第五話 お雇い外国人
ジョンと名乗る技師を築地の居留地内に借りた部屋まで、案内するのが今回の仕事だった。長旅で疲れているだろうから、工場へ出向くのは明日以降でよいと、田島が言う言葉を周が訳していた。
周の英語は通じているようだ。宙にも会話の内容は大体わかった、時折知らない単語が出てきても、もう焦る気持ちにもならない。
田島が人力車の車夫に声をかけ、交渉している。車夫もジョンの体の大きさにたまげているようだが、田島が居留地までの金をはずんだのか、ジョンの荷物を受け取り車に積み込んでいた。
人力車の構造に興味があるのか、ジョンは車体の周りをぐるりと回り、車輪のあたりをしげしげと見ていた。構造に納得したのか、車に乗り込もうと足をかけた時、内藤の声が遠くから聞こえてきた。工場から直接、新橋へやって来たようだ。
「ああ間に合った。周さんが来てくれたんですね。助かりました」
周の背にかくれるように宙がいるのを見つけ、内藤は目を向き絶句した。これは、通武に報告される。そう覚悟した宙だったが、自分のわがままに田島と周を巻き込むことはできない。
「わがままを言い無理やりついてきたのだ。最近の楽しみと言えば、多江さんの腹の子の様子を見るだけ。たまには我も外に出たい。父上にはどうか内密にお願いします。今日も多江さんと腹の子は健やかでした、内藤さん」
多江と腹の子の事を言われ、内藤の顔の部品はすべて垂れ下がる。そうなることはわかっていたので、あえて多江の事を持ち出したのだが。
内藤は「それはしょうがない」と口の中でもごもご言い、田島を見た。
「紙をすく
ジョンにも英語で話しかけた。すると、今から工場に行き、機械を自分が見ようと言いだし、人力車にさっさと乗り込んでしまった。車体は重みで大きく沈んみ、車夫はあわてて、車体をおさえた。
「疲れているところ申し訳ない。助かります」
そう英語で言って馬にまたがり、内藤は人力車を先導してあっという間に行ってしまった。英語のわからぬ田島だけが、きつねにつままれたような顔をして突っ立っている。周が説明すると
「若いのに仕事熱心な異人じゃ。これはいい人材に巡り合えたかもしれん。なかなか日本に来てくれるものがおらず待たされたが、待っただけのことはあった」
そう満足そうに言った。
「若いとは、いくつなのじゃ」
外国人の外見は日本人に比べ、概して年を取って見える。
「二十五と聞いております。それにしても大きな体でしたな。拙者、天狗に見えました」
天狗よりもやさし気であった。そう心の中で反論する。空を映した青い目の奥に、温厚な人柄をみた宙であった。
その夜の夕餉。夕方屋敷に帰って来た通武も共にお膳につき、食事を始めた。だが気もそぞろの様子をみせる通武の膳は、手つかずのまま。周はいぶかりながらも黙って食事を続けていた。
「父上どうされました。今日は父上の好物の鰤だというのに。腹でも壊されたか」
宙はずけずけと通武に聞く。通武も意を決したように箸をおき二人を見た。何やらただ事ではない通武の様子に宙と周も箸をおき、膝の上に手を置き姿勢を正す。
「実は今日、岩倉様の坂下御門近くのお屋敷に呼ばれていたのだ。そこで縁談の話が出ての。お受けする事にした……」
周の心の蔵は鈍い痛みを感じ、目の前が暗闇へと暗転する。ついにこの時が来た。覚悟していたはずなのに、通武の言葉が頭の中をすべっていく。何度もこの場面を想像し、心をならしてきたというのに。動揺する自分を情けなく思う周であったが、つとめて平静を装い言った。
「それは祝着至極に存じ上げます。してどちらのお方でございますか?」
少しうわずる周の声を聞き、通武はかしこまり、咳払いをして重々しく言う。
「うむ。岩倉様の同族である
通武の言葉に宙は黙ったまま、一言も言葉を発さない。十四の宙に二十九の花婿が釣り合うとは到底思えない。その上相手は二度目。そこまで宙の婿探しは難航していたという事か。周はそう思い、宙の傍に侍る豊島をみた。豊島は別段顔色を変えるわけでもない。
