第4話_海の脅威と可能性
フォードガンド国王との謁見後、私達は早速、封印地と思われる海の方角へと向かった。王は既に、監視と探索の兵士らを送っているとのこと。彼らが拠点を置いている場所に合流し、少しでも調査内容などの話が聞きたかったのだ。成果自体は、まだあまり期待していない。
「ヴィオランテ、疲れは?」
「問題ありません!」
「……元気で宜しい」
馬を用いてもその場所までは二日と少し。連日、大した休息も無く彼方此方へ飛び回っている状態だが、間を取ることなく元気に応える声には確かに疲れが見えない。これは若さ故ではないな。この野生児の地の気力と体力だ。勿論これは、褒めている。
「見えてきました! あれが拠点ですかね!?」
「私にはまだ何も見えないね」
「あれ?」
遠くを指差して満面の笑みを見せてくれたが、本当に黒い点すら見えない。何が見えているんだ。何度目の当たりにしてもヴィオランテの並外れた五感には驚きを通り越して引いてしまう。しばらく二人で馬を走らせ、私がようやく拠点と思しき影――とは言えヴィオランテが言うから「何かある」と思える程度の『点』の集合――を見付けると、次にヴィオランテは「やっぱり! フォードガンドの旗が上がっていますよ!」と言った。だから、常人にはそんなものは見えないんだよ。
到着した私達に対し、兵士らは驚いた様子が無かった。不思議に思いながら接近して挨拶をしたところ、既に陛下からのご連絡が入っていたらしい。連絡用の早馬か、または伝書の鳥を使っていれば、私達が使用するような一般の馬より遥かに早く伝達が可能なのだろう。
「現在、沖へ四キロほど離れた場所まではおおよその探索が完了しておりますが、特別、異変は見付けられておりません。国王陛下からは、三十キロまでは探索するよう命を受けております」
「なるほど大変な仕事だ……」
海を見れば、見える範囲でも二十から三十ほどの小型船が海上を航行している。当然、探索は海上だけではなく、海底に至るまでのことを言うのだろうから、実際に潜ったり、道具を使ってみたりと様々な方法で確認していくのは、数キロの範囲だけでも骨が折れるに違いない。しかも、『何』があるのか明確ではなく、探すのは『異変』だ。こんな不明瞭な命令、自分であれば真面目に遂行できたかどうか、正直言って怪しいものだ。
「オリビア様に何処か確認したい箇所がありましたら、私共の船でお連れ出来ますが、如何なさいますか?」
至れり尽くせりだな。そこまでしてくれるのかと、少し驚く。思っていた以上に、陛下は私に協力的であるらしい。
しかし、調査に興味が無いとは言わないものの、行ったところで、私達が得たい情報が得られるとは思えない。これは時間と人員が多いほど良いという調査だ。その中に私達が加わる利点は無いだろう。少し考えたが、そう結論付け、兵からの提案を丁重にお断りした。そのままヴィオランテを連れ、調査の邪魔にならない海辺に移動して少し休憩する。海辺とは言うが、岩場があり、海からは少し陰になる場所だ。ヴィオランテは気にした様子で海を振り返っていたけれど、大人しく私に従って岩陰に入った。
「いくら海の底に落とすとしても、心情的にはあまり近い場所には置きたくないですよね」
「ああ。だが全く目が届かないほどの距離でも恐ろしい。国として管理している範囲内、つまり我が国の『領海』である可能性が高いとお考えで、最大三十キロなんだろう」
事前に用意してあった軽食を取りながら波の音を聞く。先に食べ終えたヴィオランテは、馬にも餌と水を与えていた。私は少し俯いたままで、指先で自分の眉間を押さえる。ヴィオランテが馬の世話を終えて隣に戻ってきた気配を感じても、しばらくはその状態で動けなかった。
「ヴィオランテ」
「はい」
「正直に言うが」
「ええ」
淡々と返ってくる短い相槌。それ以外に、ヴィオランテは何も言わない。少し沈黙を挟んでも、先を促すような言葉も声も、動きも無く、彼女はただ傍で私を見つめていた。
「私は、海が怖い」
「知っています」
「そ、…………そうか」
そうだよな。心の中で呟いた。
どれだけ平静を装ったところで、人の抱いている恐怖心をこの野生児が全く気付かないはずがない。そもそも、私にとって『海』が何であるのか、それを問い掛けてきた時点で、『何でもないもの』という回答ではないことだけは予想済みだったのだろうから。
