第5話_適応者

 私はあの時、多分、一度死んだ。

 身体中の血から温度が消えていくような感覚を覚えて、そのまま身体が自分の制御下から消えた。だけど次に目を開けた時、どうしてか私は立ち上がっていた。

 遺体を拾おうとしてくれていたのか、いつもより少し狭い視野の中にも、数名の兵士の影。そして一番近くに居た兵士は尻餅を付いたような姿勢で私を見上げ、酷く怯えた顔をしていた。ざわりと腕が震えた。どうしてか、目に入ったその人を殺したいと思った。頭の中で「殺せ」という声が響いていた。

 相手は同じ国の兵士で、禍根どころか今までに一切の接触もない。ただ視界に入って、目が合っただけだったのに、とにかく早く殺さなきゃいけない気がして、目が剣を探していた。

 じんじんと腕は熱く、身体が熱くて、持て余してしまうくらいの力が湧き上がり、同時に頭の中を殺意が満たしていく。「殺せ」という声ばかりが響く。けれどその意識の奥の奥で、瞬きと瞬きの間で、よく知る気配を見付け出した。

「――せんせい」

 今思えばこれが、神の気配だったんだろう。だけど私は、オリビア先生と先に出会っていたから、私にとっては先生の気配だった。思い出したら、殺意の中に溺れそうだった自我が形を持つ。先生。そうだ、私も行かなきゃ。

「イザベル!!」

 愛馬の名を呼んだ。顔を上げた。蹄の音が近付いてくる。誰に誘導されること無く、あの子は私に向かって走ってきた。一瞬前まで自我すら取り込まれかけていたのに、イザベルは確かに私を覚えていて、だから私も改めて『私』を思い出した。


* * *


 私の手数の多さを嫌うように、神は体勢を逸らす。その隙を狙って、洗練された剣技が正確に核を狙っていた。神は今までに無く苛立ちを露わにしているけれど、私達からも決定打が入っているとは言い難い。その内、神も私達の動きには慣れてしまうだろうし、体力的に長期戦は私達の方が圧倒的に不利だ。

 そんなことを分かっているのは、私と先生と、神だけではない。

 先生が神へと剣を振るい、神がその鋭い攻撃を受けるべく僅かに意識を私から浮かせたところで、私は先生に『離れる』ように小さく手振りした。神の攻撃を寸前で止めた先生が、地面を蹴って後退した。同時に私も神から距離を取る。その瞬間、神に向かって海水が二方向から放水された。

 私と先生まで浴びてしまえば何の有利にもならない為、ずっと使えなかったのだろう。しかし私の耳には「いつでも放水可能です」という微かな声が聞こえていた。多分、私の聴覚の鋭さを知っている誰かが、放水装置の傍に居る。コンティ家の弓兵の誰かが伝えに走ったのかもしれない。しかも聴覚は神の力のお陰か、今までよりも鋭くなっていた。

 戦える状態で私がこの場に立っていることは、きっと、人類側に齎された奇跡だ。

 見事に海水を被った神は、私達を睨み付けている。その目はただ視線が絡むだけで命を摘み取るように攻撃的なのに、腕は先程までよりも低い位置に下がっていた。まるで、重石を付けられているかのようだ。

「私の力で戦うお前らが、この程度の悪足掻きで、私を倒せると思うのか」

「さあな。だが、倒せないと思うならそんなに睨まなくてもいいだろう」

 先生が話し相手をしている隙に素早く距離を詰め、片腕を狙う。私の身体が大怪我から再生していることを思えば、おそらく神も傷は再生するだろう。腕くらいすぐに生えてくるかもしれない。けれどほんの一瞬でも腕が無ければ、先生なら、核を取れるはずだ。

 しかし当然、神はすぐに気付いて爪を振るってきた。まともに受け止めれば短剣が折られてしまう。受け流すように剣を当てた瞬間、石垣の方から兵士の声。私は地面を蹴り、爪による衝撃を借りて左足で神の顎を狙って一回転した。

