第十一話 門出の高砂
馬車を降りると、よく晴れた空の下に立っていた社長の田島、久しぶりに顔を見る内藤、それにジョンに出迎えられた。田島は通武に習い髷を落とし洋装姿。
宙はあたりを見回しその壮大な景色に息をのんだ。
河口近い大川の川幅は広く、少し勢いの衰えた日の光を受け、川面はきらきらと輝いている。滞留した流れからは,潮の香りが漂ってきた。その川岸の広大な敷地の中、煉瓦造りの建物がいくつも建っていた。一番大きな建物からは、煙突が突き出ており、そこから真っ黒な煙が始終吐き出されていた。
建物前の広場には人が集まり式典の準備をしているようだ。初めて工場を訪れた宙と女中たちは、ジョンの案内で、煙突のある建物へ向かった。一歩足を踏み入れると、外の陽光に慣れた目は、薄闇の中大きな塊がうなりを上げ動いているのを見たのだ。
目が慣れてくると、だんだんと工場内の全貌が明らかになった。大きな大蛇のような機械の周りに多くの工員があわただしく動き回っている。この工員たちの大半が、元広岡藩士だと宙は通武から聞いていた。
「まず、ボロを水と薬品に溶かし、紙料にしてからここで
ジョンの説明を受け機械を見ると、円筒型の鋼の網がのりのような紙料が入った桶につかり、いくつもくるくると回っていた。その網に白い紙の元が薄くへばりついている。水気を多く含む紙の元を乾燥させ、同じ大きさに切りそろえ、無駄なものが含まれていないか目で検査してからようやく洋紙ができる。
「ずいぶんと手間がかかるのですね」
「手で一枚一枚抄くことに比べれば、圧倒的に早く大量に紙ができるのですよ」
そうジョンに言われても今一つ宙にはぴんと来なかった。宙が働いたことなぞあるわけもなく、何かをつくったことさえない。この世には宙の知らないことが無限にある。その一端を今日見たような気がした。
「用意ができたようですよ」
ジョンに促され、外にでると荷馬車に紅白の飾りがつけられ、木箱が山積みに乗せられていた。馬の引綱を持っているのは、林であった。林は少々身ぎれいにし、無精ひげもそりさっぱりと晴れやかな顔をして馬の横に立っていた。
荷馬車の後ろには、恒久社と染め抜かれた揃いの
「ようやくこの恒久社より作り出された洋紙を出荷する事が出来た。みな慣れぬ仕事に苦労の連続であったことであろう。
この一歩は、国家としては小さな出来事だ。しかし一人一人の歩みとしては大きな一歩である。新しい国の上に足をつけ、己の道を進んでいく事を切に願う」
通武の挨拶を聞き涙ぐむ工員までいる。その様子を少し離れた所から宙はお付きの女中たちと見ていた。宙の後ろで洋傘をかざしている佳代は、すすり泣いている。
通武の後田島も挨拶をし、門出をことほぐ高砂を朗々と謡いだした。その低く太い歌声はあたりを静め、みなの思いをのせ万里を超えていく。荷馬車がゆっくりと、歌声に押され動き出した。
歓声が沸き起こり、みなの労苦が結実した白い紙は、国家の公益とならんため旅立っていった。
どうか、この洋紙が国中に届きますように。宙はそう願わずにはいられなかった。みな林が引く荷馬車が見えなくなるまでその場にとどまり、それぞれの思いを胸に見送っていた。
政府のお役人も大勢来ているようで、式典が終わっても通武や内藤は人垣に囲まれ立ち話をしている。工員たちは、それぞれの持ち場に急いで帰り、ジョンも工員に呼ばれ工場内に入っていった。
その場に取り残されたのは、宙と女中たちだけであった。
「感動的なお式でしたね。特に殿様のお言葉が私胸に染みました」
佳代がまだ袖で、目をぬぐっていた。洋傘が邪魔であろうと、宙はその手から取り上げた。その時、にわかに突風が吹き、あっという間に洋傘を天高く舞い上げてしまった。
