第2話_優しい腕
私の先生は美人だ。欲目を少しばかり差し引いたとしても美人であることは誰にも否定できない。緩くウェーブしているダークグレーの長い髪は、光の加減で幾重にも色を変える。垂れ目がちなのに視線は強く、あの美しい色の瞳も相まって、
「――美味しいお酒が飲めるお店を知っているのよ、どうかしら」
賑わう夜の大衆食堂、そんな喧騒の中からでも、妙に優れた聴覚が知らない女性の声を拾い上げる。困った様子で笑いながら零した先生の声も。あまりに人が多かったから、先に席を先生に確保してもらって、私は注文をする為だけにほんの短い時間、離れていただけだと言うのに。
「いや、連れが」
「先生!」
「……居るんだ、この通りね、すまない」
慌ててテーブルに戻って声を張れば、先生がちらりと私を見て眉を下げる。先生に声を掛けていたのは二人組の女性だった。二人なんだったら二人で食事してほしい。どうして出会ったばかりの見知らぬもう一人の追加が必要なのか理解できない。怪訝な顔を隠しもせず見つめる私に、女性らは笑った。
「あら、『先生』は大変なのね」
「何ですかあれ」
「まあ、食事の誘いだよ」
「ナンパですよね」
「そうとも言うね」
涼しい顔をしながら答える先生は全く動揺などしておらず、このようなことにも慣れているのだと嫌でも分かってしまう。私は微かに眉を顰めた。もう女性らは居ないのに、強い香水の匂いがまだテーブルの傍に纏わり付いている気がする。
「よくあることなんですか?」
「そう毎回ではないな」
つまり珍しいことではないのだ。それを信じられない等と言うわけではない。先にも述べたが先生は人目を惹く。そして一目で女性と分かるのに、男性よりも女性からの視線が断然に多かった。
「あの人達より、私の方が腕は立ちます!」
「ははは! 何故そこで腕っぷしで対抗しようとするんだ」
瞬間、先生は大きな声を上げて笑った。そんな様子は幾らか珍しく、得をした気分になってしまうのだから我ながら現金だ。不満が消え去るわけではないのだけど。
「先生は女性からモテすぎると思うんですが」
「そうかな。女性からの真っ当なアプローチには覚えがないよ。あれは戯れだ、ヴィオランテ」
女性らが容易く引き下がったこともそれが理由だと先生は言う。確かに彼女達に、断られたことに対する嘆きや悲しみは少しも感じられなかった。
「男と比べれば危険少なく、女性と比べれば腕も立つし頼りになる」
誰が見ても先生の装いは戦う人だ。着慣れている防具に、使い込まれた長剣。同性であるほどに、憧れのような想いが湧き上がる、という意味では理解も出来る。
「なんて説明すれば聞こえはいいが、つまりは彼女らにとって私はただ都合がいいのさ。『遊び』であればね。あまり気にするな、いや、お前が学ぶべきことでもないな、忘れるのがいい」
後半は、やはり私には分からない。先生もそれを分かっているから、このように言うのだ。それでも、蚊帳の外へ送られるのは嬉しく思えない。先生の見つめる目はいつでも多く、そういう意味では私にとって恋敵はとても多いということになる。素手なら絶対負けないけれど、そういうことではないと、流石の私も分かっている。頭では。心から分かっているかと問われたら、黙ってしまうかもしれない。何せ他の部分において私が先生を見つめる数多の女性と比べて勝っているとは言えない。私は何処までも子供で、あの女性ら以上に、先生から全く相手にされていないのだから。眉を顰める私を眺めながら先生が続けた言葉は、それを浮き彫りにした。
「あと、何だ、お前はもう少し『様子を見る』ことを覚えるのがいい。いや、頑張っていることは認めるが、少し足りないな」
「……すみません、つい。反省します」
先程、お話の真っ最中に遮って割り込んだのは、咎められて当然のことだと思った。幸か不幸か先生は半分笑っているし、『頑張っていることは認める』とフォローの言葉まで入れてくれた。ただ、深く考えずに飛び込んでしまったことは明らかに『減点』だ。未来の為政者として相応しい振る舞いであったとはとても言えない。何か騒ぎが起こった場合は、しっかりと状況を見極めてから飛び込まなければ、私が悪になる可能性だって大いにあるのだから。予断を許さない場合もあるだろうが、今、先生は全く危機に瀕していなかった。ただ『見ていたくなかった』というだけの、幼稚な理由で会話を私は遮ってしまった。
「人を恐れないというのも、考えものだね」
俯く私の頭に先生の手が一度だけ優しく触れ、そして笑った。私は、人という生き物が少しも怖くなかった。怖いと感じた経験が一度も無い。小さな頃からそうだったと家族からも聞いている。新しい顔を覚えることも早く、人見知りという概念が全く分からない。五歳にも満たないような頃でも、怒鳴られても少しも怖がらなかったそうだ。小さな子供だからよく分からなかったということもあるのだろうけれど、今の私も変わらず、それらを怖く思わない。
人なんて、少しも怖くはない。
先生のことだって。
屋敷の者でも一部、先生を『怖い』と言う者は居た。だからといって領主であるおばあ様の手前、極端に先生を避けたり騒いだりするようなことは誰もしなかったのだけど、先生は気付いていたのだと思う。普段からあまり積極的に、屋敷の中を歩き回らなかったし、屋敷の者に無用に声を掛けることもしていなかった。
私の屋敷に先生がやってきて数か月程が過ぎた日のこと。他の者が出払っているのを確認し、私は一人でおばあ様の部屋を訪ねた。
「おや、珍しいね、どうしたのヴィオラ」
