最終話 胸の疼き

 かつての主従が盃を交わした同時刻。表御殿にある、周の居室に忍び寄る月影があった。満ちた月はとうに天頂を過ぎている。


「周、起きておるか我じゃ」


 宙の忍び声を聞いて、寝床の中まんじりともせず天井を見上げていた周はすぐに

起き上がった。障子を開けると、宙が盆を片手に持ち、寝間着姿で立っていた。


「こんな遅くにどうしたのですか」

 夜半に女子を部屋に入れるべきか悩む周の横を、するりと宙はすり抜け奥へ入っていく。


「腹が減ったろう。佳代に握り飯をこさえてもろうた」


 夕餉の席で周の食が進まぬのを、宙は見ていたようだ。盆の上には皿に乗った握り飯二つと、底が丸いガラスの瓶がのっていた。口の中が切れており、物が食べられなかったのだ。宙に言われ、空腹であることに気がついた。


 周が腹に手を当てるのを見て、宙は破顔する。盆を畳の上に置き、周が先ほどまで寝ていた布団の上にどっかりと腰をおろした。青い月の光が差し込み、室内は海の底のよう。宙の白い寝間着だけが浮き上がり、周の内をその白がくすぐる。


「寝れなかったのであろう。我もじゃ。おのれのふがいなさに腹が立ってしょうがない」


「気にしないで。父は何時もああなのです。広岡にいる頃から、何度かぶたれた事があります」

 宙の顔がくもり、周は慌てて付け加えた。


「誤解しないでください。疎まれていたわけではありませんから。父は私の事が心配だったのだと思います」


 そう言い、久しく影を潜めていた周の髪をなでる癖がでた。不思議と前ほどこの赤い髪が厄介なものと思っていないことに、周は気づいた。


「戊辰のおり、広岡の藩兵を指揮し戦った佐々春馬の父は、さすが誠の武士であるな」


 宙の言葉に周は驚く。

「兄をご存じなのですか?」


「少数ながら勇猛果敢に戦った勇姿は、江戸藩邸まで轟いておった」

 自慢の兄を宙が知っていた。眠れぬ夜の思いがけない朗報である。


「兄はよく私に会いに来てくれたのです。剣術の稽古もつけてくれました。こっそり、父の奥方様からと、甘い菓子を持って」


 甘い菓子の味を思い出し、腹がなった。慌てて佳代の握った、いびつな形の握り飯を頬張る。形はあれだが、味はおいしい。無心に食べる周に向かって、宙の右手はすっと伸び、頬に触れた。


「そう急がずとも。米粒がほら……」

 そう言って、米粒をつまみ周の唇に押し当てた。宙の指先の冷たさが、唇に伝わる。


「そうだ、今日居留地に行った田島が、面白い物を買ってきた。異人が好むラムネという飲み物だ。井戸の水で冷やしてあったからこっそりもろうてきた。飲んでみよ」


 宙が差し出した瓶を見て、恐る恐る木のような栓に力を入れ、引き抜いた。抜けると同時にポンと大きな音が部屋中に反響する。夜のしじまを破る音に、二人は同時に身を縮めた。


「あの、瓶の中から変な音がするのですが、本当に飲み物ですか? まさか背が縮んだりしないですよね」


 懐疑心に顔をゆがめ周は言った。宙は「多分大丈夫」と無責任な事を言うのみ。周は毒見をする心持ちで、目を強くつむりラムネという汁を口にふくんでみた。口に入れた瞬間、目がカッと見開かれたので、宙は慌てて言った。