女中に抱かれていたさく姫が、興奮して鳴き声を上げ暴れだす。女中はたまらずはなしてしまい、自由の身となったさく姫は空から落ちてきた傘めがけ走り出した。
風がまた吹き、傘は川へ向かって転がっていく。さく姫が日傘を追いかける。宙は傍に周がいないというのに、ひとり走り出した。もう、昔のような躊躇いはない。
女中たちの制止の悲鳴があたりに響き、通武たちの人垣が振り向く。
煽られた日傘はとうとう川に落ちてしまい、さく姫までそれを追って川に飛び込んだ。宙も迷うことなく大きな水音をたて飛び込んだ。
川に落ちた宙は、水の冷たさに驚き、底が見えない水中は心底恐ろしく、震えあがる。翡翠色の視界の中、さく姫を助けるどころか見失なってしまった。息を吸おうと口を開けるが、入ってくるのは水ばかり。しこたま水を飲み、耳も鼻も喉も焼けるように痛い。
徐々に薄れてゆく意識。それでも、水面をめざしもがくが、布をたっぷりつかった洋服が体にまとわりつきうまく動けない。
動きが鈍くなってきた体は、ずるずると底に足先から引きずり込まれる。
海では体が浮くのではなかったか。昔周から聞いた蘊蓄を思い出す。そうかここは海ではなく川だ。水が辛くないから。命が消え入りそうなこの期に及んで、どうでもいいことが頭の中に浮かんだ。だんだんと細くなっていく思考が途絶え、何も音のない水の中、宙は真之介の気配を感じた。
真之介、我を迎えに来たのか。我らは一緒に生まれたのだから、死ぬときもいっしょか。ならば寂しくはないな。一切の抵抗をやめ、体を彼岸の真之介にゆだねた。翡翠色の世界で宙の体は動きを止める。徐々に弱まっていく胸を打つ音だけが内耳に響く。また、生まれなおせばよい。その時は周に会えるだろうか?
そう思う宙の脳裏に周の顔が浮かんだ刹那、動かぬはずの左手が、生をつかみとるがごとく水面をめざし、静かにゆっくりと伸びていった。
洋服の袖は、しおれた左手を隠すため長く仕立ててもらった。しかし水中でもがいたため袖がめくれ、肉が削げ落ちた腕があらわになっている。
いつもいつも隠してきた左手。生きる事を諦めず我を導いてくれるのか?
まだ死ぬわけにはいかない。まだ何も見ていない。まだ何も……
その思いは血の道を駆け巡り、宙の体に力をあたえた。靴のぬげた両足に力がみなぎる。つま先に力を入れ、水をけり、右手で上へ上へと水をかく。あと少しあと少しで川面。しかしもう宙の中に力は残っていない。あとちょっとあとちょっと、そう思い必死にかく右手から力が徐々にぬけていく。
ここまでか。あきらめかけたその瞬間、太い腕に引っ張り上げられ宙の顔は水面に浮かび上がった。開けた視界、目の中に空が落ちてくる。
どこまでも広がる果てのない空。鳥だけが飛ぶことを許された空。今その空が宙の瞳の中にある。激しくせき込み、息をするたびその空が体を満たしていく。空の青が体を染めていく。
「宙さん!」
宙のぼやけた耳に力強い声が聞こえ、宙を抱え泳ぐ人の顔を見る。全身ずぶ濡れの内藤であった。
「私の声が聞こえますか?」
内藤の問いかけにうなづき、回らぬ口で宙は言った。
「さく姫は?」
「猫は必要に迫られると、泳ぐのですよ。もう岸に泳ぎ着いています」
宙のしたことはまったくの無駄だったのだ。そんな事で命を落としそうになるとは。心の底から笑いがこみ上げてきたが、引きつる顔面はうまく動かない。
いや、無駄ではなかった。命を懸けなければ、この何物にも縛られない自由な空を見る事はできなかった。
果てしなく広がる空があれば、どこへでも行ける。どこまでも、どんな遠くても。飛んで行ける。
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