第二話 赤ん坊
次の日、周が抜けてより気が入らぬ手習いを、正午の「ドン」が聞こえる前に終わらせた。「ドン」は午砲といい、皇城本丸の砲台から打たれる、時を知らせる空砲である。
昼餉もそこそこに宙は佳代と数人の女中を従え、家臣たちが使っていた長屋へ向かった。元藩士たちのうち、政府に出仕したものはここを出て行き、深水家が始めた製紙業社「恒久社」で働いているものはこの長屋で暮らし、工場まで通っていた。近々、工場の隣に工員たちの社宅を作る予定をしているそうだ。
そうなれば、この広大な屋敷もさみしくなる。ますます江戸の代は遠い。道すがら、工員の妻女が暖かな日差しに誘われ、外で小さな男の子を遊ばせていた。宙の姿を見ると、慌てて道の端によけ子供を押さえつけ、頭を下げた。
本来なら、ここは姫君が来るような場ではない。
「道をゆずらずともよい。我が邪魔をしているのだから」
そう言い、宙は子供の頭をくしゃりとなでた。撫でられた子は、まぶしそうに宙を見上げていた。
「多江さんごきげんよう」
宙が上り口より戸を開け、娘らしさを装い挨拶をした。明るい窓際に座るお腹の膨らんだ女性が、縫物の手を止めて顔をあげる。
「宙様またこちらにいらっしゃったのですか。しょうのないお方ですこと」
口ではそういうが、笑顔で座布団をすすめる。その動作も大儀そうな大きなお腹、その上に帯が巻かれているものだから、なお苦しそうに見える。室内に入ったのは、宙と佳代のみ。その他の女中は外で待っている。外で待つぐらいならついてこずともよいと、宙は言うが、豊島にきつく離れてはならぬと言われている女中たちは梃子でも動かない。
「
「お産ぐらいでじっとなんか、してられないわ。ただでさえ利光さんに動くなって言われているのに」
利光さんとは内藤のこと。この多江さんなる女性は、内藤の妻である。
大蔵省を退官し、恒久社の社員となった内藤が、通武の媒酌でこの多江と夫婦となったのは一年前のこと。宙が内藤の嫁御を見つけると豪語してより、ちょうど半年後だった。
みつけるというても、宙にそのような人脈があるわけもなく、豊島にいろいろと当たってもらった。内藤の希望は、奥にこもらず社交的でなおかつ開明的な人というものだった。奥で大人しく引きこもっている武家の娘に土台無理な条件。ならば、町娘をと探し始めたところで、大垣屋から連絡があったのだ。
内藤の話を聞き、心当たりがある佳代は密かに父親へ話を託した。薩摩御用盗みに入られ、商売が傾き貧乏暮らしとなった従姉の事を。佳代の母の姉である母親と二人、どぶ板長屋で細々と暮らしていた多江。
妹の嫁ぎ先に迷惑はかけないと、大垣屋の援助を断り、母親は、長屋で三味線や手習いを教え、娘の多江は居留地にあった外国人向けの築地ホテルで給仕として働いていた。多くの外国人と接し、少しの英語を話せるようになっていた。
内藤との縁談ののち、祝言を上げ、この屋敷の長屋にこしてきたのである。母親はまだ元の長屋にいるそうだ。
「お勉強はおすみになったのですか。最近前ほどにはかどっていないと、豊島様がぼやいておられましたよ」
「ちゃんとすましてきた。周がいなくなって、花嫁修業に変わり、ちっともおもしろくないだけじゃ」
片手がきかぬからと豊島は容赦しない。お茶お花お香、お琴に和歌。縫物まで片手でさせられる。唯一英語だけは、熱心に取り組んでいる。内藤が忙しくなり、代わりの日本人の教師にならっているが、発音が下手くそなのが、残念でならない。
周は学校で、外国人の教師から英語を習っているそうだ。この差に腹がたつが、先生が悪いなどと口が裂けても言えない。自分が努力すればすむことだと自分を戒める。
宙と話しながらも多江は器用に、赤子の
「大丈夫ですよ。赤子がお腹の中で動いたのです。強く蹴るので痛くて。すごく力が強いから男の子かもしれません」
腹を愛おしそうにさすりながら、多江は言った。腹の中で赤子が動くなど知らなかった宙は、おずおずと手を差し出して言った。
「触ってもよいか?」
にこりとほほ笑み、多江は宙の手を取り、帯の下あたりの腹にあてた。
「ほら、この辺を蹴っているのです」
宙の手に振動が伝わる。多江の皮膚を通し、赤子が生きている証が。
「宙様も母上様のお腹を、このように蹴っておられたのですよ」
我は、一人ではなく二人で腹の中におった。宙は共に腹の中より出た、真之介の事を思いだす。
宙がまだ女子であった幼子の記憶は、生暖かい霧に包まれたように判然としない。閉じられた部屋の中乳母の膝に乗せられ、何もせず何も考えず過ごしていた事は覚えている。宙の世界は乳母のおしろいの匂いと、居心地の良いぬくみに守られていた。
開かれた世界は、女のすすり泣きがもたらした。褥の傍らにいた、泣き崩れる美しい女がこう言った。
「そなたの弟ぞ。最後の別れをしなさい」
(注 古い風習で、双子は先に生まれた子を弟(妹)とし、後から生まれる子を長子とした)
同じ顔に別れを告げよと言われ、恐ろしくなり、まだ動いていた左手で、乳母の手を掴もうとしたらそばにいない。乳母から離れたことのなかった宙は、混乱し泣き出した。すると美しい女が、宙の肩をわしづかみにし、顔を覗き込み言った。
「わらわは母である。今日よりそなたが真之介になるのじゃ」
吸い込まれそうな真っ黒な瞳には、宙の幼い泣き顔が映りこんでいる。瞳に閉じ込められた自分から目をそらせば、隣には同じ顔をした子どもが、土気色の肌をして白い寝間着を着て息もせず眠っている。今冷たい体をよこたえているのは、どっち? 母が我を真之介だというのなら、死んだのは宙なのか?
