第三話 宙のたくらみ
多江のところより辞しても、気分が晴れるどころか、身も心も重い宙であった。
「これより、馬屋へ行く」
表への門の前で宙は突然立ち止り、目的地変更を告げる。御殿に帰るものと思っていた女中たちは口々に宙を引き留めた。
「豊島様に伺いませんと」
「勝手はできません」
甲高い女中の言葉に、ますます宙はいら立った。
「お前たちは誰に仕えておるのか、豊島か我か!」
そう強い口調で言われては、女中たちは黙るしかない。おろおろするその姿を見て、視線をおとす。足元の砂をみつつため息を一つつき、顔をあげた。
「悪かった。怒られるのはそなたたちだな」
そう言い、門へ向き直る宙の耳へ「まいったまいった」と言う声が飛び込んで来た。声の主を探すと、蔵のなまこ塀の角より田島の姿が現れ、尻を突き出し歩きながら、懐中時計を見ている。
背が低くせかせかと歩く田島は、アリスに出てくる白ウサギそっくりだった。むくれていた気分が一気に愉快になる。きっと田島について行けば、楽しいことが待っている。そう勝手に思い込んだ宙は、今度こそ女中の制止も聞かず、田島の後を追いかけた。
田島は馬屋へ急いでいるようだ。ひょっとして周と共に抜け出した、あの穴に田島は入るのではないか。ますます宙の胸は好奇心に高鳴り、速足になる。女中がたまらず、宙を呼んだ。その声に気づき田島は立ち止って、振り返ったのだ。
「これは姫様、ご機嫌うるわしゅうございます」
あと少しで、穴に入るかもしれなかったのに。宙は心の中で舌打ちをし、妄想に別れを告げ言った。
「何が参ったのだ田島。困りごとか?」
「はいこれより、イギリス人の技師を迎えに新橋までいくのでございますが、内藤が工場から帰って来ず。英語のできぬ拙者一人では出迎えも心もとなく」
恒久社を立ち上げた際、通武は田島を社長に指名した。深水家はあくまでも出資のみとしたのだ。田島は最初、固辞したが、通武に
「社長という役は、人の扱いにたけている者にしかつとまらぬ。長年我が家の家政を取り仕切っている田島を置いて、ほかにいない」
そう言われては、田島も受けざるをえなかった。押しに弱い田島である。
宙はにやりと笑い。この御しやすいウサギに向かい、殊勝な顔をしつつかしこまって言う。
「それは困ったの。周も学校より帰ってきておらんのだろ。ちょうどいい我が行く」
「滅相もございません。姫様を連れ出すなぞ。それに異人に会わせるなどもってのほか」
宙の無茶な提案に田島は慌てふためき、両手を顔の前で振り回す。そのおかしな様がおもしろく、思わず笑いそうになったが、口元を引き締める。
これは外国人に会えるいい機会だ。こんな偶然はまたとない。通詞が必要な時、内藤も周も同時にこの屋敷にいないなどと。今こそ勉強してきた成果が出さずして、何のために勉強してきたのか。そう宙は思い、頭を巡らせた。
「豊島に伺いをたて、許しがでればよいか?」
許しなど出るわけがないと田島にもわかるので、すんなりとその条件をのんだ。狙い通りと意地悪く口の端をあげ、宙は心の中で舌を出す。
「では、佳代以外の女中が御殿へ聞きに行け」
帰りたがっていた女中たちは、いそいそと門をくぐり御殿の方へ向かった。しかし、宙は知っていた。この時間豊島は、いつも膏薬を塗りに自室に閉じこもる事を。豊島を探し出すのにたっぷり時間がかかる。宙は、田島をせかした。
「さあ、この隙に行くぞ」
宙は大股で馬屋へ向かう。その後ろから田島が「なりません。なりません」と同じことを繰り返しながら、つんのめりそうになりながらせかせかとついてくる。
ここで田島を説得できねば、外出などできぬ。宙は足をとめ振り返った。
