第十二話 手のぬくみ

 神田にある学校からの帰宅途中。日比谷御門前を周はゆらりゆらりと馬上で揺れながら、もう終わったであろう初荷式の事を考えていた。


 工場には何度も通い、見学させてもらった。ジョンの通訳を最初していたが、すぐにその必要もなくなった。手伝える事はなかったが、新しいことに挑戦している活気ある場からは、机上の勉強より学ぶ事が多かった。


 失敗続きの事業であった。しかしようやく出荷にこぎつけたのだ。周もその場に立ち会いたかったが、結局行かなかった。ジョンに見立ててもらった洋装を着て、宙が出席すると。近頃何くれとなく世話を焼いてくれる、貴子の遠縁の娘から聞いたから。

 

 自分の事は自分ですると、再三断るのだが、「周様はお殿様の、おいとこ様で

あらっしゃいます」と公家言葉で反論されるので、最近はめんどくさくてされるがままになっている。


 そおいえば、あの娘さん名はなんだったか。思い出すこともできない周だった。


 周の心情をくんだのか、馬はのそりのそりと覇気なく進む。その背後から、蹄の音が遠くから聞こえてきた。振り返ると、馬はすぐ後ろまで迫り、砂埃を舞い上げ猛烈な勢いでかけてくる。周が道をよけると、馬上には田島が乗っていた。尋常でない様子に周は声の限り、田島の名を呼んだ。


 手綱は強く引かれ、驚いた馬が後ろ脚で立ち上がるが、田島は見事な手綱さばきで馬を制し、周を振り返る。


「良いところで会った。急ぎ屋敷に行ってくれ。姫君が川に落ち意識がない。拙者は市ヶ谷の元藩医の森殿を迎えに行く。よろしく頼むぞ」


 それだけを急ぎ言い、馬の方向を素早くかえ市ヶ谷方面へ走り去っていった。周は何が起こったかと頭を巡らすより早く、馬の腹を力いっぱい蹴っていた。手綱を握る手から汗が滴る。滑らぬよう手に力をいれると、握りこぶしが震えだす。


 何が、何があったんだ。宙が川に落ちるなぞ、ありえない事態。つまらぬ嫉妬心から式典を欠席した自分を、心の内で思い切り罵倒する。どんなに罵倒しても詮無いことだったが。周は己を責める事しかできなかった。


 普段馬で入る事を許されていない表門より駆け入り、表玄関前の築山がある馬車回しを左に回り、玄関に馬を横付けにし、転がるように周は御殿の中へ飛びこんだ。

 

 ただならぬ気配に表の人間がすぐさま駆け寄ってくる。事の次第を聞き、即座に奥へ知らせがいき邸内は大変な騒ぎとなった。


 周が呆然と玄関にとどまっていると、馬車が車輪をきしませ入ってきて、中から宙を抱きかかえた通武が下りてきた。通武の顔色は蒼白である。宙は白い布でくるまれ、左腕一本だけはみ出している。青い袖の先に血の気のない左手が力なく左右に揺れている。通武は周に気づいたようだが、無言で宙をかかえたまま奥へ消えていった。


 ほどなく、森をともなった田島が帰ってきて、奥へ急ぐ。ばたばたと足音が消えていくのを周は三和土たたきに突っ立ち、遠くに聞いていた。あたりに人はいなくなり、屋敷の奥だけが喧騒に包まれている。


 目の前を通り過ぎて行った現実を肯定できず、その場に動けずにいた。風呂敷にくるみ背中に追うていたペンやインクの入った道具入れが、どさりと大きな音を立て、三和土の上に落ちた。


 やにわに周は乱暴に草履を脱ぎすて、猛然と奥へと廊下を走り出した。磨きこまれた床は滑りやすい。曲がり角で曲がり切れず勢いのまま、床に激しく倒れこんだ。膝と肘をしたたかうったが、すぐさま立ち上がり、迷路のような邸内を進む。杉戸の前までやっとたどり着いた。表と裏を仕切る杉戸は今、ひらいている。


 貴子がこの屋敷に来るまでは、奥と表の区分は曖昧なもので、周が奥へ入ってもだれも咎める者はいなかった。しかし今、この杉戸は常にかたく閉ざされ、向こうへと行ける男は通武だけであった。