この時、おばあ様はもう私が先生の話をしにきたことを分かっていたのだと思う。あの時は少し違和感を抱いただけだったけれど、今思い返せばよく分かる。『珍しい』ことなど、この瞬間には何も無かった。小さな頃から私は、忙しいおばあ様の部屋に親の目を盗んで訪ねては、一緒にお茶を飲んだり、お話を聞いてもらったりしていた。私が一人で、誰も居ない時間を見計らって部屋を訪れることに、一体何の珍しさがあっただろうか。きっとおばあ様が指したのは、本来あるべき形で正しく『用件を持って部屋を訪れたこと』だったのだろう。どのようにしてそれを見極めたのか、今も分からない。
「先生がいつも服用されているあのお薬は何ですか? おばあ様ならご存じかと思って」
「……さて。あの子には直接聞いた?」
「いいえ。聞いて良いことなのであれば、直接聞きます」
私の返答に、おばあ様は数秒間、考えるように俯いて、ゆっくりと首を振った。
「けれど、そうね、いずれ共に旅をするのだから、話しておきましょう。あの薬はね、何でもないわ」
当然、私は首を傾けた。何でもない、とは一体どういうことなのだろうか。そして、どうしておばあ様は笑みを浮かべているのにそんなにも悲しそうにしているのだろうか。分からないことばかりだった。
「言い換えれば、特別な効力を何も持たない薬よ。ビタミン剤に近いわね」
それからおばあ様は先生の抱えるPTSDについて語ってくれた。戦時中から少しずつ症状が現れ、戦争が終わる頃には酷い状態だったのだと言う。ありもしない声が頭の中に響き、生きているもの、動いているもの全てに対して剣を振るわなければならないという衝動が湧き上がる。加えて、それに抗っている間は激しい頭痛に苛まれてしまうらしい。
そんな症状を、おばあ様の言う『何の効力も無い薬』一つで抑えているという。服用すれば発作が鎮まるのだと思い込ませる、ただそれだけで何とか先生の症状を抑え込むことに成功し、十年以上も普通に生活が出来ているとのことだった。そのように、思い込みだけで病状に改善が現れることをプラシーボ効果と呼ぶらしい。ほとんどは小さな効果であるそうだが、先生には幸いよく効いた。けれど、先生が真実を知ってしまえば途端、おそらく二度と効くことは無いのだろう。
黙って説明を聞いていた私を振り返り、おばあ様は目を細めた。
「ヴィオラ、あの子が怖い?」
「いいえ、少しも」
それでも私は、あの人が怖くなかった。先生の圧倒的な強さを知っていて、その人がそのような病状に侵されいつ暴走するかも分からないと聞いても、私の中に恐怖は全く生まれなかった。嬉しそうな笑みを浮かべたおばあ様は、ともすれば、だから『私を選んだ』のかもしれないと思わせた。私の為に先生を選んだのではない。先生の為に、傷付き続けたあの人の為に、人に対する恐怖を持たない私を選んだのかもしれないと。おばあ様がどれだけ先生を大切に想い、愛しているのか、その欠片を知った。
「そのままで居てね。……居てあげてね、ヴィオラ」
おばあ様の憂いは今も私には分からない。あの人が、怖くなる日なんて来ない。先生のことが、怖いわけなんてない。
私はここぞという日には天候に恵まれやすい。旅立ちの日だって晴れていた。けれど、流石に毎日晴ればかりというわけにはいかない。宿のある日に嵐が当たるのは、確かに幸運な方だと思う。宿の中では風も、雨も、寒さも凌ぐことが出来る。ただし、私が嫌いで仕方が無い雷の音だけは、逃げも隠れも出来ない。一つや二つと言わず、隙間なく鳴り響く音に、私は布団に潜り込んで情けない声を出した。
「うあぁ……激しい……もうやめてぇ……」
「怖がり方もお前らしいな」
先生は隣のベッドに腰掛けて、こんなにも恐ろしい音が鳴り響く部屋の中で、一切動じること無く笑っている。人なら怖くないけれど、雷や地震はてんで駄目だった。どうして怖いとか、何が怖いとか、理由なんて何も分からないけれど身体が竦んで言うことをきかない。震えが止まらないし、目が勝手に潤み始める。
聞きたくないと思うほどに雷の音にしか意識が行かなくなっていた私に、それでも先生の声はするりと隙間を縫って滑り込んで、丁寧に私の鼓膜を揺らした。
「こっちにおいで、ヴィオランテ」
「えっ」
いつの間にか就寝の準備を終えて横たわっていた先生は、寝そべりながらシーツをとんとんと手の平で叩いた。
「こっ、これは……どきどきして寝れませんけど……」
「寝かせる為に呼んだんだから、何とかして寝るんだよ」
シーツを引き上げ、先生は二人分の身体をまとめて包み込む。ゆっくりとしたリズムで背中を叩いてくれているが、三十倍くらいの速度で私の心臓が激しく踊っている。いや、考えてみればこの心臓の音で雷の音がごく僅かながら遠く感じられる気がする。怖いのは怖いけれど、意識は分散していた。私の心情をどの程度、理解してくれているのか、先生は私の耳を腕で塞ぐようにして抱き締めてくれた。心臓の方は更に大変なことになっているが、その分、雷から気持ちが剥がれていく。大きな音に身体は勝手にびくついてしまうものの、その度に逆の手で先生が優しく背を擦ってくれるのは役得であるようにすら思えてきた。恐怖以外の感情で、身体がぽかぽかと温かくなっていく。
この優しい腕を、どうして恐れることなんて出来るだろうか。戦争の最中に数え切れない程の人々を殺してきたのだと知っていても。
――昨日の夜も人を殺めていたのだと、知っていても。
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