「おかしな味がするのなら、吐き出せ」

ゴクンと喉をならし、得体のしれぬものを飲み下した周の顔にみるみる笑みが広がる。


「いえ、甘くておいしい。でも口の中で汁が踊るので驚きました」


 周の謎の言葉の真相を確かめようと、宙も一口飲んでみた。やはり、口に含んだ瞬間カッと目をむいた。


「なんじゃこれ。甘い汁が口の中で大暴れして、喉がチクチクする」

 二人は笑いを必死にこらえ、一つのラムネを交互に飲んだのだった。


「このラムネ、おいしいけれど握り飯にはまったくあいません」


「全部飲んでから、言うな」

 そう言って宙は、周の布団にごろんと横になり猫のように丸くなる。


「腹は満たされたか?」

 宙の腹が満たされたような顔をして言った。


「はい。ありがとうございます」 

 腹以外にも満たされたものはあるが、それは隠しておくことにした。宙は、手足をのばし、あおむけになる。


「我は、おまえの役にたっているだろうか」

 天井を見上げたまま発された宙の問いに、周は首をかしげる。


「守ってもらわずともよいと言ったのに、守ってもらってばかりのような気がする。それでは、対等ではない」

 男が女を守るのは、しごく当然のことであると周は思う。しかし、そう思われることが宙は嫌なのだろう。


「私は宙さんから、沢山の物を頂きました」

「我は何もやっておらんぞ」


「勉強する機会をくれました。ペンとインクを頂きました。そのほかにもいろいろ」

「それは、すべて父上がされたことだ」


「宙さんがいたからこそです」

 そう周が言っても、宙は得心がいかないようだ。でも、少し満足そうにまなじりを下げる。


「周がそう言うのなら、そうなのかもしれんな……」


 最後の言葉は、宙の瞼が閉じると同時であった。しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。その無防備な律動を聞いていると、今まで蓋をして気づかぬふりをしていた感情が、周の内にあふれ出し渦をまき、理性を飲み込んでゆく。目もくらむ程胸が痛み、うまく息ができない。


 海の底に眠る厚い貝殻に守られた、真珠のような宙。周はその真珠に手を伸ばす。あと少し。あと少しなのに手はくうをつかむ。触れてしまえば、はかなく泡と消えてしまう。そんな事はわかりすぎるほど、わかっている。

 

 胸の痛みはうずきへと変わり、その思いの名を周は知る。名前がついてしまった感情を抱え、前へ進むことも引くこともできず、途方に暮れた。

 薄闇の中、思考が滞留する海を漂う周。無情にも暁の光が障子の隙間より差し込み、宙を照らす。眠れぬ夜はあけた。



 翌朝、通武は深酒の重い頭をかかえ政次の挨拶を受けていた。


「広岡の土地の件はお任せくだされ。殿様の新たな挑戦、陰ながら応援いたしとう存じ上げます」


 政次の言葉に力づけられた思いの通武であったが、気がかりな事を口にした。

「周に会わずに行くのか」


 周とはあれっ切り顔を合わせていない政次にそう言うと、一枚の写真を出し周に渡してくれと言う。


「よいのです。会えば広岡に連れて帰りたくなりますゆえ。私もまだまだ修行がたりませぬ。殿様どうか周の事よろしくお願いいたします」


 そう言い、深々と平伏する。宮子もそうだったが、つくづく余は頼りにされておるようだ。そう思い、通武はうつむき独り笑う。

 退出する政次の背中を見送る。昔は畏怖の思いを込めて見つめた大きな背中は、随分小さくなった。自分も、宙や周にそう思われる時がくるのであろうか。では、今は存分に大きな背中を見せねばならぬ。そう思うと、ぽんと一つ膝を打ち、立ち上がったのだった。



 暮れ方に内藤が屋敷にやって来た。勉強の終わるころを見計らい、通武は勉強部屋へ向かった。写真を渡すためと、もう一つ重要な役目を伝えるために。

 ランプの灯る部屋へ入ると、周の顔に驚いた。目の下にくまができている。政次にぶたれ眠れなかったのだろう。通武はかわいそうに思い、励ましになればと預かった写真を渡した。