 当たらない。

 出来る限り死角から蹴り上げたつもりだったが、神は喉を逸らして躱した。

「別に、どっちでもいいですけど、ね!」

 そう言って私が笑ったことが、訳も分からず神には癇に障ったようだ。意識が強く私に向いて、お陰で隙だらけになっている。顎を上げたせいで晒されてしまった核をめがけて、石垣の生き残った弓兵が矢を射た。

「虫共が図に乗るな!!」

 それも当たらなかった。しかし、余裕のある対応とは言い難い。隙があった中で狙われたせいで、神にも焦りがあったのだろう。降り注ぐ矢と、私と、やや後方にいた先生をまとめて爪で攻撃していた。私は空中に居たせいで踏ん張れず、数メートル飛ばされてしまう。

 何とかそのまま身を返して着地し、衝撃を受け流す為に数歩、下がった。そしてその時、ほんの少しだけ右側にふら付いた。目ざとくそれを見付けた神は、追い打ちをかけようと今までに無い速さで私に迫る。きっと今一番煩わしいのが私だったから、先に殺してしまいたかったんだろう。

 その速さを乗せた神からの攻撃はあまりに重く、短剣より先に衝撃で身体が千切れるかと思った。直後、背中にも衝撃。後方にあった樹に、私の身体がぶつかった。耐え切れず、その場に膝を付く。

「っ、ぐ……」

「ヴィオランテ!」

 焦ったような声で先生が私を呼んだ。私が叩き飛ばされる直前に攻撃を受けていたから、神の動きに出遅れているんだと思う。その声を掻き消すように、更に私へと神が迫って来る風の音が響いていた。距離を取るように上体を無理やり起こしても、後ろは樹だ。背をその幹に押し付けることしか出来ない。私を仕留めることを確信した神が、笑みを浮かべながら爪を振るう。先程の衝撃のせいで、私は剣の握りが甘い。爪を受け流すことは出来そうにない。

 しかし、神の攻撃は来なかった。爪が私に届く寸前で、神が、自らの意志で急停止した。神と私との間に、桃色の花弁が舞い落ちる。に勝ったことを確信して、私は笑った。

「サクラ、と言われる新しい樹です。……花、お好きですか?」

 ずっと気になっていた。ファーストのおとぎ話が神に関するものであるなら、『悪鬼も心が花に傾ぐ』というあれは何だったのだろうかと。一回転した時にこの樹が目に入って、この賭けを思い付いた。ふら付いたのは単なる誘いだ。

 この神にも、愛し、傷付けられぬものはあるらしい。このまま私を爪で貫けば、真後ろの樹は、傷付くんでしょうね。笑みを深めた私を見て、神は不愉快そうに目尻を震わせた。

 それはほんの数秒の隙だった。だけど、オリビア先生が見逃すはずも無い。

「がっ……!」

 神が初めてあげた悲鳴。先生が真後ろから、首を一突きにしていた。だが寸前に気付いて身を捩ったのか、喉元の核を僅かに掠めたのみ。しかしあと数センチ斬れば、終わる――。

 私も追撃をしようと剣を握り直す。だけど先程の衝撃がまだ身体に残っていて、初動が遅かった。『神』もその隙を逃してくれるほど甘くない。神は上体を左側へ回し、振り向きざまに背後へと爪を振るった。真後ろに立つ先生の姿は、神の身体に隠れてよく見えない。先生の右腕が、空に舞っていた。

「先生――」

 腕だけか。それとも彼女も致命的に斬られたのか。

 駆け寄りたい、無事を確認したい、でも今この手を止めるべきじゃない。だけど。

 私の一瞬の迷いを振り払ってくれたのは、遠くから飛んだ一本の矢。

 コンティ家弓兵からの矢だ。こんな混戦状態で射れるならお父様しかいない。その矢は、つい先程まで見ていたのとは格段に違う威力で、神の右半身を凍らせた。――シンディ=ウェルからの『完成品』だ。届いた。間に合ってくれた。だから今ここで、私が斬らなきゃいけない!

