第七話 おたた様

「宙さんどう思われます。わたくし決して妬心としんから申しておるのではありませんのよ。宮子様よりのお文がきたのなら、わたくしにそう言っていただければいいだけの事。それを殿様がお隠し遊ばすから、いらぬ気をつかうのでございます」


 半年前に嫁いできた久我貴子こがたかこは宙を前にして、夫である通武の愚痴を額に汗をかきながらもらしていた。


「おたた様そう、お怒りにならずとも。母上は俗世をすて仏の道を歩む方。何もやましいことがあるわけないではないですか」


 おたた様とは、公家言葉でお母様のこと。公家の娘である、貴子はこの家に公家風を持ち込んだ。


「甘いですわ宙さん。男女で歌を送りあうなぞ、古来より恋文と決まっております。宮子様のお歌は、嵯峨野の寂しい風情を詠まれているだけですけれど、その奥に殿様への思いが透けて見えるのです」


 ちゃっかり文を見ているのか。宙は心の中で、貴子の嫉妬にかられた貴婦人としてあるまじき行いにあきれた。


 郵便は、二銭の切手をはり黒塗りの郵便柱箱に入れれば、配達夫が京へ三日程で届けてくれる。便利な制度だ。宙もこの郵便を使い、以前より頻繁に母と文のやり取りをしている。

 

父親の恋文に興味など微塵もない宙は、郵便という近代制度に感心していた。


「安心なさいませ。宙も何度か母上にお歌を送っております。父上も季節のご挨拶程度のお歌を送られたまでの事。父上は殊の外、おたた様を大事にされておられます。仲睦まじいのはこの宙が傍で見ており一番わかっております」


 さっさとこの場から立ち去りたい宙は、いつもの常套句を言う。しかし、通武が貴子を大事にしているのは本当だ。


 三月の婚礼以来、芝居や寺社仏閣への参拝を夫婦そろって出かけていく。その時の通武は見るからに楽し気で、つまり浮かれているのである。一応宙も誘われるが、お邪魔虫なのは明らか。断る分別ぐらい持ち合わせている、十五になった宙であった。


「本当に宙さんはこの生さぬ仲の母にお優しく遊ばす。わたくしどんなに安堵いたしたことか。習慣もまるで違う武家のお家に嫁ぐこと、敵地に乗り込む気概で嫁いでまいりましたが、すべて杞憂きゆうに終わりました」


 そう言ってにこりと、細い目をさらに細めて笑う。この源氏絵巻に出てきそうな、ふくふくしい笑顔が出れば、開放してもらえる合図なのだ。貴子の気が変わらぬうちに、宙は辞去の挨拶をして、貴子の部屋からすばやく出て行った。


 奥御殿の磨き上げられた廊下を、静々と歩く宙のだいぶ後ろから声が聞こえる。


「今日もなごうございましたね」

 まだ嫁ぎ先も決まらぬ佳代は、この屋敷で行儀見習いを続けていた。


「まあそう言うな。おたた様はやきもち焼なところ以外は、いいお方だ。それにしても、そう美男でもない父上に、あそこまで必死にならんでも。それとも、おたた様の目には美男に見えているのだろうか」


 娘の冷徹な目で辛辣な事を宙は言った。


「美という物に、絶対的な尺度などありません。美しいと感じるのは、多分に見るものの主観で決まります」


 足の遅い佳代は、宙について行くのもやっとだ。しかし足早に宙に追いつき、雄弁に語りだした。


「しかし、美しいものがみな好きではないか。着物にしても、骨董書画に関しても」


「ものに対してはですね。しかしこと人間の美醜には、感情がともなっていると思います。対象物に、好意を持っていれば五割増し美しく見えるのではないかと」


 庭の松の木から蝉しぐれが降り注ぎ、長い廊下を歩く宙の足をとめた。


「こう暑くてはかなわん。男女の仲なぞ我に関係ないこと。表の庭に出る」


 関係なくはないだろう年ごろの宙であるが、結婚相手は親が決めるもの。男女の睦み合う姿を見て、あこがれるどころか将来の自分の姿とどうしても重ねる事が出来なかった。


「しかし表のお庭には……」


 貴子が嫁いでから奥と表ははっきり区切られ、年ごろとなった宙は一日の大半をこの女だらけの奥で過ごすようになった。奥にも庭があるが、表の庭に比べるとその規模は小さい。


