第5章_『私』のキャンバス

第1話_最後の手紙

 牢の中の生活など、十年前から大差ない。思春期のほとんどを牢屋で過ごした身ではむしろ懐かしさすら感じていた。大体、鉄枷を付ける以外、一切の不便を私に強いることは無いのだから、他の囚人と比べれば良すぎる待遇だ。飯がまずいのは仕方がないとして。

 少々心配していたのはいつもの服薬だが、元より陛下もご存じのことだからと楽観視していれば、逆に「服薬はきっちり続けるように」と命令を受ける始末だ。しかしそれも当然のことに思える。服薬していなければ私は破壊衝動を宿す。鉄枷を付けて牢に入れていても私という存在を恐れる者達が、そんな状態になることを望むはずがなかった。

 退屈しのぎを求めれば用意してくれる本も、もう三十冊近くがベッド脇に積まれている。読みかけの一つを手に取った時、今日もまた新しい手紙が二通届いた。私にそれを届けてくれる兵士らが日に日に疲れた顔をしているのが可笑しくてならない。それは手紙以上に今の私の娯楽だ。申し訳ない思いは多少なりとあるけれど、書いたのは私ではないのだから文句は差出人に向けてほしい。

 ――差出人など、辿れば一人にしかならないことなど、何も知らないだろうが。

 手紙のほとんどは筆跡も名前も異なる。だが、これらは全てアイリーンが使う偽名であり、筆跡は組織の者に代筆させることでばらけさせている。内容は一見すれば熱烈な愛の言葉なのだけど、暗号化されているので実際は淡々とした報告だった。国王陛下から依頼された調査の内容。そして調査結果。分布図などは流石に見ることが叶わないものの、釈放後には見ることが出来るよう、信頼できる場所に預けてくれているそうだ。

 それにしても。まさかヴィオランテがアイリーンを捕まえて、私の釈放の為に使うとは思わなかった。ヴィオランテからは先日その報告を受けたけれど、その時の様子から言って、彼女が私と面識がある相手とは知らないようだ。もしかしたらアイリーン側から接触したのかと思えば、深夜に裏路地で捕まえたと言うのだから、ヴィオランテの無謀さには感心するやら呆れるやら。今日届いた手紙にも、改めてアイリーンからその件についての仔細が説明されていた。

「オリビア様」

「ん?」

 呼び掛けに顔を上げれば、普段、門番をしてくれている兵士とは雰囲気の異なる兵士が、不意に牢の前に立っていた。白銀の、立派な鎧を身に纏っている。国王直属の衛兵だろうか。

「もう間もなく、国王陛下が此方にお見えになります」

「……そうか、分かった。身なりを整えることも出来ないが、構わないかな?」

 陛下の予定を知らせに来たと言うことはやはり、陛下に近い者であるのだろう。そう思いつつ、冗談めかして問い掛けてみれば、兵士は微かに眉を寄せながら問題ないと告げ、それ以上の雑談を許すことなく立ち去って行く。生真面目なことだ。私には真似できそうにない。

 アイリーンからの手紙を片付け、文庫本もベッド脇の山の上へと戻して、陛下の訪れを待つ。投獄された翌日にお見えになって以来だ。ヴィオランテとアイリーンからの情報によれば、私の釈放手続きは順調に進んでいるとのことだから、釈放前、最後に顔を見に来るつもりなのだろう。小言の一つや二つ、ヴィオランテの代わりに受けることはやぶさかではない。

 私の釈放をこじつけて以来、ヴィオランテが陛下とお会い出来てないと言っていたのは少々可笑しかった。流石の陛下も、弱冠十六歳の小娘相手に負け惜しみの小言をぶつける気にはならなかったに違いない。またはあの子に、アデル様の気配を見てしまったか。何にせよ、他人事としては大変面白い。いや私は当事者に違いないのだが、何もせず待っていたという身分だけに、その自覚が薄かった。

 十数分後、普段は閉ざされたままの重厚な扉が開かれ、兵士らが一糸乱れぬ動きで身体の向きを変えて礼をする。そういえば以前は事前の知らせなど無く陛下が訪れていたと思うが、なるほど、その際に此処でヴィオランテと遭遇したことを今更気にされたのか。今はやはり、彼女と顔を合わせたくないらしい。笑って肩を震わせてしまいそうになるのを何とか堪え、柔らかな笑みだけを残した。そんな私とは対照的に、苦虫を噛み潰したような顔で、陛下が現れる。

「体調を崩してなどはおらんな」

「はい、お陰様で。私の体調までお気遣い頂き、ありがとうございます」

 頭を下げると、鎖の音がじゃらりと響く。陛下は微かに不快そうに目を細めた。最近は慣れてしまって、忘れていた。極力、音を鳴らさぬようにゆっくりと頭を上げる。

「お前の釈放が三日後に決まった」

 前触れなく告げられた言葉に、何と応えるべきかも分からずお顔を見つめてみるが、陛下が何も続けない。頭を下げる代わりに少し視線を落として俯く。

「……さようでございますか。安心いたしました。陛下の憂いは晴れましたでしょうか?」

「晴れるものか。嫌味なことだ」

「滅相もございません」

 どのような経緯によって釈放されることになったかを、私が既に知っている認識であるようだ。決定が下された後にヴィオランテが面会した記録をご存じであれば、無理もない。これ以上を続けると更に機嫌を損ねてしまうと思い沈黙すれば、重々しく陛下が口を開く。

