第四話 揺れる馬上

 佳代だけを残し、女中たちが帰ってくる前にとっとと一行は出発した。宙は横座りで林が用意した馬に乗り、右手で鞍をしっかりとつかんだ。その体の左側に手綱を握る周が乗馬する。久しぶりの外出、おまけに周と馬の共乗りができるとは、今日はとても運が良い。


 高台に建つ屋敷の門を一歩出ると、前方に皇城をのぞむ。冬空に、さく姫が寝そべったような雲が、ぽつんぽつんと浮かんでいた。日はたっぷりと降り注ぎ、馬は緩やかな坂を下っていく。馬車とは違う目線の高さ、開けた景色。頬に当たる風は十二月というのに暖かく、すべてが心地よい。宙の心と口は軽やかにはずみ、自ずと口数が多くなる。


「技師が今頃到着するとは遅いではないか。秋ごろ父上はもうすぐくると申されていた」


「なかなか日本に来る技師がみつからなかったようです。未だに欧米では日本は野蛮な国とみられていて、高額の報酬を支払わないと来たがらないそうです」


 幕末に吹き荒れた攘夷運動で多くの外国人が命を落とした。今だその恐怖が払しょくされていない。


「だから機械の組みたても、終わっておらんのか」

「はい、ウォートルスさんの専門は建築ですから、なかなか進んでません」


「では、今日来る技師なら簡単に組み立てられるのだろう?」

「簡単かどうかはわかりませんが、おそらく」


「機械さえ出来たら、あとはすぐにでも紙ができるではないか。楽しみだ」

 途切れず動き続ける宙の口に、周は呆れて言う。


「あまり話していると、舌をかみますよ」

「今日はとても気分がよい。こうやって周と二人で話すのも久しぶりだし、近くにおれてとてもうれしい。のお周」


 自分がうれしいことは、周もうれしい。そんな残酷な無邪気さで宙は言うが、周は黙って返事をしない。特段不思議にも宙は思わない。かまわずまた口を開こうとしたら、馬が何かに驚いたのか、馬上が大きく揺れた。


 とっさの事で宙は何もできず、大きく体がかしいだが、すばやく周の左腕が宙を力強く抱きとめたので、落馬せずにすんだ。


 強く抱きしめられた腕の太さと、胸板の厚さに宙はおもわず声をのむ。博覧会で比翼の鳥のように一つになって走った、面影など何一つない周の体。あの時二人の体は、鏡に映したようにそっくりだった。


「大事無いですか」と耳元で聞こえる低い声に、抜き衿からのぞくうなじが総毛だつ。後ろにいるのは周だったはず。宙はこわごわ左上をあおぐ。太い首をし、あごの線もたくましい周らしき男が宙を見下ろしていた。


 こんな奴は知らぬ。周が操る馬の規則正しい蹄の音に、宙は訳も分からず焦る。いや、昔見たセピア色した周の兄にそっくりではないか。こんな近くで周に接したことは最近トンとなかった。だから、驚いただけ、なんてことはない。


 そう思うがどうにも居心地が悪く、縹色の袖に染め抜かれた、雪輪の中に咲く赤い梅をじっと見ていた。


「解せぬことがあります。先ほど宙さんは、邪魔ばかりすると私におっしゃいましたが、何のことか」


 押し黙る宙の様子に気づけぬ鈍感な周が、聞いてくる。宙はため込んだ息を大きく吐きだし、少し顔を上げ、周のなす紺色の襟元を見て言った。


「周が学校になぞ行くから、我は花嫁修業するはめになったのだ。英語の講義は続けておるが、後は嫌な事ばかりじゃ」


 ただの言いがかりである。宙もわかっている。言いすぎたと謝ろうとした矢先、周に言われた。


「でも、宙さんはそのうち婿をとられる。その婿君に恥じない教養を身につけておかねば、恥ずかしいのは、あなたですよ」


 もっともらしいことを大人ぶってぬけぬけと。こ馬鹿にされ、かたちのよい宙の額に青筋が浮かぶ。


「ふん、我は婿もとらんし嫁にもいかん。佳代と二人あの屋敷にずっとおる」

「何を子供じみたことを」

 鼻で笑われたその一言で、宙の青筋は完全に切れた。


「おまえに言われる筋合いはない! 我はもう立派な大人ぞ。お月事もきたしの」


 あれほど、周に知れるのが恥ずかしかったことを、売り言葉に買い言葉とはいえ、自ら白状してしまった。女の血の道をもう知っているようで、周は面食らい、手綱を強く引き、馬の歩みがとまった。


 周が何のことかわからぬ顔をしたのであったら、まだ、ささくれた宙の心は幾分なぐさめられたろうに。やり場のない羞恥心と焦燥感に急き立てられ、もっとののしってやろうとしたが、口をついて出た言葉は、


「お月事が来ても、大人になりとうない」


 先ほどの啖呵たんかと矛盾していた。心と体の矛盾。なぜこんな言葉が口をついたのか、わからない。周ならわかってくれる。そんな薄いのぞみが頭をもたげたからか。


 周は馬の腹をける。再び二人は馬上でゆれはじめた。


「私は早う、大人になりたいです」

 周の言葉に、宙は返す言葉もない。もう自分と周は違う、そうとどめを刺された宙の胸から、未熟な青い血が滴り、ぬぐうことさえできない。


 馬は皇城近くのため池の土手をゆき、虎ノ門を通過した。虎ノ門近く、技術者の養成学校である工学寮が建っている。その三角屋根をした時計台の針は、三時を指していた。新橋ステーションまであと少し。先を行く田島の後を無言でついていく。


