最終話 柿の木の上
蛎殻町での騒動より周の学校では一時、宙の話題で持ちきりだった。猫を助けるためとはいえ、川に飛び込む男勝りな姫など、嫁にする男は命がいくつあっても足りぬ。みなが笑いをこらえそう噂しあった。あの式典には政府の役人が幾人も出席していた。噂の出どころはそのあたりであろう。
屋敷内では周を見るみなの目が、婿君を見る目へと変わった。今までは、通武のいとこではあるが、あくまでも書生という立場であった。
学校でも屋敷でも、居心地の悪さを感じる周であったが、肝心の宙はというと、あれ以来とんと周に顔を見せなかった。通武に激怒され大人しく奥に引っ込んでいるようだ。
正式には通武から何の打診もないまま、宙ぶらりんの状態で月日は流れ、秋も深まる晩秋となっていた。周がこの屋敷へきてもう四度目の秋だった。
学校から帰宅し馬屋へ馬を入れていると、宙の声がする。
「おまえまた背が伸びたのではないか。まるで竹の子のようだな」
久しぶりに聞く宙の声。声は澄み渡り心が晴れるようないい声をしているのに、ぶしつけなものいいは、相変わらずかわりない。柿色の格子柄の銘仙を着た宙が立っていた。宙も少し背がのび、袖からのぞく右手は指先まですらりとのび、たおやかな風情。その手に包まれたことを思い出し自然と頬が赤らむ。
「宙さんは何も変わりませんね」
赤い顔をごまかすように、周は失礼な物言いをする。宙も心得たもので、口の端をあげにやりと笑う。
「そうか? こう見えても女らしゅうなったと奥では言われておる」
そうでも言わねば、宙が大人しくならぬと思った豊島の策略ではないか。そう周は思ったが、現に宙は匂い立つような美しさをまとっている。しかし宙の周りに今日も女中は誰もいない。
「佳代さんは、どうしたのですか? お一人でこのようなところに」
「我は近頃借りてきた猫のようであったから、みな安心しておるのじゃ。一人で周に会いたいと、佳代に頼んだ。今頃、どこぞで絵を描いておろう」
ジョンからの情報では、工学寮に美術学校を併設するそうだ。今政府は西洋画の外国人講師を探しているとの事。それを聞いた佳代はその学校で学ぶことを目標に、今まで以上に絵を描くようになった。
周もよく邸内のあちこちで絵を描く、佳代の姿を見る。行儀見習いの期間はとっくに過ぎているが、未来の女流画家のためと、通武もこの屋敷にいる事を許可している。大垣屋へ帰ると無理やりにでも嫁にいかされるかもしれないからだ。これからの人材を育てる、それも旧大名家の仕事であると。
「お前にお願いがある。少し付き合ってくれ」
一間はあろうかという長い梯子を二人は右手で脇に抱え、宙を先頭に歩く。この家臣の場は今、閑散としていた。元藩士にも出会わず、梯子を運ぶ二人を咎める者もいない。工場近くに社宅が完成し、ここに残っていたものはみな引っ越したのだ。
女中たちがあわただしく働いていた、厨ももう使われていない。外の井戸だけは、かわらずこんこんと水をたたえている。その横を通り過ぎ柿の木のところまでやって来た。
あの宙と周が出会った柿の木が、今年も真っ赤な実を鈴なりにぶら下げ立っていた。周は、梯子をその幹に立てかけた。
「ここでよろしいのですか?」
周の問いに宙は満足そうに首を縦にふった。
「我はこれからこの柿の木に登る。手伝ってくれ」
周は目をむく。いくら梯子があるからと片手で木に登れるわけがない。そう言うと宙は怒るわけでもなく、自信にみちた顔をして言う。
「やってみねば、わからぬではないか」
宙は裸足になり、片手で慎重に一段一段ゆっくりと、梯子を登ってくる。その様子を枝の上から見ている周はハラハラしたが、手出しはするなと宙に言われているので、見ているしかない。
梯子を登りきった宙の右手を周がひっぱると、思いのほか強い力を宙は出し、周がいる太い枝へ移って来た。その枝より少し登り、二人並んで枝に腰かけ、蔵の漆喰の白壁、御殿の瓦を赤く染める夕映えの空を見た。
周は宙の左側から腰に手を回し、体を支えている。その姿は昔西郷が二人を例えた比翼の鳥のよう。枝にとまり、休息をとっている鳥は、どこへ飛び立つのか。
ふいに、甘い匂いがし、周の肩に宙の頭がのせられた。その重みに周の心の蔵は、胃の腑のあたりまで落下し、喉元まで跳ね上がって来た。
「あの時、我が死んでいたら周はどうしていた?」
口を開くと心の蔵が飛び出そうであったが、周は自分の気持ちを正直に言う。
「後を追って死のうとしたかもしれません」
周の言葉を聞き、宙は周の肩越しに顔を見上げて、「なぜ?」と形のよい唇で言う。周の心をかき乱す事ばかり言う、その唇をふさいでしまいたい。そんな衝動にかられたが、できる勇気など、持ち合わせてはいない。
耳がほてり、息がくるしい。何やら、宙に追い込まれている感は否めない。それでも、今言わねばならぬ。周を激励するように、茜色の空に、巣を目指し飛ぶカラスの声がこだまする。
「宙さんの事を好いておるからです」