「疑念は晴れておらん。故に、身を隠す真似を許すつもりは無い。今後もコンティ家に勤め、余が呼んだ際には速やかに登城せよ」

「勿論、仰せのままに」

 一切の躊躇なく承知すれば、それがお望みであったことだろうに、陛下は少々不満げに息を吐いていた。彼に対して物怖じしない人間が居ること自体、彼は気に入らないのだろう。その後、陛下は先程訪れた兵士以上に雑談の隙無く立ち去った。

 しかしその翌日のことだ。陛下よりも遥かに意外な人物が、私の面会にやってきた。

「はぁい、オリビア。元気?」

「……元気だが。君はこんなところに来て良かったのか?」

 名を呼ぶことすら躊躇う。アイリーンだった。直接来てしまえば、わざわざ名を変え筆跡を変え手紙で連絡をくれていた意味が無くなるのではないか。大体、彼女は国王付きの情報屋。私個人との繋がりは晒してしまって問題無いのだろうか。心配している私のことなど分かっているのだろうけれど、知らない振りでアイリーンは親しげな笑みを向けてくる。

「あなたが収監されている様子なんてもう見ることも叶わないでしょうし、観光にね」

「とんでもない理由で面会してくれるね」

「ふふ。ついでに追加のお薬も届けてあるから。釈放の時に兵から受け取って頂戴」

 それが本当の用事だったんじゃないのか。了承を告げながら、苦笑を零す。そのまま幾つも軽口を叩いているアイリーンに適当に相槌を打ってみるが、まあ、いい気分転換ではあった。あと二日で此処を出られるとは言え、退屈していることには変わりないのだから。

「あ、そろそろ時間だわ。行かなくちゃ。オリビア、これ」

 鉄格子ごしに差し出される封筒に首を傾ける。兵士らが反応しないところを見れば、検閲済みのものなのか。止められないのを確認しながら、ゆっくりと彼女に歩み寄ってそれを受け取る。封筒には今までと違い、はっきりとアイリーンの名前が記載されていた。

「何だ?」

「ラブレターよ」

「……はあ」

 何なんだよ。口にはしなくてもそんな顔になっていたことだろう。けれど今までに渡してくれていた手紙のように、『そのように見せた暗号』であれば、見張りの兵士の手前、そう告げるしかないかもしれない。一先ず納得したように小さく頷き、封を開く。するとアイリーンが「こら」と言ってそれを止めた。

「うん?」

「恥ずかしいから、目の前では止して頂戴。私が帰ってからゆっくり読んでくれればいいの」

 一体何が恥ずかしいのやら。肩を竦めて苦笑していると、私を見上げたアイリーンは、ふっと柔らかく目尻を緩めて笑った。

「何かおかしいか?」

「いいえ、投獄生活で髪もぼさぼさ、服も囚人用の貧相なものを身に着けているのに、それでも美しいって羨ましいなと思ったの」

「そんなことを言っても何も出ないぞ」

 肩を竦めながらそう言えば、アイリーンは楽しそうにくすくすと笑った。今日の彼女は纏う雰囲気がいつになく柔らかい。普段が硬いわけではないけれど、職業柄か、常に隙を見せない気配があった。それに比べれば、今日の彼女は何処か、年相応だ。何をどう返してもこちらを揶揄からかってきそうな点については地なのだろうが。彼女に釣られるように私も口元を緩めたところで、アイリーンは一歩下がった。

「じゃあ、私はもう行くわね」

「ああ。また」

 彼女は少し目を細めて笑うと、普段は閉ざされたままの扉の方へと身体を向ける。控えていた兵士らが、その扉を開いた。アイリーンは躊躇する様子無く、その奥へと姿を消す。

「そっちから帰るのか……」

 結局、国王付きの情報屋として此処に訪れていたのだろうか。陛下しか使用していなかった扉を当たり前のように使うとは思わない。つまり此処に居る兵士らは、彼女がそうであることを知っていた、ということだ。ともすれば城で働く者の幾人かは彼女の職業を知っている、または、国王陛下が懇意にしている客人であることは少なくとも知っているのかもしれない。

 閉ざされた重厚な扉を見つめて立ち尽くしていたが、そんなことを、私の頭の中だけで考えても仕方が無い。自らを繋ぐ鎖をじゃらじゃらと引き摺りながら牢の奥に戻り、読みかけの本と、先程アイリーンから受け取った手紙を持って椅子に座る。

