第5話_花に傾ぐ心

 ヴィオランテは、休憩の度にスケッチブックを開く。そして深く集中してしまえば私の声も届かない。瞬きの数も減り、本人もよく後で目を押さえている。もはやあれは中毒だ。きちんと休憩できているのかと心配にもなるけれど、それでも奪ってしまえない程の執着が彼女にはあった。

「物心が付いた頃から、あの子はずうっと筆を握っているよ」

「もしかしたら私が絵筆と一緒に産んだのかもしれないと思ったほどよ」

 アデル様と、ヴィオランテの母君はそう言って笑っていた。

 私が彼女の教育係になって数ヶ月の頃、熱心なものだと感心して零した私に対して、ヴィオランテは嬉しそうには微笑まなかった。幾らか申し訳なさそうに、眉を下げていた。

「私は、絵を描くことしか、できないんです」

 ヴィオランテはそう言っていた。そんな風に彼女をなじる人間は屋敷に居なかったので、彼女自身の評価だったのだろう。いつもにこにこと笑顔を浮かべているヴィオランテからそんな言葉が出てくるとは思わずに、私は何を言ってやればいいのかが分からなかった。

 彼女の祖母、アデル様は為政者としても人としても立派な方で、国王からも一目置かれているそうだ。城内に置かれていた私に会いに来て下さった際にもやけに発言力がおありだと思っていたが、後からそんな話を聞いて納得した。ヴィオランテの父君も十四年前の戦争ではいくつも勲章を得た屈強な方で、この辺りはヴィオランテも大いに受け継いでいるとは思うが、彼女が戦争向きの性格であるかを考えれば、それは否、だろう。そして彼女の母君はそんな父君を支える良妻であり、彼女の存在によってコンティ家がバランスよく成り立っているとも言われている。ヴィオランテは彼らの背中を追いながら、自分にしか出来ない役割を探していた。しかし、胸を張れる程に得意なものは、彼女には絵しか無かったのだと言う。それは、国や領地や家を助ける力には到底及ばないと、肩を落としていた。

「ずっと絵を描いて生きていられたら、良いのになぁ」

 窓から見える空を見上げ、ヴィオランテは寂しそうに笑う。

 けれど彼女は自分の生まれと、それと同時に与えられた使命のことを正しく理解していた。一人娘である彼女はコンティ家を継ぐことが決まっているし、その事に強い不満があるわけでも無いのだと思う。勉強からも稽古からも逃げようとはしないし、普段から領地内の民やその暮らしについてよく考えている。ただ、時折そう零してしまいたくなるほど、彼女は人生を絵で費やしたい心があるのだ。

 それを、誰が咎めるというのだろうか。

 私は彼女の絵を見る度、そう思う。咎めるどころではない。望んでさえいる。彼女の絵は、いつも美しかった。描く対象がどれだけ小さくても、大きく、広く感じさせる。生み出されていく絵は、ヴィオランテの世界がどれほど色鮮やかで美しいものなのかを伝えていた。彼女の目に映る世界はきっと、私が見ている世界とは全く違う色を持っているのだろう。


 黒、白、グレー、セピア。強い色は一つだけ。赤。私の世界にある色は、そんなものだった。

 薄く目蓋を上げれば、黒い天井が見える。カーテンから漏れてくる月明かりが、黒の中にも幾らかの明暗を付けているが、色という色は私には見付けられない。

 簡素なベッドが軋んで、異様に白い手が、私の頬を滑った。

「残念、そろそろ時間ね」

「……ああ、長居してしまったかな」

「私は歓迎だけれどね、オリビア」

 落ちてくる薄い唇を受け止めれば、ゆっくりと立ち退いて行く体温。少しの怠さを感じながら身体を起こし、ベッドの端に腰掛けた。一方、立ち退いた彼女は私の代わりにベッドへと横たわり、しなやかな肢体を漏れ入る月明かりに晒している。白銀の髪に、色白な身体は、こんなにも色少ない部屋の中ではおおよそ白でしかない。興味少なく目を逸らして、私は立ち上がる。