「社長は田島である。異人の技師に英語ができぬからと粗相をしては、面目が立たぬと思わんか」
痛いところを突かれ、一瞬たじろぐ田島であったが、やはりならぬことはならぬと宙をつっぱねた。しかし宙も素直に従わぬ。
お目付け役の通武や豊島抜きの外出など、今までしたことがあっただろうか。おまけにアリスの本を読んで以来勉強してきた英語を、異人を相手にしゃべる事ができるのだ。散々勉強したが、はたして宙の英語は通じるものなのか。最近不安になってきていたところなのだ。
しかも、相手は田島ときている。豊島相手なら、宙もさっさとあきらめるところだが、後ちょっと、後ちょっとで田島を陥落できる。宙はそう確信し冬だと言うのに額に汗をかき、いかに自分は英語ができるかと田島に力説した。
しかしその頑張りもむなしく、このささいな目論見は、あっさりと踏みつぶされた。周が帰って来たのだ。
学校進学に合わせ総髪を短く切った周。馬上で馬に揺られるたび、前髪も涼やかに揺れる。その様が女中たちの心を鷲づかみにしていると、佳代がこっそり宙に耳打ちする。そんなことを聞かされても、宙の心は鷲づかみにされるどころか。はらわたが煮えくり、周の前髪を鷲づかみにしてやりたい衝動にかられた。
馬で帰宅した周は馬屋の前で言い争う宙と田島を見つけ、あわてて馬の腹を蹴った。
「どうしました。今日は技師の迎えに行く日ではございませんでしたか」
急いで下馬し、田島に向かって周は言った。田島は周を見ると、心底ほっとした顔をする。
「やれ、よかった周殿が帰って来た。さあ共に新橋に来てくれ。内藤はどうも工場で何かあったらしくまだ帰って来ぬのだ」
田島の横で宙は黙っていれば美しい顔を醜くゆがめ、周を睨んでいた。もう島田に結えるほど髪もたっぷりとのびているが、頭が痛くなると、簡単な束髪に髪を結っていた。
今日は縹色の小袖を着ている。冬の色のない景色の中、鮮やかな色をまとう宙の姿に心がくらみ、目をそらせた。周は久しく宙の姿を見ていなかったのだ。
「おまえは、我の邪魔ばかりしおる。なぜ帰って来たのじゃ」
理不尽な怒りをぶつけられ、困惑すると同時に、出会ったころとちっともかわらぬ宙に安堵する周。
むくれる宙を無視し、田島は周に事態を説明した。説明を聞き、周は宙がこのまま引き下がるとは到底思えず、最善策を提示しこの場をなんとか収めようとした。
「宙さんも一緒に連れて行きましょう。もう汽車の時間も迫っている。このまま押し問答をしていても埒が明かない。宙さんは、多江さんのところでふて寝してるとでも言っておけばいい」
ふて寝と言われ、宙はむっとしているが周はかまわず、馬を引き馬屋へ入っていった。馬房から馬たちが首を伸ばし、周を出迎える。一頭一頭の頭をなぜながら、周は考えていた。
馬車は通武が外出に使っていた。新橋まで馬で向かうしかない。宙を馬に乗せたのは何時だったか。あの頃はまだ、二人の体重も軽く馬の負担も少なかった。今回はそうはいかない。
馬番の林に馬を預け新橋への外出を言うと、
「周様、馬はどのようにいたしましょう」
と聞かれ、周は顎を摘まみながら小首をかしげる。
「一番大きな馬を連れてきてください。姫君との二人乗りです」
林はその言葉を聞き、無精ひげの伸びた顔をくしゃっとさせ、目をほそめる。
「姫様をお乗せするは、久方ぶりですな。さぞお喜びでしょう」
どちらが?
周は林の言葉に心の中で聞き返す。埒もないと打ち消し、大きくかぶりをふった。林が引いてきた馬の引綱を持ち、宙の元に引き返す周の足取りは重かった。
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