「釈放後に、私の話をしようと約束していたな」
立て込んでいてまだ何も話せていなかったけれど。私はそう前置きをして、改めて、彼女に自分の話を語り聞かせた。
まずは、私の抱えていたPTSDについて、包み隠さずに伝えた。
今も、服薬で抑えていなければ、破壊衝動――いや、殺戮衝動と言うのが正しいのかもしれない――に襲われ、抗う限りは立っていることも儘ならないような頭痛に苛まれる。このような話は、聞けば恐ろしく思うのが普通であるだろうに、ヴィオランテはいやに平然と、表情を変えること無く私を見つめたままで静かに聞いていた。
「薬さえあれば、お前や一般人に斬りかかることはない。安心してくれ」
「はい。今まで長くお傍で過ごしましたが、そのような兆候は全く見ていませんので、心配していません」
「……なるほど」
彼女なりに、恐れを抱かない理由はあるらしい。私の方こそ、明かすことを恐れていたのだろうな。小さく安堵の溜息を吐いたことだって彼女の耳には全て届いてしまうのだろうに、それでも極力それを小さく留めてしまう強がりも、考えるほど、みっともないものだ。
「だが、今となってはPTSDという診断も怪しいと思う」
「どういうことですか?」
「衝動に駆られる時には必ず、私には奴の声が聞こえていた。『殺せ』と、頭の奥で囁いてくるんだ。火山で聞いた声と間違いなく一致する」
思い出すだけで、微かな恐怖が足元から這い上がってくるような気がした。今、実際に聞こえている波の音も怖いと思うせいで、余計にだろうか。ヴィオランテは私が言わんとしたことを理解したらしく、口を噤んで眉を顰めた。
つまり私が予想しているのは、衝動を齎す『声』は、あれから与えられている『圧倒的な力』の副産物であるということ。あいつの力を身に宿しているから、私の中に、本来は無かったはずの殺戮衝動が備わったのかもしれない。それを、原因を知らぬ医師たちがPTSDであると診断した。
「そう考えた切っ掛けは、あれが語った、父の話からだ」
「確かに、『適応した為に』正気じゃなくなったようなことを、あれも言っていましたね」
「ああ」
そして娘である私の方が『より深く適応した』と言った。その結果が力の強さなのか、正気を保てていることなのか定かではないが、父の狂気にも波があったことを思えば、私の得てしまっている衝動のように、あれの声が父にも聞こえていたのではないだろうか。直に会ってしまった上で、声が響いてくる恐怖を思えば、――力の影響と思わなくとも、狂ってしまいそうだが。
「無事にあいつを倒せた暁には、……先生への影響も、無くなるといいですね」
「ふふ、そこまで考えてはいなかったが。それは有難いな」
笑うと少し、海の気配や波の音による恐怖が和らぐ。ふっと短く息を吐いてから、話を続けた。
何にせよ私の中には未知の存在から受け継いでしまったらしい影響が幾つか存在していると思われる。そして、ヴィオランテが私に問い掛けた『海への恐怖心』も、その一つである可能性があった。
「確信は無い。だが小さな頃、両親と海辺の町に行った時には何ともなかったんだ」
「恐怖を最初に感じたのはいつですか?」
「初めて、たった一人で戦場に残った時だ」
私の言葉に、ヴィオランテは小さく息を呑み、気遣わしげに瞳を揺らした。心優しい子だと思う。きっと、本音を言えば私に戦時中のことを思い出させたくはないのだろう。いつも、そちらへ話題が進むとそれとなく話を変えてくれていたのを知っている。安心させようと笑みを向けたが、あまり上手くなかったのか、一層、ヴィオランテは心配そうな顔を深めてしまった。
「あの時、全ての敵を沈め、辺りから人の気配も、何の音も無くなって、頭の奥に響いていた声も聞こえなくなった後……海の音だけが轟々と響いてきて、何処か、寒かった」
海沿いの戦場だったのだと、その時に初めて知った。潮風が肌に纏わり付いて、自分の身体から漂う血の匂いを濃くしたような気がした。音を振り返ったらそこには、暗い海の色に紅い陽の光が反射していて、本来であれば美しいと思えるだろうその色が、ぞわぞわと私の身体に恐怖を沁み込ませた。