 新橋に近づくにつれ、西洋式の建物が増え、人の往来も多い。お客を乗せた人力車が新橋方面から威勢よく走ってきて、宙たちが乗る馬とすれ違う。


 この活気ある空気に、宙の心は先ほどからの重くのしかかるような気まずさをころりと忘れ、現金にも浮足立ってくる。人力車が珍しく、反対方向に通り過ぎた後姿を振り返って見る。周が呆れたため息をつき、落ちぬよう宙の右肩を押さえていた。


 新橋ステーションに、一時間ほどかけ到着した。石張り二階建ての豪壮な駅舎。その入り口前に大きく張り出したひさしの下には、ぱらぱらと迎えの人々が立っていた。まだ汽車は到着していないようだ。


「やれやれ、やっと着きましたな。汽車の時間までもう少し」


 田島はそう言って、また懐から懐中時計を出しせかせかと歩き回る。その姿を見て、ケンカしたことを一時棚上げした宙は周に耳打ちする。周は今一度田島を見て、くすりと笑った。


「去年、ここから汽車に乗り横浜に行ったの」


 通武に連れられ、初めて汽車に乗った時のことを宙は思い出していた。開業間もない新橋ステーションには、新し物好きな江戸っ子が大勢見物に来ていた。その中、お付きを従えた通武一行が到着すると、みな一歩下がり入り口まで一直線に道ができたのだった。


 通武と宙それに周は上等の客車に乗りこみ、横浜までの旅を楽しんだ。途中車窓から海が見え、宙は初めて見る海の大きさに驚き、思わず歓声を発したのだった。


 広岡藩の城は太田川の三角地帯に広がる肥沃な土地に建ち、海も近いが、宙は広岡の地を一度も訪れた事はない。たしか宙の横で、海の水は辛いとか体が浮くとか周が海の蘊蓄を語っていたような。夏には海でよく泳いだと聞き、宙は羨ましくてならなかったのを覚えている。あの頃はまだ周を近くに感じていたのに、今横に立つ周を遠くに思う。


「はい、あの時は、この入り口が横浜に通じているのかと不思議に思いましたが、今はイギリスにも通じているのかと思うと感慨もひとしおです」


 周の目にはあの入り口がそう映るのか。宙にはただ四角く開いた空間、としか見えぬと言うのに。


 そうこうしているうちに、黒煙をはきだし鉄の塊、蒸気機関車が駅に到着した。しばらくして、入り口から大勢の人々がどっと吐き出されてきた。その人垣の中どよめきがおこり、頭一つ飛びぬけた外国人がこちらに歩いてくる。周りにいる日本人が子供に見えるほどの大きい。


 博覧会で外国人をたくさん見たが、これほど背の高い人はいなかった。杉の木のような体がどんどん近づいてくる。宙はあまりの大きさに怖くなり、一歩足を引いた。


 異人の相手をすると、息まいていた宙の威勢はどこへやら。気持ちが後ろ向きな宙を置いて、周は一歩踏み出し外国人に近づいて行った。


 身振りを交え何やら英語で話しているようだ。二人は右手を握り合っている。あれは握手というものではあるまいか。二人はこちらにやってくる。まず田島を紹介し顔の引きつっている田島と握手をかわし、宙に向き合う。痛くなるほど首をまげ、外国人を見上げた。


 すると、はるか遠くにあった鼻の飛び出た顔が、どんどん近づいてくる。望遠鏡みたいに体が縮んでいるのだ。いつの間にか宙の右手はそっと持ちあげられており、手の甲に外国人の顔が近づく。目の前にある茶色の巻き毛を、呆然と宙は見ているしかなく、何がおこっているのかわからなかった。


 右手はすぐに離され、外国人は宙の顔を覗き込み「こんにちは」と片言の日本語で挨拶したのだった。宙を見つめる目は青く、思わず口から言葉がもれた。


「目に空が落ちているようじゃ」

 宙の言葉がわからず首をかしげる外国人の姿は、大きな体のわりに愛嬌がある。周が宙の言葉を訳すと、


「アナタノ着物ニモ、空ト春ガオチテイマス」

 そう英語で返された言葉は、宙にもわかった。子供のような事をいってしまった。そう思い宙は顔を赤らめうつむく。縹色の着物に描かれた梅と同じぐらい赤いに違いない。


「初メマシテ、プリンセス。私ハジョン・アーヴィングトイイマス」


 英語で挨拶を受けたので型通りの挨拶を宙も英語で返すが、顔を合わすことができない。周としゃべるジョンの姿をこっそり盗み見る。体は大きいが、顔つきは若々しい。白い肌にはハリがあり愛嬌のある青い目がくるくるとよく動く。


 屋敷を出るまでは、自慢の英語をつかい外国人と話すことを切望した宙であったが、実際は初歩的な挨拶を小声で返しただけだった。周はあんなに堂々と通詞の役目をしていたというのに。もう、焦る気持ちにもならなかった。

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