イギリスでは誕生日をバースデーといってお祝いするそうだ」


「はい、無事一年を過ごし成長したお祝いをしてプレゼントを渡すのです。僕は二人にプレゼントを渡したかったのですが、日本にお祝いする習慣がないとは驚きです」


 宙の英語力も上がったが、ジョンの日本語も達者になっている。片言の日本語で積極的に話しかけてくるジョンに、恒久社の工員たちは最初戸惑いを見せていた。しかし今ではすっかり打ち解けている。


「バースデーは終わっていても、何かプレゼントさせてください。宙さんと周さんはお勉強とっても頑張っていますから。ご褒美です」


 そうジョンはいって、周の凝り固まった心を溶かすような笑みを浮かべた。それでも、周は素っ気なく返事をする。


「私は、たまにしか来ませんから。そのようなものをもらうわけにはいきません」

 しごく残念そうにジョンは眉を下げたが、下がった眉は宙の一言ですぐに跳ね上がった。


「我は洋服がほしい。アリスの服は着る機会を逃してしまって、小さくなった。今度こそ我は着てみたいと思う」


「それはいい。ぜひプレゼントさせてください。さっそく居留地の洋裁師にこちらのお屋敷に来てもらいましょう」


「いや、居留地の店に行ってみたい。のお周もいっしょにいこう」

 宙は周が当然ついてくると思いこんでいるいいかたが、周の癇に障った。


「いえ、行きません。女性の洋服などようわかりません。ジョン殿に見立ててもらえばよろしいかと存じます」


 周のとげのある物言いに、宙はむっとしている。しかしこのこり固まった空気をよめるほど、ジョンの日本語力は高くなかった。居留地へ行く約束を宙とし、にこやかに帰っていった。豊島が玄関まで見送りに行き、宙と周、それに佳代だけが部屋に残された。


 障子があけ放たれ、ぬるい風が入って来る。夜になっても暑さが収まらず、周の額にはうっすら汗がにじんでいた。


「周も素直ではないな。せっかくのジョンの申し出なのに。何でもいいからもらえばよかったものを」

 宙はもう終わった話をわざわざ蒸し返してきた。勉強道具を片付けていた佳代が、ごくりと生唾をのみ、周の額の汗が、つつっと頬まで流れ落ちる。


「施しは受けません」

「施しって……ジョンは善意で申しておるのがわからんのか。おまえジョンに少々冷たくないか。あんなによいお人なのに」


 二人の会話はどんどん、険悪な方向へ向かい、不快な熱が流れ込んでくる。はたでみている佳代が、この流れを変える事も、止られるわけもなく、ペンを床におとし一人おたおたしている。宙はこれ以上、周と話すことはないとばかりに、席を立とうとした。


「お好きなのですか?」

 唐突に口から出た言葉に、発した周が一番驚いている。宙の動きが一瞬とまる。しかしゆっくり立ち上がり、周の顔を見おろし強い眼差しを向け、言った。


「我が誰を好きになろうが、そなたには関係のない話。友だというのに我に何も教えてくれぬおまえにはな」


「私はもう、あなたの事を友などと思うてはおりません」

 周は宙から視線を外し、机の上に置かれたインク瓶を一心に見つめていった。頭上から宙の声が落ちてくる。


「おまえも我をおいていくのだな」

 この静まり返った場だから聞こえた、消え入りそうな宙の声。うつむく周は、はじかれたように顔を上げたが、もう宙の後ろ姿しか見えなかった。

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