「年があけ、春に式を挙げる予定だ。和歌がお好きな風流な方のようだ。岩倉様が申すには、たおやかな見目麗しい方だと。余は外見など気にせんがな。心健やかで、丈夫なのが一番だと思う」
なぜか通武は落ち着きなく言う。武家の男子ならば外見を褒められるなど侮辱でしかないが、公卿の方は違うようだ。どんな優男なのだと周は心の中で悪態をつく。
「その方の妹君は、佐田藩元藩主の奥方だ。イタリア公使である御夫君とともに来年には渡欧されるそうだ」
「夫婦そろって、渡欧されるのですか?」
ここで宙が初めて口をきいた。
「欧米では、公式行事に夫人を同伴する慣習があるそうだ」
「では、父上も将来公使の勅命をうけ、新しい母上と海を渡られるという事も、あるかもしれないのですね」
新しい母上? 周は宙の言葉を、疑問に思う。
「あの……新しい母上様とはどなたのことでしょう」
「周、何を寝ぼけておる。今お話に出た父上の新しい奥方様の事に決まっておろう」
みなが一斉に周の顔を見た。周は動揺のあまり聞き漏らしたのだ。岩倉卿の進める話は宙の縁談ではなく、通武の縁談だと。
「申し訳ありません。少々疲れでぼんやりしておりました」
顔を真っ赤にした周の苦しい言い訳に、通武はさもあらん、と周をねぎらった。
「田島から聞いておる。今日は、技師の出迎えご苦労であった。田島一人ではどうにもならなかったと申しておった」
田島は宙の事は伏せているようだ。
「その事なのですが、父上。周の英語はたいそう役にたったそうです」
宙は、素知らぬ顔をして伝聞で聞いた風をよそおい言った。
「周の英語が通じるのは、やはり学校で異人から直接習っているからだと思われます」
宙の言葉に「またこの娘は何を言い出すのだ」と通武が身構え警戒しているさまは周にも伝わった。
「我も将来、夫に従い公使夫人として異国に赴くことがあるやもしれません。その時役に立たぬ英語では恥をかきます」
「そうじゃの」通武はとりあえず同意する。恥をかいたものの、宙の縁談ではなかった事にひとまず胸をなでおろした周も、この先の読めぬ話にはらはらする。
「ですから、我は学校に通えぬのなら、ジョン・アーヴィング殿に英語を習いたいのです」
「そなたどうして技師の名を知っておる」
唖然とする通武だったが、宙の言葉にひっかかり言い返したが、
「田島に聞いたまでの事」
宙にそう言われ、強引に納得させられた。
「しかし、技師の仕事も忙しいし……ただでさえ開業準備は遅れておるのだ。そなたの教師まではのう……」
決してダメだと言えぬ通武を、周が援護する。
「今の先生にご不満でしたら私がお教えします。それならばよろしいでしょう」
そういう周を、宙は睨みつけた。
「それでは意味がない。我に足りぬものは異人と接する経験だ。異人を目の前にして臆した……いや、臆するだろうと思われる。経験をつめば、周にも我は負けぬ」
負けぬとは、どういうことか。周の役に立ちたいと宙はかつて言った。宙は今も昔も、周の考える女子の前提を粉々に打ち壊し、前へ前へと進んでいく。
馬上でふれた宙の細い体を思い出す。左手が利かないというのに、不安定な馬上でも体全体に力を入れ、臆することなく前を向いていた宙。
あなたは、あくまでも空を見るのですね。私に負けているとお思いでしょうが、私なぞあなたに勝てたためしはございません。
そう宙に声をかけたい周だったが、そんな言葉、宙には不要。どういえば奮い立たせることができるか、周にはわかっている。
「そのような事を言われたらば、教える義理はございませんね。かくなる上は宙さんが異人に習い、どこまでご上達できるか見ものでございます」
果たし状しかと受け取った。そんな武士の気概を顔に浮かべた宙に、通武は「ジョンが受けたのなら」と前置きをして宙の申し出を渋々のんだのだった。
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