第2章_あなたを描くキャンバス
第1話_出会いの喜び
私には、描けない。
あの瞳の美しさを絵に出来ない。色に出せない。何故なら、私はあの人を少しも知らない。
だから知りたくて、だから描きたくて、だから見つめていたくて、だから愛していたい。彼女に惹かれた理由を問われれば私はそう答えるだろう。それだけでは全くないのだけど、それが一番、言葉にして説明し易い。伝わるかどうかはともかくとして。
「ヴィオランテ」
「はい?」
「此処から少し登り坂だ、ペースを間違えないように」
「なるほど、分かりました。ありがとうございます」
私の返事に先生が頷いたのを確認して、また前を向いた。進む道を改めて見れば、登り坂は
ほとんどの場合、私は先生より前を歩く。これは私の旅であって、先生は随伴してくれているだけだから。また、先生にとっては何かあった時に守りやすいという意識もあるのだと思う。口では突き放す言い方をするけれど、オリビア先生は、他の先生と比べて少し甘い人だった。
私はこの出会いを幸福だと心から思う。彼女の色を見付けた喜びは何にも代えられない。まだたった十六年しか生きていないけれど、それでも、生涯忘れることが出来ないだろうという確信があった。
ただ、苦しみも喜びと同じだけの大きさで私の中に存在した。描けないと思う気持ちに比例して焦がれる気持ちも大きくなり、あの人を愛している気持ちが大きくなる。だけどこんなに愛しても、見つめても、どうしたって描けないという苦しみがある。私はあの人を知ることが出来ない。誰も私には、彼女のことを語ってくれない。
誰も詳細を語れないのだと、理解しているから、私も深くを問えない。先生を作ったのは戦争であり、この国の『汚点』と言っても過言ではないような、『戦乙女』への酷い扱いや仕打ちであるからだ。戦争の為に、この国は今の私よりも幼いたった十四歳の少女を城に幽閉し、戦場に一人きりで放り投げていた。言葉で聞くだけでも寒気がするほど残酷だと感じるのに、それを己の身に受けていた先生、そして間近で見つめたおばあ様の想いは、私のような子供にはきっと永遠に分からない。
あの深い色は、そうして作られたのだと思う。愛している色だけれど、愛せばこそ、過程を喜ばしいとは決して思えない。
人として保てる限界まで傷付けられ追い詰められたはずのあの人がまだ、優しいままで在る奇跡は、神だって信じてみたくなる。
「――また絵を描いているのか、ヴィオランテ」
先生が屋敷に来て間もない頃、彼女は時々、私の部屋を訪れてはこう言った。声に顔を上げ、そのまま更に上を見て時計を確認した私は、ぎょっとして立ち上がる。
「も、もうこんな時間だったんですね! ごめんなさい!」
授業の時間を十五分も超えていて、先生が痺れを切らして迎えに来てくれたのだと知る。もう少し切りの良いところまで描きたいなどと思っても口にするほどに私も愚かで無礼ではない。道具を置き、エプロンを脱ぐ。呆れた表情で私の様子を見つめていた先生は、ふと、立て掛けてある一つのキャンバスを見て、目を細めた。
「これは?」
そこに描いていたのは、この領地の外れで春になると咲く野ばらの花だった。花の名前さえ満足に思い出すことが出来ず、分かる範囲でしか説明できない頼りない私の言葉を静かに聞いた先生は、それを咎めることも無く、絵を見て口元を緩める。
「あなたの絵は、まるで幸せを切り取るみたいね」
彼女が浮かべた穏やかな笑みはあまりに美しくて、目が離せなかった。息を呑み、見蕩れている間に先生はその表情を沈めてしまうように何処かへと隠し、笑みを消して私を振り返る。
「ほら、授業の時間だよ」
「あ、はい!」
先生は厳しくて素っ気ない人だけれど、絵を
そんな先生との勉強や稽古が億劫であった日なんてあるわけがない。課題や指導が厳しいこともあったけれど少しも苦じゃなかった。頑張れば時々褒めてくれるし、頑張るほど先生と一緒に居られるし、先生が見つめてくれる。
