第5話_噂話

 この旅の目的は多くあるが、最も重要なのが各領主への挨拶だと私は思っている。これが初対面となる方々も多いのだ。将来のことを考えれば印象を悪くするなんてもっての外で、しかし卒なくこなすことは及第点ではなく、良い印象で私のことを覚えて頂か。こんな重圧は、正直に言って今までに経験が無かった。人は怖くない。人と話すことも怖くはない。ただ、何が正解であるのか分からない。ご挨拶の言葉をどれだけ練って考えて、先生に「これで問題ないだろう」との言葉を頂いても、おばあ様なら、お父様なら、お母様ならもっと違う言葉を使うのではないかと考える。

「……あまり焦るな、ヴィオランテ」

「え?」

 前日、遅くまで挨拶の言葉を考え直していた私の手元を覗き込んで、先生は静かにそう言った。

「心配要らない、お前がお前であれば、此処の領主様は認めて下さるよ」

「それは」

「ほら、軽く確認をしたら、今夜はもう寝なさい。目の下にくまを作ってお会いするつもりか?」

「……そう、ですよね、分かりました」

 挨拶の言葉が良くなったとしても、体調を崩してしまえば元も子もない。指摘は至極当然であったのに、改めてそう言われるまで自ら気を付けようと思えていなかった。これ以上の修正は諦め、既に用意してある挨拶をきちんと述べることが出来るように全体を見直す。上を見ればきりが無いのは分かっていても、上を見ていなければならない。だけど、私では今すぐにそこへ立てないのもまた事実だ。今の私でお会いする他無い。腹を括って、先生のお言葉に従って早めに就寝した。

 前回とは違い、此処の領主邸は比較的小さく、控え目なお屋敷だった。私の屋敷よりもずっと小さい。先生が言うには、此処の領主様は領民との距離が近く、暮らしに大きな差を付けて視線が変わってしまうことを嫌うらしい。訪問した私達を出迎える使用人の数も少なく、圧迫感という意味では無いに等しかった。

「遠路はるばる、よくいらして下さいました。コンティ家の御当主様からもご連絡頂いております」

 玄関付近に並ぶ五名の女性。中央に立つ女性がそう言って頭を下げると、同じく並んだ四名も続き頭を下げた。中央の女性だけ服装が少し違ったものの、街を歩くご婦人と大きく変わらない出で立ちだ。それでも、何故か私は本能的に背筋を伸ばした。抱いた感覚に混乱をするが、隣に立っていた先生は私の様子に少し笑ってから、女性に対して苦笑を向ける。

「……領主様が直々に玄関までお出迎えして下さるとは思いませんでした」

「あら、ふふ、先に教えてしまうのは良くないわ、オリビア」

「いえいえ、どうやら察知していましたよ。そういう勘は働くようでして」

 つまり、この女性が領主様なのだ。「この人、何か違う」という雑な勘が働いただけなので『察知した』と言われると否、であると思うけれど、失礼を働かなくて良かったと一瞬安堵した。いや、例え相手が使用人であっても訪問先で失礼など働くつもりは無いけれど。

「御挨拶が遅れ、申し訳ございません。当主アデル・コンティの名代として、わたくし――」

 慣れた挨拶を口にする私を、領主様はにこにこと穏やかな笑みで聞いて、ゆっくりと頷いた。

「こんなところで挨拶をさせてごめんなさいね、ちょっと驚かせたかっただけなのよ。ヴィオランテ様、歓迎いたします。どうぞ中へ」

 柔和でお優しい方である印象を受けた。年齢はおばあ様と同じくらいか、少し若いだろうか。しかし柔らかいばかりではない。後ろを付いて歩けばやはり分かる。街を歩くご婦人と似た服装をしていても、彼女は間違いなく領主という立場で生きている人だ。大きなものを背負う気配が、確かにそこにある。自分が目指さなければならない姿であることは分かるのに、至るまでの道がまだ私には少しも見えない。

「お掛け下さい、簡単なものしかご用意できませんが」

 通された部屋は、ソファとテーブルが置かれている応接間だった。座ると同時に振舞われた紅茶と茶請けに礼を述べた後、用意していた挨拶の言葉を続ける。しかし、紅茶の香りを感じていると何だかこれでは違うような気がして、私は緩やかに挨拶から脱線した。

「ご領地内は、特産品が豊富であるように感じました」

 何気なく売られていたハム、素揚げの山菜、質のいいオイルに、海沿いの街で作られた塩。どれも私の領地内のものとは風味が違っていて、独自の手法で作られているのだと分かる。今置かれている紅茶もそうだ。国内によく出回っている茶葉とは香りが全く違った。