「兄上の写真」

 そう言い周は、刀を持った若き侍の写真を食い入るように見つめる。


「長崎遊学中にとった写真だと、そなたの父が申しておった。周が持っておる方が供養になると」


「凛々しい侍じゃ。目元が周によう似ておる」

 周の隣から宙が覗き込んで言った言葉に、通武はどきりとしたが、平静を装う。


「内藤も懐かしいであろう。そなたは藩校で春馬に教えを受けておったゆえ」

 春馬は長崎遊学を終え、藩校で一時洋学の教鞭をとっていたことがある。


「帰国して先生の戦死を聞き、共に戦いたかったとどんなに悔やんだことか」

 過ぎ去った過去を思い、唇をかむ内藤に通武は言った。


「あの戦で散っていった敵味方すべての英霊を、忘れてはならん。しかし、いつまでもその事にとらわれていてはこの国は前に進まぬ」

 三人の顔を見回し、決然と通武は言った。


「余は製紙業を始めようと思う」


「せいしとは、生糸きいとでございますか?」

 宙がすかさず口をはさむ。この娘は少々こらえ性がない。苦笑いをしつつ言う。


「本を作る紙じゃ。西洋紙がこれから大量に入用になる。その手伝いを内藤、引き受けてくれぬか」


 機械購入を、イギリス領事館と交渉せねばならぬ。製紙に詳しい技師もイギリスより招聘するとウォートルスから聞いた。イギリス人には通詞が必要だ。そのすべてを任せられる人材は、内藤を置いていないと通武は判断した。


「この事業を軌道に乗せるには並大抵のことではないと思う。しかしその労苦、共にしてくれぬか」


 内藤の顔は紅潮し、口がわなわなと震えている。

「この命、海を越える決意をいたしました折より、殿様にお預けてしております。今だその命はお預けしたまま。どうかこの内藤を思う存分お使いください」


 内藤の言葉に、通武の胸は熱くなる。藩主時代も多くの家臣に支えられていた。今その立場を下りても、すべてをなくしたわけではなかった。この事業必ず成功させねばならぬ。決意を新たにする通武だった。


「我も何かお手伝いしとうございます」

 天衣無縫に宙が言う。手伝うと言うても、宙は女子。できる事はないように思う。しかし、その心意気を買ってやりたい。


「忙しくなれば、そなたたちにも手伝てつどうてもらおう」

 とりあえず発した通武の言葉に周はかえす。


「宙さん。英語を励めばよいのです。通詞が内藤さんだけというのは心もとない。私たちに英語ができれば、何か役にも立ちましょう」


 感情を自制した大人びた口調で周が言うから、通武は驚いた。昨日までの表情豊かな周とどこか違う。政次の一件がよほどこたえたのだろう。こうやって少しずつ大人になっていくのか。次の芽は着実に成長している。ますます励まねば。通武は愉悦の笑みを浮かべた。


「忙しうなる前に、内藤さんは嫁御をもらわねば。後がつかえてしまう」

 宙が言うので、通武は内藤がまだ独り身であったことを思い出した。


「そうじゃ、まずその事から片付けねばなるまい」


「殿様にそのような事まで。申し訳ないことでございます」

 恐縮する内藤に宙がまた口を挟む。


「誰ぞ、密かに思うておるお方でもいらっしゃるのですか。思うお方と夫婦になるのが最善ではないですか。のお周もそう思うであろう」


「おせっかいが過ぎますよ」

 何時もの周ならば、闊達な宙をやんわりいさめるのだが、今日は手厳しい。宙は肩をすくめた。


「思うお方などいませんよ。殿様が縁を結んでくだされば、それに勝るものはございません」


「我が嫁御をさがします。豊島に相談すればきっと力になってくれる」

「それは心強い」


 思わず通武が、合いの手を入れると宙は得意げに顎を上げ、にんまりと笑った。内藤に好みや、希望など細かに宙が聞き出している。この調子では、すぐにでも嫁は決まりそうだ。


 要件のすんだ通武は部屋を出た。室内はまだ内藤の嫁の話で盛り上がっている。なぜか周だけその輪に入ってはいなかったが。


 昼間の熱が残る夜。幾分涼やかな風が頬をなぜ、夜空を見上げた。短夜に瞬く星屑。久かたぶりに星をとくと見た通武は、その中にの星をみつけた。船乗りたちが,航海の指針にした星。今その星は通武の頭上に輝いていた。

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