第6話_残された手紙
先生の故郷は、街ではなく、小さく
「しゃんとしていなさい、ヴィオランテ、みっともないだろう」
「あ、はい、すみません」
いつになくきょろきょろと、落ち着きなく周りを見回しながら歩いてしまって、お叱りを受ける。此処で若かりし頃の先生が生きていたのだと思うだけで、あちらこちらが気になって仕方が無かった。背筋を伸ばして顔を前に向けるが、やはり視線だけは忙しなく動かしてしまう。
先生が故郷について語ってくれたことは、数えるほどしか無い。でもだからこそ、私は話してもらった内容一つ一つをしっかりと記憶していた。
「先生、あれですか? 先生が小さい頃に登って下りられなくなったっていう岩」
「よく覚えているな……そうだよ」
跳んで数か所蹴れば、手を使わなくても登れそうだけど、今の先生の背丈の二倍以上ある岩だ。本当に小さな頃だったと言うから、登ろうと思った点については、小さくても先生は勇敢だったんだなと感心した。小さな頃の私はどうだろう。登ろうとするかもしれないが、途中で落ちるのがオチのように思う。
その岩を軽く観光した後、また村の奥へと入っていく。少し歩くだけで、擦れ違う村人に「おや、おかえり」「オリビア、戻ってたのか」と先生は親しく声を掛けられていた。言葉短く挨拶を返して通り過ぎていくけれど、それでいいのだろうかと首を傾ける。
「いいんですか? ゆっくりお話しして下さっても、私は構いませんが」
「これでも年に数回帰っているんだ。積もるほどの話があるわけじゃないよ」
そういうものなのだろうか。私はまだ屋敷から離れて一か月も経っていないけれど、家族に会ったら一日中話し込んでしまいそうなのに。しかし食い下がるようなことでもなく、首を傾けながら先生に促されるままに更に歩く。村の端の方へと辿り着くと、一人の女性が先生を見つけて嬉しそうに手を振った。私の母よりも少し歳上に見えるご婦人だ。
「オリビア、おかえりなさい、まあこの子ね、あなたの可愛い生徒さんは」
「ミランダさん、こんにちは」
先程までに擦れ違っていた誰に対するそれよりも親しい雰囲気が流れる。先生は私を振り返った。
「ヴィオランテ、この方は私のお隣さんなんだ。もう一人の母のような人だね」
「初めまして、ヴィオランテ・コンティと申します」
「ご丁寧にありがとう、私はミランダよ、宜しくね」
先生の第二のお母様ということは、結婚のご挨拶は彼女にするべきなのだろうか。『お嬢様を私に下さい』という憧れのあの言葉を――と、実行すれば先生にグーと減点を食らったかもしれないそれは、幸いなことに目の端に入った民家のお陰で止まった。私の視線が動くと、先生が眉を下げる。
「お隣さん、と言うことはつまり」
「ふふ。その通り、オリビアの家はあれよ~」
ミランダさんは私の視線の先にある家を、両腕どころか身体まで使った大袈裟な仕草で示して肯定した。よくよく見れば、こちら側にある庭には剣の稽古道具が設置されている。
「うわあ、ものすごく先生のお家っぽいです!」
私の言葉に、ミランダさんが大きな声を上げて楽しそうに笑った。
「うんと小さい頃からお父さんの真似してねえ、自分の身体より大きな棒を振り回して、可愛かったわよ~」
「今思うと本当にうちはうるさかったわよね、ごめんなさい」
先生の言葉遣いが、私の知るものから崩れる。ミランダさんはご家族の内だからだろう。先生は『仕事』をしている時と、そうでない時とで言葉遣いが変わる。私の傍に居る先生はいつだって『先生』だから、崩れるようなことはほとんど無い。
「全然よ。私の家は子供が出来なかったからねえ、元気なあなたの声が可愛くて仕方が無かったわ」
「そう言ってもらえると……嬉しいような恥ずかしいような」
いつもよりずっと先生の表情が豊かで、少し幼い。瞬きも勿体ないような心地で横顔を見ていると、ミランダさんは更に先生の表情を大きく変える活躍を見せてくれた。
「一番可愛らしかったのは、にんじんを食べるとか食べないとかでお父さんと喧嘩して大泣きして、うちまで逃げてきた時よ~」
「ミランダさん! そろそろ私達は家に行くね!」
「えー! 先生の話もっと聞きたいです!」
先生に強引に背中を押されながら移動する。背後からはミランダさんの楽しそうな笑い声がいつまでも届いていた。
「今のはおいくつの頃のお話ですか?」
「あー、三歳だか四歳の話だよ。昔もよくそれで
見上げれば先生の耳が少し赤い。本当に良いものを見た。しかしあまり突くと怒られてしまうかもしれないので、それ以上は掘り下げない。今の表情を脳内に焼き付け、後日スケッチブックに再現しようと心に誓った。