「慣れない戦場の体験と、海という存在を結び付けてしまっただけの恐怖だと思っていたんだ。だが、今思えば父が火山から戻って以来、初めて見た海だった」
どちらが原因であるかは、確認する術がない。だがおとぎ話があれに深く関わっていることを前提として考えれば、あの存在にとって『海』が弱点である可能性を考えてしまう。
「お前はあの時、二つのおとぎ話を挙げていたな?」
「はい。『海に飲み込まれた兄弟の話』と、『火山から人々を守った海の精霊の話』ですね」
ヴィオランテはそれぞれのおとぎ話が海を「魔性として恐れるもの」と「人を救う精霊として崇めるもの」という真逆の意味合いを示していることに疑問を持っていた。私はそれを、ファーストの中にあった文化の違いによるものではないかと推測した。しかし、そうではないとしたら。
「あれが封印されている場所だから、触れることが無いよう、人々を遠ざけようとした」
その為に、兄弟が海という魔性に勝つことが出来ず、飲み込まれたと伝えた。そして――。私の言葉に一つ頷いたヴィオランテが、代わりに続きを述べた。
「同時に、海はあれを封ずる手段だと伝えようとした?」
「今思えば、そういう解釈も出来る」
とは言え、やはり何処までも憶測でしかない。ただ、今回に限って言えば、もう一歩踏み込むことも可能であるように思っていた。……心の底から、気が進まないのだけど。
勢いよく私が膝を叩いて立ち上がると、突然の動きに驚いたらしいヴィオランテが仰け反って、大きな目を見開いていた。
「行くぞ」
「はい?」
強く息を吐き、まだ首を傾けているヴィオランテを置き去りに、私は岩陰から出て真っ直ぐに砂浜を突っ切り、波打ち際へと進んだ。そしてそのまま、海へと立ち入っていく。
「せ、先生!?」
訳が分からずとも後ろに付いてきてくれていたらしいヴィオランテの声が背中に掛かるが、構わずにざぶざぶと入り込んで行く。膝から、腿、腰に至るまで海が這い上がってくる。冷たくて、重たくて、怖い。本当に嫌だ。手が震えてきたが、単純な恐怖とは違う感覚も得ていた。
「……なるほどな」
小刻みに震える手を見つめた後、後方を振り返る。ヴィオランテはおろおろとしながら、まだ波打ち際で立ち止まっていた。
「お前も此方へ来なさい」
「え、あ、は、はい」
呼べば、目を瞬きはしたものの、ヴィオランテは躊躇なく海に入り込んできた。表情に恐怖は無く、私以外の者であればそういうものなのだろうと、少し羨ましい気持ちでそれを見つめる。二メートルほど手前まで来た時、私は腰に携えたままだった長剣を引き抜いた。音に応じて、ヴィオランテが立ち止まり、私の動向を見守るようにじっとしている。
「打ち込んでみろ」
私が剣を正面に構えてそう言うと、ヴィオランテは素直に短剣を二刀引き抜き、交差させる形で私の長剣へと強く打ち込んできた。そして、大きく目を見開く。
「えっ……?」
「分かるか。ああ、全く力が入らないよ」
何度も彼女とは手合わせをしてきたが、どんなに全力で打ち込まれ、それを受け流すことなく正面から受け止めても、私が怯むようなことは一度も無かった。しかし今、彼女が剣をぶつけた瞬間に大きく私の剣は押し返されているし、右足も一歩下がり、身体が傾いた。途中で気付いたヴィオランテが力を緩めてくれなかったら、そのまま沈められてしまったことだろう。目を白黒させながら驚きの表情を浮かべているヴィオランテは、動揺しながら何度か口を開閉した。
「これは、海でなら先生を犯し放題……?」
「上がったら覚えておけよ」
「すみません軽い冗談ですので忘れて下さい私はもう忘れました何でしたっけ!」
いくら動揺したからと言ってぽろりしていい本音じゃないんだよ、未来の為政者。
大きな減点を頭の中で付けながら、とりあえずヴィオランテを促し、一度、海から上がった。
私の中にある『恐怖』が力を削いだ原因であるなら、海近くで戦う時に必ず影響が出るはずだが、十四年前、海の近くの戦場に出た際も影響は無かったし、近年も、海辺の街付近で魔物と戦闘する際に、私の剣が鈍ったことは一度も無い。影響を見たのは今回が初めてだ。つまり『海』自体が、私の力を底上げしているらしい『悪しき力』に、何かしら影響を出している可能性の方が高いように思う。しかしこれは、……良い知らせなのだろうかと私は首を傾けた。