「狭苦しい庭は好かん。今ならおたた様も気づくまい」


 撫子柄のを着ている宙の足元にさく姫がじゃれついて、余計暑さが増した。さく姫を抱き上げ、表と裏を仕切る分厚い杉戸を通る。表の家中の者と顔を合わさないよう、廊下を進み佳代の用意した履物をはき、庭に下りた。


 飛び石づたいに歩いていく。東の空に昼の陽光を受け、勢いのある入道雲が峰を連ねていた。庭園の東屋に腰を落ち着けると、池を渡って来た風は思いのほか清涼であった。


 さく姫は蝉の死骸を見つけ、つついて遊んでいた。まさか、食べるのではないかと宙が眉をしかめていると佳代がひょいと拾い上げ東屋の外へ放り投げた。それをおってさく姫もどこぞへ走っていったのだった。


「今日は暑うございますね」


 佳代は宙から少し離れて座り、団扇をあおぐ。ぬるい風が宙の顔をなぜた。

 川沿いに建っているとはいえ、工場はもっと熱いであろうな。ジョンは今頃何をしているだろう。宙は美しい青い空を見ながらジョンの事を考えていた。


 製紙工場は、ジョンを招き、順調に稼働するかのようにみえたが、そう簡単にはいかなかった。機械が組みあがりいよいよ紙をすく段階になると、材料のボロ(木綿の古布)に問題が出た。


 人々が出すボロを集めやすいよう、都市近郊に工場を建てたのだが、そのボロがなかなか集まらない。東京の街には、呉服屋の十倍の軒数、古着屋がある。しかし古着屋がボロを扱っているわけではない。


 ボロはゴミとして人家から出る。それを回収して回る専門の商売人がいなかったのだ。恒久社以外にも、数件の製紙業立ち上げの話があると聞きつけ、ボロ回収は商売になるとふんだ業者がようやく出てきた。


 なんとか原料のボロが、大量に手に入るようにはなった。しかし白い紙ができるまでは苦難の道のりだった。


 ボロを退色させる薬品の調合を間違え、出来上がった紙が紅色になったり、用水の確保にも失敗。千円もかけ井戸を掘ったが、井戸水は赤く使い物にならない。急遽工場の外に貯水槽をつくり、そこに川の水を引き入れた。


 次々と噴出する難題に加え、広岡藩士を含む不慣れな工員の指導もジョンは進めていった。内藤と田島も多忙を極めている。


 男子を出産した多江は、工場近くの家に引っ越した。そこで念願かなって母と共に暮らせるようになったのだから、宙は文句なぞ言えない。田島も屋敷内の役宅から、内藤の家の傍に屋敷を構えた。そのため、英語の授業になかなか顔を出せなくなった。それについての文句はない。


 もう少しで色、寸法ともにそろった紙が出荷できる予定だと、ジョンから聞いた。めでたく初出荷となれば、その時は工場への見学を通武に許されている。


 以前より工場へ行く事を切望していた宙だが、危ないだの工員がたくさんいるなどと許可してもらえない。周はしょっちゅういっていると言うのに。


 工場の操業がここまでこぎつけたのは、ジョンの功績によるところが大きい。会いたかったサムライガールが宙であるとわかり、ジョンがどう思ったかわからないが、忙しい中七日に一度の英語の授業に嫌な顔一つせず屋敷を訪れた。


 ジョンが日本行きをきめたこの話は、通武や周も知る事となり、周は苦笑いを浮かべ、通武は宙の悪行がイギリスにまで広まっているのかと嘆いたのだった。


 どんな悪い噂がイギリスで流れようとも、籠の鳥の宙には関係のないこと。そのおかげで、ジョンの授業が受けられるのだから、むしろありがたいとまで思っていた。今日、夕方からその授業があるのだ。

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