「シャワーを借りるよ、アイリーン」

「どうぞ」

 彼女との付き合いは随分と長くなった。初めて顔を合わせたのは戦時中だった為、少なくとも十四年は超えている。専属の万屋よろずや、兼、情報屋だ。欲しいものや欲しい情報を頼めば即座に仕入れてくれる。そして副業の斡旋もしてくれる。今夜のような身体の関係は、もののついでと言うか、彼女が求めてくれば戯れに応じている。少なくとも、私にとってはそうだった。

 戦時中の彼女は、私より二つ歳下なので十二歳だった。勿論、当時からこのような仕事を彼女が切り盛りしていたわけではない。最初に私の万屋となってくれたのは彼女の叔父だ。そしてアイリーンはその補佐役として紹介されていた。戦後も彼には色々とお世話になっていたが、四年前に病で他界してしまった。その時、この稼業を引き継いだのがアイリーンだった。

 うら若い女が、社会の闇に近い場所に身を置き続けていることは幾らか気掛かりではあるが、彼女は上手くやっていると思う。仕事振りは先代と変わりなく正確で早く、そしてそれ以上の手腕で同業者や協力者と連携できている様子だ。先代と違うところは、おそらくアイリーンには『自分には出来ないことがある』という意識が強いことだろう。だから、出来ないことは出来ないと割り切って、出来る人間に仕事を任せている。本当に彼女は、『上手く』やっていると思う。こういう戯れはどうかと少し思うが、私にとってもそれなりに適度な息抜きだった。アイリーンにとってもそうであるなら幸いだ。いつも本当に世話になっているのだから。

 シャワーを上がれば、アイリーンは未だ一枚も服を身に着けることなく、裸のままでベッドに寝そべっている。行為が終わり、自分がきちんと服を身に着けた後に見るには少し、居心地が悪い。

「服くらい着たらどうだ」

 脱ぎ落とされたシャツを投げてやれば、アイリーンは笑いながら受け取るけれど、それに袖を通す様子も無い。けれどそれで胸元を隠してくれたので、視覚的にはましになった。

「オリビア、頼まれていたもの、そこにあるから」

「ああ、ありがとう。代金は?」

「私とあなたの仲だから構わないわよ、それくらい」

「どんな仲だよ」

 特別と言われれば特別な仲かもしれないし、付き合いが長いことも否めないけれど。私が笑うのと同時に、アイリーンもくすくすと笑っていた。

「仕事には正当な対価が必要だよ、アイリーン」

「堅いひとね。そういうところも好きだけれど。袋にメモが貼ってあるわ」

「先に言ってくれ……」

 私がそう返すことは初めから分かっていたらしい。やれやれと首を振り、貼られたメモを剥がしてその上に代金を乗せた。

「此処に置いて構わないか?」

「ええ」

 ベッド傍の棚にそれを置くけれど、アイリーンは確認する様子も無い。長い付き合いはお互い様だ。私がおかしな代金を置くことがないと、分かっているのだろう。

「ご執心ね」

「ん?」

「あの子供に」

 帰り支度を整える私の背中に、アイリーンが呟く。私は振り返りながら苦笑した。

「……飲み込んでくれるんじゃなかったか?」

「あら、のことだなんて、言ってないわ?」

 楽しそうに笑っているアイリーンに、肩を竦める。揶揄からかわれているらしい。全く、叔父さんの背に隠れていた少女が、逞しい女性になったものだと感心してしまう。彼女の生きる世界が、彼女をそうさせるのかもしれないが。

「仕事だからな」

「そう?」

 含みのある返しも聞かなかったことにして、私は身支度を済ませて扉へと歩く。アイリーンは結局服を着ることをせず、シーツを雑に身体へ巻き付けた状態で出口まで見送ってくれた。そんな姿を、誰かに見られたらどうするつもりなんだろうか。私が扉を開くことを躊躇って苦笑すれば、アイリーンは爪先立って唇を寄せてきた。少し頭を下げて、それを受け止める。