もう息も絶え絶えに周は言った。
「それは、友としてではなく女としてか?」
宙の言葉にますます周は追い詰められていく。今さら友であるわけがない。そんな事、宙にもわかっているに決まっている。でも、まだ許してもらえない。
「夫婦となり、死を迎える瞬間まで共にありたい」
ここまで言ってようやく、宙のうるんだ瞳はまなじりを下げ、笑みをこぼす。その得も言われぬかわいらしさに、周の胸から愛しさがあふれ、その思いが口をついて出る。
「キスをしてもよろしいですか?」
学校の仲間内でこっそり回された、大人向けの洋書に出てきた男女の愛情表現。
当然受け入れられるものとばかり思い込んでいる周をよそに、宙の麗しく上がっていた口の端は下がり、それとは逆にまなじりは上がった。
宙はキスなるものを知らなかったのかと、周は説明しようと口をひらこうとすると、
「馬鹿もん、そんなこといちいち聞くな!」
宙に怒鳴られた。
何を間違ったのか、周にはさっぱりわからない。しかし、宙を怒らせたことだけは間違いない。先ほどまで漂っていた甘い空気は、あっという間に消え失せてしまった。
まだ宙の唇に未練を残す周をおいて、宙はさばさばとした声で言う。
「我と一緒にイギリスにいかないか?」
鈍っている周の頭は、宙の思考についていけない。
「それは、どういう事ですか?」
「行く目的は何でもよい、とにかくこの国を出て、まだ見ぬ世界を見てみたい。お前忘れたのか。駅の出入り口はイギリスにもつながっていると言うた事を」
ジョンを新橋ステーションまで迎えに行った時のことを、周は思い出した。
「この屋敷は広大なところだと思っていた。しかし今こうして見ると、そうでもない。それは、この国全体にも言える事ではないか?」
「京ではなく、いきなりイギリスですか」
昔共に京に行こうと、約束した。
「京など、近いものだ。そのうち陸蒸気で京まで行けるかもしれん。それに比べ世界は広い。お前とならどんな遠くでも行ける気がする」
木の下より「みゃ~お」とさく姫の鳴き声がする。ここまで登りたいのか、立ち上がり幹をひっかいている。
「さく姫の首に紐がありませんね」
周は、宙の問いに答える前に気になった事を口にした。
「川に落ちた時にとれたようだ。何かかわりに結んでやらんとな」
宙の言葉を聞き、周はごそごそと袂に手を入れ朱色をした鹿の子の飾り紐をだした。
「これを巻いてはどうですか?」
「お前なんでこんなものを持っている。どこの女にもらったのだ?」
宙の焼きもちを焼く顔を見て、周は笑う。
「宙さんこそ忘れてますね。これはあなたのものですよ」
以前、抜け穴で拾ったこの紐を周は肌身はなさずもっていたのだ。それをようやく今返すことができた。
「私はやはり宙さんの傍から、離れられないようです」
「我らは比翼の鳥だからな」
そういう宙の目を見つめていると、誘うようにその目は閉じられた。今がその時だ。周は今度こそ間違えまいと、吸い寄せられるように、顔を近づける。あと少しで麗しく少し開かれた唇に触れられる。あと少し……
ばたばたと走る足音と「まいったまいった」という田島の声が木の下よりして、二人は慌てて顔をひき離す。田島は木の上の二人に目もくれず、表御殿へ急いで行ってしまった。
「なんじゃ、また工場で何かあったのか」
興ざめた声を宙は出し、周もあまりの間の悪さに、髪を撫でつけながら言う。
「ああ、紙が売れないようです」
初荷式の出荷以来、買い手がつかず、倉庫にはどんどん売れない洋紙がたまっていった。周はこの間、工場へ行った時ジョンから聞いていた。
「洋紙はまだまだ需要がないようで。殿様はそのうちきっと波はくるとおっしゃって、そのまま作り続けろと」
「父上は、能天気だしの」
宙の言葉を受けてか、御殿の方角から、大きなくしゃみが聞こえてきた。
この後、政府からの発注に伴い洋紙の需要は伸びていき、恒久社の経営も好転していく。売れ残った紙でいっぱいだった倉庫は、空となった。紙が売れに売れた一番の要因は新聞紙の発行が相次いだのだ。
新聞の発行部数が飛躍的に伸びた原因は、明治十年の西南の役であった。
明治政府の数々の政策。秩禄処分、廃刀令などの士族特権の剥奪、諸外国との開明和親策に不平を募らせた士族たちの反乱が、各地で勃発。
日本を混乱の渦に巻き込んだ数々の内乱の中、最大にして最後の戦いが西南の役である。西郷は、自ら設立した私学校の子弟たちに擁立され、この戦いをひき起こした。
人々は西郷隆盛の戦いぶりを新聞で読み、最後の侍の死にざまを恒久社の紙の上で知る事となる。
それは、柿の木の上、夕日を浴びてよりもう少し後のおはなし。
了
あまねく空を~明治旧大名家ものがたり 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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