第三章 空の果て
第一話 花嫁道具
明治六年の十二月。宙が覗き込む手鏡に息はかかるが、鏡面は白く曇りはしなかった。鏡をこつんとおでこにあて、宙は手鏡を置いた。
「女にしか見えぬではないか」
「当たり前でございます。宙様は見目麗しゅうおなり遊ばし、豊島感無量でございます。髪もこのように濡れ羽色の美しさ。世の殿方が放っておくなぞできましょうや」
ますます髪に白いものが増えた豊島が、宙の髪をとかしながら感に堪えぬ風情で言う。
豊島は嘘をついている。うつくしいのであれば、とっくに許嫁が決まっておろう。宙は右手で、肉が削げ落ち枯れ枝のような左手に寝間着の上からこわごわふれる。
この動かぬ腕は幕末よりこの体にぶら下がっている。最近その重さに肩がこる。いっそ切り落としてしまった方が、すっきりするのではないかと思う宙であった。
ふすまに描かれたボタンの花は、ランプに照らされ、昼間と変わらず鮮やかに咲いていた。引手に下がる朱房の色もくすんでいない。部屋の隅にうずたかく積まれた書物も闇に紛れることなく、灯りにさらされていた。
姫君の寝間といえば、優美な蒔絵が施された書棚の上に、きらびやかな料紙に描かれた王朝絵巻や、歌を書き留める硯箱が置かれているもの。しかし宙の書棚には、宮子の硯箱がかくれるほど、四書、日本外史全巻が詰め込まれ、そこに収まりきらぬ洋書と辞書がその下に散乱している。
蒔絵を施した、碁盤の上にも書物がうず高く積み上げられていた。
宙はもう一度鏡を手にする。後ろ髪をたらし、前髪をちょこんとふくらませて結わえたうりざね顔には目もくれず、後ろに立つ豊島の姿をちらりとのぞき見る。
その白いものは我のせいではないぞ。時が早く過ぎているからだ。と心の中で弁解した。
去年の冬に不思議な事がおこった。明治五年の十二月三日が、明治六年の一月一日になったのだ。政府は欧米の太陽暦に合わせるため、日本の暦を変えてしまい、およそ一か月もずれが生じる事となったのだ。
古来より日本の暦は、月の満ち欠けが基になっていた。農作業や年中行事は、月の動きで決まっていたと言ってもよい。それが今では、太陽を基準とした暦だけが先に進んでいく。
宙の手鏡は楕円の
このイギリス製の手鏡は、西郷からの贈り物だった。西郷はこの年の秋、政府に辞表を提出し、故郷薩摩へ帰ったのだ。対朝鮮外交をめぐり、盟友大久保利通と袂をわかち、政府内の権力闘争に敗れたそうだ。薩摩へ船出する前、この屋敷へ挨拶にやって来た。
久しぶりに見る西郷の顔色は悪く、鋭気がみなぎっていた大きな体は、少ししぼんでいた。通武に呼ばれ座敷に上がった宙は、そんな西郷を見て驚いたのだった。
「久しゅう見らん間に、ますますおきれいになられた。何時嫁にいかれてんおかしゅうなか。今日は姫に贈り物を持ってきた」
そう言うと、着物の懐から風呂敷に包まれたものを出す。宙は西郷の体温でぬくもった包みを受け取りそっと開けると、美しい手鏡が現れた。
「花嫁道具を見繕う約束をしちょった。もうおいは東京には来ん。姫にこいをお渡しちょく」
今生の別れのような事を言われ戸惑ったが、宙はお辞儀をし礼を言った。
「まだ嫁ぎ先は決まっておらぬのですが、ありがたく頂戴いたします」
「まだお決まりじゃなかったか」
西郷の言葉を受け、上座に座る通武が言った。
「話はいくつもあるのだが、決めかねておるのだ」
通武の言葉を聞き、宙は父の優しさを知る。通武は知らぬものと思っているが、宙は縁談がまとまらぬ理由を知っていた。
この動かぬ左手ゆえであった。手が動かぬとも、家内の事は女中がこなすので不便はないが、子ができぬのではないかと思われているようだ。
家付き娘の宙に、子ができぬと婿のせいにされる。そんな胆の小さなことを考える男なぞこちらから願い下げだ。そう思うたび、左腕に痛みを感じた。痛みなぞ感じるわけもないのに。