「風邪を引くなよ」

「ええ、ありがとう、またね」

 扉が開いても外から身体が見えない位置に彼女が移動したのを確認して、私は部屋を出た。

 ヴィオランテを残して来たのは別の宿だ。私はアイリーンの泊まる宿を出て、元居た宿へと戻る。流石に、同じ宿で行為に耽るほどの無頓着さは私にも無い。アイリーンもそれを分かっているから、少し離れた場所で宿を取るのだろう。いや、こんな行為を抜きにしたとして、ヴィオランテがアイリーンのことを知る必要は無いのだけど。

 戻れば、ヴィオランテはぐっすりと眠っている。今回は目を覚ます様子も無い。

「……執心、ね。どうかしら。対象は、少し違うかもね」

 小さくそう零し、私は口元だけで笑った。


 夜が遅かったこともあり、私は翌朝とても眠かった。ヴィオランテが起きた気配は感じていたが、起きるつもりも全く無い。とろとろと微睡んでいれば、顔を洗って身支度を整えたらしいヴィオランテは、何かに気付くと勢いよく私のベッドへと突撃してきた。

「先生!!」

 起き抜けにはあまりにも刺激的な大声。しかもすぐ近く。私の身体は流石にその驚きを隠し切れずに小さく跳ねた。

「おまえなぁ……」

「す、すいません、あの、驚いて、あの」

「今日は出発しない、まだ早いよ」

 私に起きるつもりが全く無かったのはその為だ。私達は今日一日この街で過ごす予定を立てていた。昨日は夕方遅くに街に辿り着いたこともあり、市場に寄って次の道程の準備をする時間が無かったからだ。また、時々はこうしてゆっくり過ごす時間も必要だ。私が眠くならない為にも、野生児のように元気なヴィオランテが何処かでオーバーヒートしない為にも。

「そうなんですけど、でも、このキャンバスは」

 ただ、彼女が何に興奮しているのかが分からないわけではない。程度を見誤っていた、つまりここまで興奮するとは思っていなかったのだ。

「お前のだよ」

「横にあるの画材ですか!? これも!?」

「そうだよ……」

 諦めて私が身体を起こす頃には、ヴィオランテは私のベッドから立ち退いて先程まで騒いでいた原因へと駆け寄っている。自分のものと言われたからだろうか、割と容赦なくその包装を引き剥がして中を確認していた。イーゼル、木枠と帆布はんぷ、そして画材が一通り入った木製の鞄。私が先日アイリーンへと依頼したものだ。当然、私にとって一切必要の無い道具達。

「私は画材に詳しくないから、他に必要なものがあれば自分で買い足すなり買い替えるなりしてくれ」

「いえ、十分です……というか、本当に詳しくないんですか?」

「ん?」

 詳しくない。彼女が膝の上で広げているその鞄の中身を見つめても、筆と絵具以外は何に使うものなのかさっぱりだ。透明な液体は一体何をするものなのだろうか。寝惚けた頭でそう考えながら首を傾けるが、ヴィオランテは私と画材を何度もいぶかしげに見比べている。

「私が普段から使ってたものに、近いんですけど」

「……そうか、偶々だ。良かったな」

 目どころか顔まで逸らして私は素っ気なくそう答える。アイリーンに頼んだせいだろう。仕事が出来るというのも考えものだ。完璧すぎて私が困ってしまうじゃないか。

「荷物は増えることになるが、それでいいなら今後も持っていくといい、旅に支障が無いなら、咎めはしないよ」

「ありがとうございます!」

 嬉しそうな笑みと共に私を見上げる深紅の瞳は、私の知る赤とはまるで違う色だ。そこで留まり、終わってしまわない色だ。ヴィオランテはいつも私の瞳をどうとか言うが、彼女の瞳の色も十分に美しいものだと思う。

「あの、今すぐ先生を描いてもいいですか? いいですよね、今日は出発しないので」

「だから、外でしか描けないものにしなさいと言っているだろう」

 私は呆れて笑う。この問答は前にもしたはずなのだけれど、スケッチでも油絵でも、ヴィオランテの選択は同じものとなるらしい。けれど私からすれば、彩色がされるからこそ、外のものである方がいいだろうと思ってしまう。