「独自の文化があり、それに根付いた郷土愛が人々からも感じられます。地場食材を重視することでこのような効果があるとは、考えたことがありませんでした」

 私はこの領地で美味しいものを食べた時、『輸入できないか』とまず考えた。勿論、他の領地や他国との間で特産品を輸出入するのは少しも悪いことではない。けれどそればかりでは地元から特産品が生まれなくなってしまう。領地外の特産品を知ってから、初めて自分の領地の特産品について考えるようになった。外の世界を知る必要があるというのは、このような小さな視点の変化を含めて、『必要』なのだろう。私の言葉に、領主様は嬉しそうに目尻を緩める。

「先代も、先々代もね、この領地のそういうところをとても愛していたわ。もちろん私も。さあ、我が領地、自慢の紅茶を飲んで頂戴。そしてゆっくりあなた達のお話を聞かせてほしいわ」

 私にように硬い言葉を扱って下さっていたのが砕けて、優しい口調に変わった。温かで薫り高い紅茶を喉に通すと、私の心も解けていく。

 領主様は、三年前に病死した先代の妻に当たる方で、つまりこの家に嫁いできた為に血筋ではないらしい。本来はご長男が継ぐのだけれど、ご長男は元々お身体の弱い方であったこともあり、先代より先に病死してしまったのだそうだ。その次となると長男の息子、つまり領主様の孫に当たる子が継ぐべきなのだが。

「四歳……ですか」

「そうなの、四歳なの、可愛いわよ~。あの子が成人するまで私が頑張らなきゃいけなくなっちゃって」

 明るく笑い飛ばしていらっしゃるけれど、血筋でない方が当主として立ち、領主として立つことの重責は計り知れない。家の内外から、厳しい目で見られていることだろう。

「アデル様も時々気遣ってご連絡を下さっているから、とても励まされているの。まだまだ不慣れで領地を離れることが出来なくて、直接お礼を伝えに行けないことがとても心苦しいわ」

「お心は伝わっていると思います。そうでなくとも私が必ず伝えます」

 領主様はふわふわと柔らかく笑い、まるで歌うように「ありがとう」と言った。おばあ様とは、先代が領主であった頃から交流が多かったようだ。年が近いことも理由なのだろう。若い頃のおばあ様の話を聞くのは、少しだけ楽しかった。

「それにしても、ずっと静かにしているのね、オリビア。あなたも何かお話をしてくれないのかしら?」

「いえ、私のような身分でお話に割り込むべきではないと愚考いたしまして」

「それは本当に愚考だわ」

 屋敷に訪れた時、先生が名乗る前から領主様は「オリビア」と呼んだのでもしかしてと思っていたが、やはり先生と領主様には面識があるらしい。私がきょとんとして先生を見つめていると、先生は軽く肩を竦める。

「私はこの領地の出身だよ、ヴィオランテ。城との行き来で、少し世話になっていたんだ」

「そうだったんですね」

 領主が領民全てと面識などあるはずがない。だから説明としてはおそらく幾らも不足しているのだろうけれど、私は此処でそれを暴くつもりは無かった。実際、先生は戦争の時に城へ軟禁されていた経緯があるから、その時に何か接点があった、ということなのだろう。少しだけ口を閉ざして先生を見つめた領主様は、何処か寂しそうに目を細める。

「上からの噂ばかりしか聞こえてこなくて心配していたのよ。顔色も随分と良くなったわね、良かったわ」

 先生は彼女の言葉に、意外そうに目を瞬いた後、一瞬、子供のような表情を浮かべた。そしてそれを隠すように彼女へとこうべを垂れる。

「私のような者には、勿体ないお言葉です」

 領主様は先生の反応に残念そうな顔をしたけれど、先生が顔を上げるまでには柔らかな笑みに戻していた。これこそ、私が口を挟むべきことではないのだろう。二人の動きを待って沈黙すると、領主様は「そういえば」と明るい声で話題を変えた。

「あなた達が来たらね、聞こうと思っていたことがあったの」

「何でしょうか」

「最近、全体的に魔物の数が増えていないかしら? 外を歩いていて、何か感じることは無い?」

 私は先生を振り返る。先生も私を見つめていて、絡んだ視線にときめいて――いる場合ではない。互いの間には認識の一致が感じられて、領主様に向き直ると同時に首を振った。普通に外を歩いていて、そのように感じたことは一度も無かった。以前、ある山に大量発生していたケースはあったけれど、『全体的に』と言うのには一致しない。山での件は伝えてみたものの、それは領主様の認識とはやはり異なるらしい。