「もしも奴が同じ性質であるなら、勝算はある、と言いたいところだが」
「先生が戦えないってかなり人類としてきついですね」
問題はそこだ。あれが復活した場合、何とか戦場を海に持ち込んで弱体化させたいけれど、唯一あれと切り結ぶことができた私が戦えないという状況は、結局、こちらが不利であるようにしか思えない。
「海か……」
霞んでしまう一筋の光明に対し、何か良い案が無いものかと思考を巡らせ、私が少し海の方へ目をやった瞬間だった。
「ぐぉっ」
「あ、やっぱり反応できてないですね。海そのものじゃなく、海水でも効果ありません?」
突然、私の脇腹に鋭い痛みが走った。反射的に振り返った先で、ヴィオランテが低い位置に拳を置いている。何が起こったのかを理解し、私は体勢を立て直しながら彼女に向き直った。
「だからって師の脇に断りなく拳を入れるんじゃない!」
「え!? 事前に断りを入れたら判断できないじゃないですか!」
「確認する方法は他にもあるだろう! 減点だ!」
「えー!!」
まだじんわりと痛みを訴える脇腹を押さえ、馬を置き去りにしたままの岩陰へと戻る。しかしヴィオランテの考えが正しければ、確かに、これは光明となるのだろう。
実際に海水でも有効であるかどうかを確認する為、まずは濡れた服を着替え、私の身体から海水を洗い流すことで私の力が回復したのを確認した。
そして改めて、一定量の海水を運んで、海からかなり距離を取った上で再び試してみた。すると海中同様、私の身体からは通常の力が抜けていた。反応速度も明らかに落ちている。
「いいですね、これなら、海の傍でなくとも弱体化は可能です。海水が運べる限りは」
彼女の言葉に同意で頷くも、懸念はまだ残る。自分が動けなくなるリスクを思えば、戦いの場は少し海から離したい。それに海辺は地面が柔らかく、兵士や兵器を投入して戦わせるには向かない場所だ。海辺での戦闘は、こちらの最大戦力が投入できるか怪しい。
だが復活後、どの段階で世界を滅ぼそうとしてくるのかが分からない。海を離れ、力が回復すると同時に行うようであれば、海から距離を取らせるのはまずいかもしれない。少し悩んだ後でそう呟けば、同じく考える顔を見せたヴィオランテが、首を傾けながら違う考えを述べた。
「私は、先にあの火山に戻ると思います」
「何故?」
「まず、文献が示す『神』の所在として、あの山のものしか残っていないこと」
アデル様も、フォードガンド内に残っている文献を、彼女が持てる全ての権限を利用して洗ったと言った。だが、『神』の所在について書かれた文献は無かった。カムエルトやシンディ=ウェルはもっと前から類似の文献を確認していると言うが、ヴォールカ火山帯以外に、『神』が存在する場所として示された文献は見付かっていない。
「それから、まだ復活前の不安定な状態にも拘わらず、精神体をわざわざあんなに離れた場所に出現させている上、そこから動くことが出来ない様子だったことです」
その二点から、ヴィオランテは『ヴォールカ火山帯でしか滅ぼすような力は使えない』または、『あの場所が最も力を発揮しやすい』と予想していると言った。
「一度、失敗していますよね。だから今度は前以上に、万全の状態で滅ぼそうとするんじゃないでしょうか?」
「うん、一理あるな」
もしもヴィオランテの予想通りに、あれが火山を目指して移動し、それまで破壊を抑えてくれるのであれば。火山に辿り着く前に、こちらにとって有利な場所を決戦地と決め、誘い込む作戦が有力ではないかと話し合った。
「各所にこの提案を示してみるか」
「はい。一度また王都に戻ってみましょう。ジオヴァナも何か新しい情報を得ているかもしれません」
特に兵士や兵器の配置という話になるなら、国王陛下にお伝えしておくべきだろうし、何より、私のように剣一つで戦う人間よりも、実際に兵器を扱うような軍の意見が必要だ。結局、海辺の拠点では一泊もすること無く、私達は王都へ、とんぼ返りした。
海の気配が遠のくほどに、やはり、私の心はゆっくりと安堵していく。しかし同時に、それは私を『あれと同一』の存在であると突き付けているような気がして、気分は重いままだった。
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