「して、安芸守殿ん新しき事はどこまで進んでおらるっとな。製紙業はこん国の発展に欠かせん事業。おいも期待しちょう」
工場は大川沿いの日本橋蛎殻町に用地を購入し、ウォートルスの設計した建物はすでに建っている。
蛎殻町には元大名屋敷が多々あった地帯だが、御多分に漏れず原野と化していた。
運輸の面に適し、なおかつ、工場から出る煤煙や騒音によって町衆に迷惑がかからない。工場がまき散らす黒煙によって、煤けたロンドンを知る内藤がこの地が良いと判断した。
「もうすぐ、イギリス人の技師を招いて、機械の組み立てを完成させ、生産を開始しする。ここまでこぎつけたが、はたして本当に紙ができるかどうか」
イギリスから購入した機械は四万二千両。あまりに高額である。実際に紙が生産できないとなれば大損害だ。そこを考慮し、機械がちゃんと稼働し、製造ができるようになるまで、支払いをまってもらうよう、イギリス領事館と交渉したのも内藤だった。
外国人技師を民間の企業が雇うなど、前例のない事。しかし、大久保一翁の計らいで雇い入れの許可がおりた。
「安芸守殿なら、きっとやりおおせる。おいは信じちょります」
「心強い言葉じゃ。実際できあがったら、薩摩へも送ろう」
「それはうれしか。おいは私学校をつくろうて思うちょる。次なる人材を育てる事に今度は心血を注ごたある」
西郷さんは、政争に敗れたからと言って、終わってはいない。まだ前を向いて進んでいる。宙は西郷の言葉を聞いて安心した。
「そういえば、周はどげんしたか。姿が見えもはんな」
西郷が一人座る宙を見て言う。
「周も学校というところに行きだしたのです。そちらが面白いらしく、最近は私の相手をとんとしてくれなくなりました」
明治五年に学制が制定された。政府は国民皆学を目指し、近代的教育制度を導入した。周は自ら志願して第一大学区第一番中学の入学試験を受け、みごと合格。宙も試験を受けると聞かなかったが、そこは男子しか通えぬ学校だった。
「そうと。二人とも着実に大人になられちょっ」
西郷がしたり顔で言うので、宙は面白くない。
「私は周と違って、ちっとも変ってはおりません」
宙の言葉に西郷は片眉を上げた。
「ほうでは、そん鏡が役に立ちそうじゃ」
西郷は何時も、宙をけむにまく。けむに巻いたまま、鹿児島へと帰っていった。宙は今度会う時は、必ず西郷を言い負かしてやろうと心に誓ったのだった。
しかしそれから、宙は毎日寝る前に鏡を覗き込むのが習慣となった。確かに顔かたちは変わった。でも中身はちっとも変っていない、そう自分に言い聞かせる宙であった。
佳代がひいた布団の中、さく姫を撫でながら、格子が組み合わされた
宙の頭一つ下がったところにひかれた布団。そこに眠る豊島に、低い声で話しかけた。
「明日、昼から多江さんのところへいく」
豊島は、宙が真之介になった頃より毎日傍で寝ている。寝返りを打つだけで、すぐさま枕元の手燭に灯を入れるほど、眠りが浅い。それなのにしばらく間を置き、豊島は諦念を含んだ声で返した。
「手習いがすべて終わり。先生の許しを得てから遊ばしませ」
その言葉を聞き宙はほっとした。豊島は多江のところに行く事を、よく思っていない。しかし、一人この屋敷内で鬱々としている宙の気が少しでも晴れるのならば、許すしかない。また、隠れて周について行こうとされるよりはましだと思っているのだ。
周が中学に行きだしてから、宙は一人置いて行かれた焦りに、こっそり屋敷を抜け出し周について行こうとしたのだ。途中、後をつけられている事に気づいた周は、あきれかえり屋敷まで宙を連行したのだった。
その後、宙に監視の女中が増えたのは言うまでもない。
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