「いえ、噂程度なのよ、なんだが増えていると言うような、本当に曖昧な言葉。だけどそんな意見が、色んな街から届くものだから少し気になってね」

 確かにどんな曖昧な意見であっても、似た意見が多数寄せられているというのはおかしい。私達には特に心当たりが無いとは言え、何かある可能性は高いと思えた。

「もし気付いたことがあれば、手紙でも良いから教えてくれると助かるわ」

 その願いを承知した後、すっかり長居してしまった私達はそれを短く詫びて失礼することにした。「また来てね」とこの領主様に言われてしまえばすぐにでも再訪したくなってしまう。こんな言い方は無礼かもしれないけれど、とても居心地のいい方だった。

杞憂きゆうだったろ、お優しい方だからね」

「面識がお有りならば事前にですね……」

「いやあ、お前が緊張している様も中々楽しかったからね」

「先生……」

 がっくりと肩を落とすが、これはあくまでも私の旅であり、先生は付き添って下さっているに過ぎない。文句を言える立場でないことは分かっていた。こんな風に言っても考え過ぎる私を見兼ねて前夜にはお声を掛けて下さったのが先生の優しさで、甘さなのだと思う。

「何にせよだ、さっきの挨拶は悪くなかったよ。折角、領地にお邪魔して街を巡っているんだ。紙の上で考えた綺麗な言葉より、お前がその目で見て、感じたことを聞けてお喜びだったと思う」

 此処の領主様は、という前提にはなるだろうけれど、結果的には良かったのかもしれない。勿論、紙の上で完璧に整えられた挨拶を好む方もいらっしゃるだろう。これが答えだとは決して言えない。しかし、そんな選択肢もあり、そんな選択肢も好む方も居る。広く、柔軟にならなければいけないのだ。一つ一つが勉強だ。学ぶことに限りが無い。

「しかしさっきの魔物の件は確かに気になるな」

「はい、私はあまり領地外を知らないので、比較しようもないのですが」

「確かにな。しかし私も、ううん、気になったことが無いよ。特にこの領地には、年に二、三回訪れる程度になってしまったから、はっきりとしたことは言えない」

 今後は新しい街に訪れる度に、何人かに話を聞いてみた方が良いと思えた。『何となく』程度の意識ならば、敢えて尋ねられなければ口にしない人も居るだろうから。

「さて、そういうことでだ」

 宿に入り、明日の出発の準備の為に地図を広げると、先生がそう言った。何が『そういうこと』なのかさっぱり分からずに首を傾ける。先生はどうしてか、ばつが悪そうに、笑っていた。

「いやー、アデル様も人が悪いな、次の街は、私の故郷になっている。いや、気遣いのつもりなんだろうか」

 私は勢いよく立ち上がった。衝撃に、座っていた椅子が左右に大きく揺れる。倒れなかったのは偶然だ。先生がちょっとだけ身体を傾けて、倒れそうなら手を伸ばして受け止めようとしてくれたのが分かったが、興奮は収まらなかった。

「――ッ先生の!! 故郷ですか!?」

「盛り上がり過ぎだな、そのテンションでは故郷に入れるのが嫌だな」

 溜息を零しながらそう言われると流石に悲しかったので、ずれた椅子を元の位置に戻してスッと座る。興奮は全然収まっていないけれど、故郷には絶対に入りたい。

「そう、そうやって大人しくお淑やかに頼むよ」

 笑ってそう言うと、先生は道程について説明をする。道は平坦で見通しも利くので、易しい道のりとなるそうだけれど、此処からだと三日程度は掛かるらしい。最近はまた一日、二日で着く距離が多かったので、この旅に於いては比較的長い移動になる。荷物はまた多くなるだろう。早速、買い出しの為に私達は市場へと出ることにした。

「先生の帰省、そんなに長期じゃないですよね。結構遠い気がしますが、移動はどうされていたんですか?」

 一年に数回、先生は帰省の為に屋敷を不在にする。けれど、不在は半月からひと月程度だ。移動に時間が掛かっていたら、あまり滞在できていないのでは、と心配になった。だけど先生は私の言葉に少し笑う。

「馬だよ。アデル様にお借りしている。寄り道が無いから、二日程度で着くんだ」

「あ、なるほど」

 私達は歩きの上、おばあ様が決めたルートを辿るようにあらゆる街を訪問しながら移動している。確かに私の故郷から一直線に移動すれば、地図を見る限りは山も無く、すんなりと辿り着けそうだ。そうか、馬があればこの旅ってすぐに終わるんだな、と身も蓋も無い考えが過ったけれど、減点されそうなので口にはしなかった。