 渾身の力で踏み出した。

 神は既に此方を向き、凍り付いた右腕で私を攻撃しようとしている。核が右腕に阻まれて見えない。ならばと、代わりに神の右腕を切り落とした。きっと凍り付いていなければそんなことは叶わなかっただろう。邪魔な腕が無くなったから、次こそ核を。

「くどい!」

 あと一歩、あと数センチなのに。神がどうしても速い。先生へと振るっていた左の爪が、次は私を狙う。凍り付いていない側の腕。少し体勢を崩したままの私が受け止められるだろうか。冷たい汗が背中に浮かんだ。剣を返して、駄目だ、間に合わない。相打ちを狙うしか、

「――おい」

 いやに冷静な声が、そんな刹那の攻防に入り込む。神の真後ろで、美しいダークグレーの髪が揺れた。

「腕一本で、私が止まると思ったのか?」

 喉元に突き刺さったままだった剣を左手で取り、先生は神の身体ごと引き裂くようにして、核の石を真っ二つにした。

 眼前に迫っていた爪は私に届くことなく、神の身体が地面に伏す。そしてその身体は、核であった石のみを残し、塵となって消えた。思わず気が抜けて、両膝を地に付く。身体中から、滝のように汗が流れ出た。

「せ、先生……」

「ああ、ヴィオランテ、よくやった」

 表情が、逆光になって見えなかった。だけど先生もそのまま、崩れるように地面に膝を付いた。

「先生!」

 右腕からは絶えず血が流れ落ちている。こんな状態で立ち上がり、剣を振るっていたことが異常だ。一刻も早く治療をしなければ命に係わる。助けを求めようと顔を上げたら、既に多くの人々が馬に乗って此方に向かっており、すぐに先生の応急処置をしてくれた。医学に長けているシンディ=ウェルの人達も混ざっている。これ以上ない処置が受けられるはずだ。安堵して、また少し力が抜けた。

「ヴィオランテ!」

 周りの兵らが一瞬たじろぐ程の大きな声が響く。反射的に顔を向ければお父様だった。私達の元へと一直線に駆けてくる。程近くで馬を下りて駆け寄ったお父様は、一瞬私に向かって何かを言おうとしたのを一度飲み込んで、割れて落ちている核の石に視線を落とした。

「我々は、勝ったのか?」

「……ええ。勝ちました」

 お父様の言葉に、オリビア先生が処置を受けながら応えた。けれど、喜びに満ちた声ではなかった。

「ですが、ひと時の勝ちです。とにかく、早く、封印を施さなければ。そして」

「三千年後に、また同じ戦いがあるんですね」

 周囲は慌ただしく動いているのに、私達の会話に皆、口を閉ざした。

 もしかしたら二度目の封印がもっと短い期間で解けてしまう可能性だってあるだろう。カムエルトの術者らが到着し、核を回収して儀式の準備に取り掛かっている。今はこうすることしか出来ない。だけどこれは、『解決』であったとはとても言えない。

 今回勝てたのは本当に奇跡だった。先生のお父様が偶然にも火山で『神』に出会い、力に適応したことで生き残り、手紙を残して下さらなかったら誰も『神』を再び見付けられなかった。先生と私が力に適応して戦うことが出来なければ、きっと勝てなかった。

 次世代はどうなるのか全く分からない。今日という危機があったことを、今度こそ確実に語り継ぐ手を、また考えなければならないのだ。

「ヴィオランテ」

 儀式の準備を遠目に見守っていた私の隣に、お父様が立つ。優しく肩に置かれた手が、温かくて、安心してしまったのだろうか、また少し身体から力が抜けた。

「……死んだという誤報を聞いた。あれには言葉が無かった。本当に、無茶ばかりをする」

 多分、誤報じゃない。死んだんだと思う。誰かが死亡を確認して、決戦地に向かっているお父様に伝えたんだ。もしくは私が第一部隊に配置されると何処かからの情報で知り、先んじて監視を入れていた可能性もある。何にせよ、こんな戦いの最中で気苦労を掛けてしまったことは、本当に申し訳ないと思った。謝罪しようと思って頭を下げたら、視野が狭まっていることに気付く。――これ、は。

「申し訳、あり、ません」

「だが、お前が無事で――」

 良かった、とか、そういうお言葉を掛けて頂けたのだと思う。だけどそれを聞き終えることは無いまま、私もそのまま昏倒した。

 遠く、お父様と先生が私の名前を呼んだような、気がした。

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