「私が先生を描くのは、お嫌いですか?」

「そうではないよ、ただまあ、時々でいいだろう」

 早口でそう告げると、私は逃げるように洗面所へと入る。描く対象は、ヴィオランテが好きに決めればいい。その心で描くからこその美しさであるというのなら。ただ、気恥ずかしさは無くならない。ヴィオランテの声が追いかけて来なかったので、諦めたと一瞬でも考えた私がばかだった。部屋に戻れば早速イーゼルにキャンバスを立てているヴィオランテの姿。何処へも行こうとしない彼女に、ほんの少しの嫌な予感。

「ここで描くのか? 何処か外に出たいなら付き合うよ」

「大丈夫です、対象はいつも頭の中にあるので」

「……私じゃないだろうな」

「先生ですよ」

 結局どうしてもそうなるのか。項垂れながらも、まあいいかと内心では諦めた。先にも言ったが、どうしても止めてほしいとまでは言えない。ヴィオランテが描きたいものを描けばいい。

「先生、『悪鬼も心が花に傾ぐ』という話を知ってますか?」

 顔を上げれば、ヴィオランテは笑みを浮かべて私を見つめていた。どうしてそんな話をするのかは分からないが、私は軽く頷く。

「ああ、ファーストのおとぎ話だろう? いや、まあファースト自体おとぎ話とも言われているが。あ、これは街中で言うなよ」

「分かってます、というか今、私の方がひやっとしましたよ!」

「はは」

 珍しいくらいに狼狽しているヴィオランテに対して私は笑ってみせたが、外でやれば本当に笑い事で済まない言葉だった。『ファースト』というのは、私達が今生きる世界の『下』に沈んでいると言われている世界の名だ。地底に、湖底に、海底に、当時の世界が沈んでいる。そしてその上に生まれた世界『セカンド』が、私達の生きる世界の名となっている。事実かどうかは分からない。だが、それは。そして各国の王族はその末裔であるという話なのだ。つまり、『ファースト』の否定は、王国の否定になる。無闇に口に出来ることではない。

 しかし、内容が眉唾であるのも事実だ。私のように考える者は多い。それを、表では口にしないだけで。

「で、その悪鬼の話が何だ?」

 ヴィオランテが話したのは、ファーストから伝えられたと言われているおとぎ話だ。人々を殺す悪鬼が居たが、遭遇した人々の中で一人の子供だけが助かった。その子供は悪鬼に襲われた時、一輪の花を手に持っていたそうだ。悪鬼はその花の美しさにたじろぎ、その子を殺さず逃げたと言う。

「悪鬼とは何かの獣を指しており、単にその獣が花の毒に弱かったのでは、とも言われているけどね」

「それはそれとして! 美しいものを美しいと思って心奪われてしまうのは、誰にでもあると思うんです」

 ヴィオランテは椅子から立ち上がり、目の前に立つ。ゆっくりと私の頬へ伸ばされる手の動きをしばし見守ってから、頬ではなく手の平でその体温を受け止め、頬へ到達するのを遮った。

「その悪鬼は逃げたそうだよ?」

「そうですけどぉ。つれないなぁ……」

 大袈裟に肩を落としているヴィオランテだが、動作の遅さからして私に触れる気は最初から無かったに違いない。私が彼女の手を遮り、躱す言葉を口にすると分かった上で、こんなやり取りをこの子は楽しんでいる。そういう意味では十分に上級者だよと、別の意味で彼女の未来を憂えた。そして、まだ真っ白なままのキャンバスに目をやる。

「全く分からないと言うわけではないがね、まあ、ほどほどに」

「はあい」

 楽しそうに笑い、再びキャンバスの前へ座ったヴィオランテの背を見ながら、『ご執心』と言われたことを思い出す。分からないわけではないが、どうだろうな。目を閉じれば、いつだって、色とりどりの美しい絵画が並ぶこの子の部屋を思い出せる。ヴィオランテの絵は、彼女だけに見える美しい世界を、その色を、私のような者にも見せてくれる。

 あの絵が生まれなくなることも、こんなにも絵を愛しているヴィオランテからそれを奪うことも、どちらも私にとって、あまりに忍びないものだ。

 ヴィオランテ自身が手放すことを選ぶ日が、いつか来るかもしれないけれど。それは、今でなくてもいい。この子の成人はまだまだ、先のことなのだから。

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