 医師だけが奥へ行き、杉戸の横で田島は中を伺っている。その横を気にせず通り過ぎ、周は一歩奥へ踏み込んだ。


「中へ入ってはならぬ。今森殿が姫君を見ている。ここにおれ。誰か止めよ!」

 田島の制止を振り切り、奥へ進んでいく周に女中が壁を作り行く手を阻む。


「お静まり下さい。周様は姫君の寝間に近づく事まかりなりませぬ」


 強引に立ちふさがる女中の肩を押しのけようとする周を見かねて、田島が禁をおかし奥へ入り、周を背後から羽交い絞めにする。


「放してください! 宙さんに会わせてください。このまま会えないなんて、嫌だ! お願いします」


 悲痛な叫びは奥御殿中に響き渡る。髪は乱れ、前髪が垂れ視界を遮る。着物の襟も乱れ、見苦しくはだけていく。それでも周は抵抗をやめない。


「何事ですか!」

 体調が悪く寝込んでいた貴子が、女中に支えられ立っていた。ふくよかな顔は幾分頬がこけている。


「周さんなんて顔をしているのです。宙さんは大丈夫です。息はあります。こちらの呼びかけに答えないだけで」


「意識がないとは重症です。このまま目を開けないかもしれない。お願いです、一目宙さんに会わせてください。後生ですから」

 羽交い絞めにされても、なおあがき哀願する周を見て、貴子は言葉をもらす。


「周さんあなた……そこまで宙さんの事を」

 呆然と開いていた貴子の口はきりりと結ばれ、張りのある声で言った。


「よろしい。私が許しましょう。あなたが呼びかければ、宙さんも目を覚ますかもしれません」


 貴子の言葉に、女中たちからどよめきが起こる。姫君の寝間へ入れるのは婿君と決まっている。動揺のあまり田島の手がゆるんだ。その隙を逃さず、周は宙の寝間を目指し駆けていく。もう誰も後を追う者はいない。


 堅く障子の閉められた寝間の前で座る女中たちが、周の姿を見て悲鳴をあげる。その声にひるまず、女中を蹴散らし障子を勢いよく開けた。白絹の夜具に寝かされた宙の枕元に、医師の森、通武、豊島が座っていた。


 通武が周を見て、仰天して引きつる声を出す。

「そなたなぜここに。誰の許しを得たのだ」


「貴子様にお許しをいただきました」

 この奥をしきるのは、貴子。ここでの権限は通武より貴子が上である。


 口をパクパクと動かす通武の横に腰をおろし、宙の顔を覗き込む。額にへばりつく濡れた髪をそっと払い、手をのせる。熱はないが氷のように冷たいわけでもない。顔色もいい。周はひとまず大きく息を吐いた。


「脈も正常ですし、お熱もない。血色もよろしいのですが、意識がなく」


 そう森の説明を受けた周は、しばらく規則正しく宙の口からもれる息に耳を澄ます。すると突然、宙の肩を両手で鷲づかみにし、大きく上下に揺らし始めた。これにはみなが驚き、傍若無人にふるまう周を止めようとしたが、かまわず周は宙の名を呼び続けた。


「宙さん、起きてください! 宙さん!」

 周の呼びかけに答えるように、宙の瞼がぴくりと動いた。森が慌てて言う。


「意識が戻ったようです」

 ゆっくりゆっくり、薫り高く気高い蕾が開くように、宙は目を開けた。口元に笑みを浮かべて。


「周、我を呼んだか?」

「はい、たしかに呼びました」


 周はここで間をおいて、周りで喜ぶ通武や豊島を無視し、宙の顔を覗き込み言った。

「宙さん眠っていただけでしょう?」


 この周の言葉に、神や仏に感謝の言葉を並べ、手をすり合わせていた豊島の動きがぴたりととまる。通武は目をむき、ふるふると体が震えている。それを横目に、宙は起き上がり片手だけで大きく伸びをした。


「それにしても、よく寝た。最近夜も眠れぬほどお前の事を考えておったのでな。ああ、すっきりした」


 宙はそう言い、周を見てにこりと笑ったのだった。寝不足に加え、溺れた事による体力消耗のため、眠りこけていただけであった。


「馬鹿者! なんと人騒がせな」


 滅多に荒げぬ通武の声がその場を震わせた。そんな赤鬼のように怒り狂う通武の横で、周はうつむく。宙に「お前のことを考えていた」ただそれだけのことを言われたにすぎないのに、多幸感の波に押し流されそうな理性を、何とか保とうと戦っていた。


 ふいに周の手は、幸福の波に押され、夜具からはみ出ていた宙のいびつな左手を包み込む。この手を離してはならない、そう周は思い折れてしまいそうな手を慈しむ。冷たかった左手は周の熱が伝わりほんのりと暖かみを帯びてきた。


「そもそも、おまえはいい年をして猫を追いかけ川にはまるとはどういう事か! もう子供ではないのだ。もう十五ぞ。心配するこちらの身が、いくつあっても足りぬではないか……」


 左手一つではなく、宙の全身をこの腕で思いっきり抱きしめたい。通武の手前、そんな事をできるはずもなく。周が己と葛藤していると、宙の右手が夜具を持ち上げ、左手を隠してしまった。その下に右手を滑り込ませ、周の手を握り返した。

 夜具の下で密かに睦み合う二人の横で、くどくどと通武のお説教は続いていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る