 そういえば彼女の名で手紙を貰ったのは初めてではなかったか。基本的には組織の代表としての彼女とやり取りをしている為、偽名を使われているか、組織の紋章が描かれているかのどちらかだ。検閲があるから、封は開かれたまま。すんなりと出てきた中の紙は一枚だけ。いつも届く手紙は三枚や四枚で、時々十枚近いこともあったので意外に思う。頼りないその一枚を、片手でだけで開いた。瞬間、私は違和感に思わず眉を寄せる。暗号を、使っていない。これは彼女のそのままの言葉だ。

『私は、私自身の立場を理解していた。そして自分の取った行動が何を意味し、選んだ道が何処に辿り着くのかも、理解していたわ』

 冒頭を読み、全てを察した。

 彼女の手紙は、私が一体何を見落としていて、如何に楽観的に物事を捉えていたのかを突き付ける。どうして気が付かなかったのだろう。咄嗟に立ち上がった私を、兵士らが警戒した。だが今回ばかりはそれを気遣ってやる考えも浮かばなかった。

『それでも選んだことを後悔していない。悪かったとも思わない。だけど、私には叔父から継いだこの職への誇りがある』

 いつも叔父さんの背に隠れていた、まだ小さかったアイリーンを思い出す。成長し、一人でも動くようになった頃を知っている。まだ慣れない頃に失敗し、落ち込んでいたのを覚えている。突然、跡を継ぐことになってしまい、気弱な様子を見せなくなった。身体を重ねるようになったのはその頃だ。私の身体に触れながら、別の温もりを探している気がしていた。

『受けるべき報いがある。通すべき筋がある。私は全てに納得しているわ。だからどうか、あなたは何も悔やまないで。そして、憎まないで』

 綴られているのは確かに私へと向けられた愛情だった。今から自らに降り掛かるだろう現実に対し、それでも、自分以外の誰かを想っている文字が、そこにあった。

『――愛しているわ、オリビア。さようなら』

 最初で最後のラブレターを、思わず握り締めて潰してしまいそうで、手が震える。

「アイリーン、を」

 出した声は震えて、掠れていた。まだ私を警戒したままの兵士らへと目をやる。彼らの警戒が更に高まったのを知りながら、何も考えられずに大きな音を立てて鉄格子に縋った。その勢いで私を繋ぐ鎖が鉄格子を叩き、動作を追うようにまた大きな音が鳴る。

「彼女を呼び戻してくれ!!」

 叫んだ声は更に大きく、冷たい空間に響き渡った。兵士らは私に槍を向け、怯えていた。

「こっ、国王陛下と謁見中です! 鉄格子から離れて下さい!」

 私という存在に対して恐怖で震えながらも彼らは必死に務めを果たそうと叫ぶ。威嚇の為だろう、数度、槍が鉄格子を叩いた。陛下との謁見が決まっていたから、彼女はこの扉を使う許可を得ていたのだ。もう既に陛下の元へと行ってしまったのであれば、目の前に兵士にどんな言葉で懇願したところで、彼らはそれを許可できない。どんなに大きな声で叫んでも、アイリーンにも陛下にも届かない。私はその場に、力無く膝を付いた。

 少し考えれば、分かることだった。

 私とアイリーンの関係を陛下がご存じであろうとなかろうと、そんなことは関係が無い。此処に私を置いておきたかった陛下のお気持ちを知りながら、『国王付きの情報屋』が、その意に反した動きを取った。彼女は、国内外にわたってあらゆる情報を保持している。何より国王から直接依頼を受けて動いている以上、国家機密も多く保持しているのだ。そんな彼女が取る行動として許容されるはずがない。例え『陛下の為を思った』と言い訳をしたとしても、行動を取ってしまった時点で許されない。その瞬間、彼女たった一人が、あまりに恐ろしい脅威となったのだ。情報とは、直接的な武力ではない。だからこそ、武力よりも遥かに恐ろしい。陛下はそれを、よくご存じだった。

 翌日、アイリーンが処刑されたこと、そして遺体は速やかに処理されたことだけが、感情無く兵士から告げられた。

『――それでも信じている。神は必ず居る、清く正しく優しいものを救う神が、きっといる』

 自分がずっと繰り返していた言葉。その言葉がもう、信じられなくなっていた。

『――神様なんて、この世界には最初からいなかった』

 父の言葉が頭の奥に蘇る。その心が今、私にもよく分かる。居なかった。居なかったんだ。居たのは、あんなにも残酷で、人を救うことなど一切無く、ただ手遊びのように命を摘み取るだけの存在だった。

「アイリーン……」

 どれだけ悔やんでも、もう、この世の何処にも届かない。

 彼女は私を愛してくれただけではなかったのか。目の前にある人間を、命を、想ってくれただけだったのに。何故、奪われなければならなかったのだ。救う方法は無かったのか。彼女を守る存在が何故その時、傍に居なかったんだ。私はどうして、届かなかったんだ。彼女が納得していると言っても、私には、少しも納得が出来ない。

 今思い出すのは、仕事の折々で顔を合わせた大人になった彼女ではなく、まだ小さくて、叔父の背に隠れていた幼気な彼女の姿ばかりだ。

 その亡骸に、別れを告げることも出来ない不自由な身を、この時、心から疎ましく思った。

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