第十話 政次の憂い
西洋人形のようななりをした少年が、武士の誇りをなにより大事にする父に殴られたその日。通武は朝から、幸橋御門そばの東京府庁に出向いていた。新しく府知事になった大久保一翁に、製紙事業の設立の際は協力を頼みたい旨を伝えに。大久保は通武の創業を歓迎し、便宜を図ることを約束してくれた。準備は着々と進んでいる。
その後、品川駅に向かった。鉄道は今年五月に横浜品川間が開業。九月には、新橋まで全線が開通する。
通武は、西洋風の平屋建駅舎の改札前に止めた馬車の中、宙と陸蒸気にのる約束を思い出していた。新橋まで開通すれば、京までは無理でも、横浜まで遠出してみよう。もちろん周も連れて。そんなことを考えていると、駅構内に入っていた従者が人を連れて戻って来た。
もう五十になるその人は、腰に大小を下げ、老いを感じさせない若々しい足取りでこちらに歩いてくる。扉があく。通武は久しぶりに見る深々と頭を下げたその姿に目を細めた。
「殿様自らのお出迎え、恐悦至極に存じ上げます」
佐々政次がそこにいた。
「陸蒸気という物は、大層早いですな。車窓を見ていますとめまいがするほどです」
広岡から横浜まで蒸気船に乗り、そこから陸蒸気に乗り換え政次は東京へやって来た。
「そんなに早いのか、余はまだ乗っていないのだがこの馬車に乗った時も驚いた。あまりの速さに、考えがまとまらぬほどだった」
馬車内で向かい合う政次の顔を見て、通武は言った。
「文明開化とは、思考を捨て去り、時間を短縮する事に心血を注ぐことなのでございましょう。そのようなあくせくした道の先には、何があるのでしょうな」
相変わらずな叔父の毒舌に、通武は頬をゆるめた。今回の東京行きは、県庁の参事として、困窮する武士のため授産所設立の上申書を政府に提出するためだった。
「しかし殿様、このおいぼれにご相談とは何事でしょう」
政次の上京を聞いた通武は、相談があるからと会談を取り付けたのだった。
「まあ、そう慌てるな。大蔵省に赴くのは明日であろう。今日はゆっくり飲もうではないか。積もる話もたんとあるゆえ。今日の事周には黙っておる。さぞあなたを見て驚くぞ」
通武がそういうと、政次はいたずら好きな弟を見るように慈愛のこもった目をして、ほほ笑んだのだった。
周を驚かせてやろうと、いらぬ茶目っ気を出した結果、屋敷での大騒動となった次第である。
その夜、酌をする女中を下がらせ政次と二人、酒を酌み交わしていた。
「今日はあなたらしくない。どうしたというのか」
通武は、盃を傾け言った。何時も政次の気配は鏡の
憧憬の念を抱き、政次を絶えず見てきた通武だからわかる事である。
「先ほどは御無礼いたしました。殿様の前であのような醜態をさらすとは」
「いや、あれは宙が悪いのであって周はなにも」
醜態とは、周の女装の事であると通武は思った。確かに、武士の子としてあるまじき行為。女子の格好どころか、異人の女子の服であるからなおさらだ。しかし、通武は、奇異な物を見たと言う感慨はもたず、妙にしっくりと腑に落ちるものがあった。
「あまりにも驚いて、心の蔵が潰れるのではないかと思うたのです。己を自省する事が出来ず手をあげてしまいました。殴ったところで、あやつの中に流れる異人の血が薄まるわけでもないと言うのに」
通武の手から盃が落ちる。お膳のふちに当たり、乾いた音を立て畳の上に転がった。幸い盃の中に酒は残っていなかった。
「どういう事だ、周に異人の血とは。あなたの子ではないのか」
ろうそくの灯りに揺れる政次の横顔は、昼間の顔よりも十は年を取って見えた。
「あれは孫です。嫡男春馬と異人の間にできた子。女はイギリスの武器商人の娘でした」
「春馬が長崎に遊学中、できた子か」
政次は言葉なく、うなずく。
「娘は産後の肥立ちが悪く赤子から引き離され、本国に帰されたそうです」
春馬の長崎遊学はたしか二年間。二年という短い期間、学問もさることながら、最新式武器の情報収集も任せていた。
「赤子は他のイギリス人夫婦の養子に出されるところを、春馬が無理やり広岡に連れて帰って来たのです」
娘から引き離され、忘れ形見まで失いたくなかったという事か。通武は目をつむり、瞼の裏に春馬の精悍な顔を思い浮かべた。
「春馬が周と名付けた赤子を、私は佐々家出入りの商家に預けたのです。商家の若主人は春馬の竹馬の友。事情を分かった上で私の子として育ててくれました」
「あなたの子として育てるのであれば、手元に置いておけばよかったものを」
そこまで言って通武は口をつぐむ。
「武家の中で育つは、あまりに不憫。商家であれば、あの外見は目立つまい。そう思ったのですが、結局は春馬の血なのか武家のさだめから逃れられなかったようです」
周に役目を与えたのは、通武である。しかし、役目を告げた時の周の目を今でも覚えている。熱を帯び、功名立てんと欲す若武者の目であった。
「叔父上、新しい世と言ってもなんら武士という物は変わっていない。命を懸ける場所を探している」
『武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり』やみくもに命を懸けるという事ではない。死ぬ気で挑む。その行いに値する事を見つける事が大事なのだ。しかし武士も人間、時に命を懸けるものを見誤ることもある。
「春馬を死地へやったは、余である。叔父上は非戦を主張されていたというのに。その責めは死ぬまで背負っていく」
通武の顔に政次は目を細め、仏を拝むがごとく崇高なまなざしを向けた。
「婿君は誠の主君となられたのですなあ。この政次感慨無量でございます」
まだ、藩主に着く前の呼び名を言う政次の声が、耳にしみ胸に落ちてくる。
「その無量の責めをおったまま、余は前へ進む。新たに製紙業を起業する資金がいる。広岡の土地を処分しようと思うておる。その土地を県庁で買い上げてほしいのだ」
通武の相談事とはこの事であった。授産所に活用されるならなおの事、広岡のためになるのなら手放しても惜しくはない。
「わかりました。この佐々政次、殿様の願い叶えるため、粉骨砕身いたしましょう」
政次は落ちた盃を拾い上げ、通武に渡しなみなみと酒を注ぐ。それを一息に通武は飲みほし、政次に返盃した。
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