「じゃあ結婚して一緒に里帰りする時も、そんなに長く不在にするわけじゃないから安心ですね」

「うーん、まず結婚しないんだよなぁ」

 返った言葉は聞こえないふりをした。先生からは大袈裟な溜息が聞こえたが、それも合わせて。振られているのには違いないのだけど、私はこのようなやり取りを少し好んでいる。そのような趣味があるというわけではなく、呆れた顔や困った顔を見せながらも先生は必ず話に付き合ってくれて、溜息を混ぜていても笑ってくれる。それがいつも、嬉しい。

 そのまま市場を少し進むと、何だか大袈裟に項垂れながら管を巻いているおじさんが居た。

「――ああ、全く酷い目にあったよ、馬車が無かったらどうなっていたか!」

 話を聞いているもう一人のおじさんが、「魔物」がどうとか言ったのを聞き取って、私は先生に目配せをしてからおじさん達に歩み寄る。

「どうかされたんですか?」

「んん?」

 唐突に声を掛けられて目を丸めるおじさん二人に、首を少し傾けて笑い掛ける。

「私達、旅をしているので、何か危険があるなら聞いておきたくて。良かったらお話聞かせてもらえませんか?」

 数歩後ろで先生が笑いを堪えている気配がする。そこまで猫被っていないと思うのだけど、何が先生の琴線に触れたのだろう。まあいいか。楽しそうだから。おじさんは私の言葉に神妙に頷くと、「なら聞いていけ、可愛い子が危ない目に遭ったら大変だ!」と言ってくれた。可愛いと言われるのは久しぶりなのでちょっとだけ嬉しかった。

 話を聞くと、おじさんは四つの街を行き来している行商人で、いつも通りのルートを選んで馬車で移動していたところ、ある森沿いで突然魔物の群れが現れたのだという。その数は、おじさんが生きてきた中で見たことも聞いたことも無いような異常な数で、慌ててルートを変え、馬車の速度を上げて何とか逃れたらしい。そして普段は入ることのない街へと逃げ込むと、最近になってその森付近は急激に魔物が増えていて、地元の人はもう近付かないようにしていたのだそうだ。

「知っていたら通らなかったよ、今まであんなことは無かったのに。後で領主様にもお伝えしに行こうと思ってさ」

 あの領主様ならすぐに対応して近隣の街に通達してくれるだろう。この領地から討伐隊まで出すのは厳しいかもしれないけれど、魔物の大量発生について国の研究機関ならば興味を示すかもしれない。そうなれば国が少し管理してくれる可能性もある。悪い方向には転ばないように思えた。

 森の場所なども丁寧に教えてくれたおじさんにお礼を言って、私達は再び市場を歩く。

「既視感のある話でしたね」

「ああ。しかし、あんな現象がそう頻繁に起こっているなら、もっと国内で話が広まっているはずだ。偶然であるにしても、出来すぎている。……これは本格的に調べた方が良さそうだな」

「どうしますか?」

 先生は一度、脇道の方へと視線をやると、歩調を緩め、市場を行き交う人々の邪魔にならないように少し端に寄って立ち止まる。

「まず行く先々で、魔物の出現については必ず聞くようにしよう。後は、……私に二つほど当てがある、少し調べてもらうよ」

「分かりました、お願いします。私は、おばあ様に手紙を出そうと思いますが」

「ああ、そうだね、向こうで同じことが起こっては危険だ。知らせておこう、頼む」

 私は頷き、先生から他の場所へと外してしまいそうになった視線を、意識的に先生へと留め、じっと見上げた。

「……手紙を書く為に一度、宿へ戻っても構いませんか? 買い出しはその後で」

「ああ、そうだな、……いや、今回は特別だ、買い出しは私がしておこう、お前は手紙を優先させなさい」

「分かりました、ありがとうございます」

 視線は足元へ落とし、先生に頭を下げる。そして先生へ背を向け、足早に宿へと歩き出した。視線は真っ直ぐ、前方にだけ。何処へも向けないように、周りを見ないように意識した。幾らか私が離れた後、先生の足音が市場ではなく脇道の方へと向かったのを、無駄に優れた耳が拾う。振り返ることは、しなかった。


* * *


 人が魔物と呼ぶ異形は、少しずつその領域を拡大している。

 魔物の目的は、人を食らうことではない。傷付けることではない。自らが生きていくことですらない。その領域をただ、広げていくことだ。広げ、人間と接触することだ。結果的に傷付けるだろう。殺すだろう。殺されることもあるだろう。だがあの異形はそれで良かった。それすらも、目的だった。

 じわじわと広がる黒い影は、世界を覆う割合を、ただ、増やし続けている。

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