記憶を取り戻した時、宙は心底母が恐ろしくなり、吐き気をもよおしたのだった。今でも、母のしたことを非難する気などない。しかし、記憶を取り戻す前の一心に母を思う宙にはもう戻れなかった。
「宙様どうしました?」
佳代に呼ばれ、我に返る。もう死んでしまった真之介ではない。我はもう女子の宙に戻ったのだ。何度そう自分に言い聞かせても、時に曖昧になる。
「我もこのように、子を孕むのだろうか」
ぼそりと言った宙のか細い声に、多江はその不安を払しょくするように誇らしげな声で言った。
「もちろんです。子を産めるのは女子だけ。命を繋ぐは、女子にしかできぬ大事な仕事でございます」
その言葉を聞き宙は心の中で「怖い」とつぶやいたのだった。そのつぶやきは、宙の底深く沈んでいく。
「私は、子を産むより絵が描きたい。精魂込めて描いた絵は赤子と同じでございます」
宙の内なる恐怖を飛び越えて、佳代はあっさりと言ってのけた。
「佳代さんたらもう。あなたも早う、嫁ぎ先を探さねばと叔父様がやきもきしておいででしたよ」
多江の説教なぞ無視して、佳代の言葉で我にかえった宙は膝をぽんと一つ打った。
「そうじゃ、佳代も我も、ここにずっとおればよい。父上のように何か商売を始めよう。それか佳代が絵を描いて我が売りさばくとか」
そんな事が許される立場でも、身分でもない。重々わかっていての軽口だった。
「名案でございます、宙様。それならば、周さんも加わっていただいたら……」
佳代がそこまで言うと、宙が顔をゆがめ即座に打ち消した。
「あいつは仲間に入れてやらん。ほんに生意気になりよって、昔はあんなにかわいらしかったのに」
宙の言いぐさがおかしかったのか、多江がふき出した。
「男子をかわいらしいなどと、宙様もおかしなことを」
「本当だ、アリスの姿をした周は、絵から抜け出したようだったのだ。のうお佳代」
宙はむきになって言う。
「本当にあれは素晴らしかった。洋服がようお似合いで。すらりとした手足、細くて長い首が、異人そのものでした。でも、最近周さんは体が大きく男らしくなられて、髪もすっかり黒くおなりで……残念でなりません」
あのアリスの洋服は宙の長持に、大事にしまわれている。宙は一度も袖を通したことはないが。
「そんな事いうものではありません。立派な男ぶりではございませんか。若い女中の間では周様の目に留まらぬかと、みな苦心しているようでございます」
多江の言葉を聞き、佳代は思い出したように言う。
「そうそう。周さんがお屋敷に帰って来られると、みなお出迎えに急ぐのです」
そのような事が奥向きでおこっているとは、露知らず。周がもう一人前の男と見なされていることに、何やら心がざわつく。また差をつけられた。宙は歯噛みをしたい気分になり、いらだちをぶちまけた。
「ふん、昔は我の後ばかりついてきてたのに。何が学校じゃ。一人で勝手に決めおって」
二人は隠し事のない、何でも話せる友だと宙は信じていた。相談もなく学校に行ってしまった周が、未だに許せない。いや、厳密に言うと許せないのではなく、宙の理解の範疇を超えていく周に戸惑っているのだ。
我が男であったら……そう何度も胸の内で呟いた。何千、何万と呟いたところで、男になれるわけもないのに。
「周様も大人におなりなのですよ」
多江が西郷と同じことを言う。ますます宙は焦燥感にさいなまれる。
「宙様もこの度大人におなり遊ばされました。ついにお
そこまで佳代が言い、慌てて宙が制した。
「そんな事ここで言わずともよい!」
宙は恥ずかしさで、顔がリンゴのようになるのが自分でもわかった。
「まあ、それはおめでとうございます。宙様も女におなり遊ばしたのですね」
月の物がきて、豊島始め多くの者たちから「おめでとうございます」と散々言われたが、宙はそのたび「何がめでたいものか」と心の中で毒づいていた。それに、女になったとはどういう事か。我は真之介をやめ、女になったのではなかったのか。そう問いただしたかったが、誰に聞けばよいのか見当もつかない。
周が傍にいれば一番に聞きたいところではあるが、宙が女になったなぞ知られたくもなかった。豊島に頼み込んで、月の物が始まったことは奥向きだけの内緒にしてもらっている。
自分の身の内より血が流れ出るというだけでも忌々しいのに、その間体が重くなるのには参った。「こんな思いを女だけがするのは、ずるい。男にもお月事がくればいい」と豊島にぐちったところ、「子供じみたことをお言いではない」とこってり説教をされた。
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