それでも、絵筆を握りたい衝動は生活の中でずっと私の中にあり、少しも消えない。
ずっとずっと、絵を描いていたい。そうして過ごしていたい。許されるわけがないと分かっている。コンティ家を私の代で腐らせるわけにいかない。領地を守っていかなければいけない。描きたいと思えるほどに美しい世界は、優しい人々や平和な生活は、誰かが守っているから成り立つのだから。その『誰か』は、コンティ家を継ぐ『私』でなければならないのだから。
分かっているのに、手がいつも、絵筆を探した。目がいつも、モチーフを見付けた。心がいつも、キャンバスを求めていた。
「一体何を見ているんだ? ヴィオランテ」
不意に足を止めてしまった私に追い付くと、先生は私の視線を辿って首を傾ける。止まったのは無意識だった私は、そこでようやくはっとして、肩を縮めた。
「ごめんなさい。ええと、初めて見る鳥だったので、つい気になって」
「鳥?」
眉を寄せて目を凝らしても先生は中々見付けられない様子だった為、私は鳥の位置を示すように指を差してみる。先生はとても背が高いので、私とは十五センチの差がある。少しだけ屈んで視線の高さを揃え、首を傾けている先生は何だか可愛らしく見えた。笑ったら怒られてしまうのだろうけれど。
「ああ、へえ、綺麗な鳥だな」
見付けた先生は、そう言って目尻を下げた。こういうところが、とても好きだ。鳥を見付けて足を止めた私を咎めない。下らないことだと一蹴しない。同じものを、同じように喜んで、美しいと言ってくれる。嬉しくならないはずがない。
「はい、つい目を奪われてしまいました」
「よく気付いたな、言われても見付けられない私では、きっと見落としてしまったよ」
屈めていた身体を起こしても、先生は鳥から目を逸らさない。嬉しそうに笑みを浮かべたままで眺めている。少しするともう一羽がやってきて、じゃれているのか喧嘩しているのかは分からないけれど、二羽は互いの身を寄せては離してと触れ合っていた。
「鳥や花、美しいもの一つ一つをお前は必ず見付けてしまうんだな。素敵な特技だと思うよ」
顔を上げた私に、先生の優しい瞳が向けられていた。驚いて何度も瞬きをすると、そんな反応を面白がるように眉を下げて、頭を撫でられた。慌てて口にした「ありがとうございます」の言葉は、動揺を明らかにしてしまったのだろうか。返ったのは笑い声だけ。先生は柔らかく触れただけだったのに、言いようのない感情の昂ぶりを誤魔化すように、触れられた髪を自らぐしゃぐしゃと乱しながら、慌ててその背中を追う。
数日後、どうしても描きたくなって、その時に見た鳥の絵を色付きで描いて先生に見せた。先生は大きく目を丸めて、驚いていた。
「記憶のままだ、よく覚えているなぁ、私の記憶以上に美しい気がするよ」
「うーん、思い出が美化されちゃったかもしれませんけど」
絵にする時、実際より色を濃くすることも出来れば、コントラストを強く出すことも出来る。モチーフを減らすことも増やすことも出来る。鳥の傍に花を添えても良かったかもしれない。絵は自由だ。どのようにも、思う形を生み出せる。
「お前の世界は、本当に美しいよ」
何度も言ってくれる先生のその言葉が好きだった。
喜んでくれる笑みが好きだった。瞬間、透き通る瞳の色が好きだった。嬉しくて堪らなくて、先生にそんな風に言ってもらえる度に私は泣き出しそうになる。
だけど同時に私は、自分のことを許せなくなっていた。
筆を握るよりも、私にはすべきことが本当は沢山あるはずなのに。絵への衝動が湧き上がるほどに、それを取り除けないと知るほどに、為政者としての落第点を付けられている気がして、居た堪れなかった。
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