「ほら、早く入るよ」
私が庭の方を見ていると、扉を開いた先生が呼ぶ。閉め出されては敵わないので、慌ててその背に続いた。今日は先生のお家に一泊させて頂く予定だ。隣町はそう遠くないが、此処なら宿代も掛からない上、先生が心休まるだろうとの気遣いを含んだ経路なのだと思う。おばあ様は先生のことをとても愛しているので、そうに違いない。
何だかんだ、教育係として私と四六時中過ごさなければならない先生は、仕事とはいえども大変だろうと、世話になっている身でどうかと思うけれど、思ってしまう。先生の言葉遣いが、私の傍で崩れることが無いというのも、つまりそういうことなのだ。先生は寝ても覚めてもずっと仕事中だ。ただ、あの言葉遣いの切り替わりは無意識に近いものだとおばあ様が言っていた。戦争の最中で、次第にそうして切り替えるようになっていったらしい。先生なりに、心を保つ為の防衛本能だったのかもしれない。だからそれを知っている周りの人達は、先生の言葉が時々切り替わることに触れることが無い。
「……あれ、先生?」
「ああ、すまない、こっちだよ」
リビングでお茶を頂いて休憩した後、私が少し装備の調整をしている隙に先生の姿が見えなくなっていた。呼ぶと、何処からか声がする。こっちとは何処だろう。声の方向へ進んで構わないのかと、恐る恐る移動すると、廊下の奥、一つの部屋が開け放たれていたので覗き込む。中に居た先生と目が合って、入っていいのかお伺いすると先生は憂いなく頷いてくれた。
「此処は父の部屋なんだ。戦前――ああ、私が参加したものではなく、更に前の、父の頃に起こったものだが、その頃の手記に、魔物のことを書いていたものがあった気がしてね、探していたんだよ」
先日、領主様に依頼されていた件だ。先生の言っていた『当て』の内の一つがお父様の記録だったのだろうか。魔物の増加が本当に起こっているとして、それが緩やかな増加であると仮定すると、比較は古い記録とした方が何か分かるのではないかと思ったらしい。
「私が見ても構わないものがあれば、お手伝いします」
「そうだね……じゃあ、この中身を確認してくれ、魔物に関する部分があるかどうかでいい」
「はい」
手渡された本を受け取った拍子に、先生が逆の手で持っていた別の本から一枚の紙切れが落ちる。それは私の足元をすり抜けて後ろ側まで滑ってしまった。私は床に膝を付いて丁寧にそれを拾うと、振り返って先生に渡そうとして、ぎくりと身体を固める。先生が私を、不思議そうに覗き込んだ。
「ヴィオランテ?」
「あ、はい……」
「どうした、何か変なことでも書いてあったか?」
「いいえ」
手にしている紙を先生へと渡す。先生は眉を寄せながらその紙を確認するが、特に何もおかしなものは無い。私が見た限りではページ番号と補足のような言葉が幾つか記載されていただけ。今回、私達が求めている情報とは関わりが無いと思える内容だ。私が動揺したのは、その紙とは全く関係が無かった。私は膝を付いた姿勢から動かないままで、戸惑っている表情を隠すことも出来ずに先生を見上げていた。怪訝に私の顔を見つめる先生が、何かを言おうと唇を動かすのを見て、私は意を決して口を開く。
「先生、私が踏み込むべきことでは無いと思われたら、構わず叱ってください」
「うん?」
私はそう前置きをすると、指先を部屋の奥へと向けた。
「あの、……あそこにある椅子の裏に、何か手紙のようなものが、挟まっているのが見えて」
壁に向かう形で置かれている木製の机と椅子を、私は指差していた。椅子の裏は、私程度の背丈で膝を付いて、更に屈んだ状態で初めて目に入る。また、私の目が異常に良くなければ見付けなかったかもしれない。けれど私は見付けてしまった。触れるべきかどうかは迷った。先生は、知った上で放置しているかもしれない。ならば私が触れるべきじゃない。そしてもし知らないのであれば、誰かが『先生に対して』隠している可能性があるものを暴くべきではないかもしれない。ただ、もう先生はご両親を亡くしている。この家には誰も居ない。先生以外、この家を使う者はもう無い。私には、伝えるべきか伝えないべきかが分からなかった。分からない状態で、教えを乞う相手が、今、先生にしかならなかった。
私の言葉に何も言わず、じっと椅子を見つめている先生の横顔は、その表情は、存在を知らなかったことを物語っていた。少しの沈黙と静止は、もしかしたら私と同じ理由での迷いだったのかもしれない。しかし数秒後、先生は真っ直ぐに椅子へと歩み寄ると、躊躇なくその椅子を横に倒して、裏から手紙らしき封筒を、傷めぬように丁寧に抜き取る。私はどの程度、その様子を見つめていて良いのかも分からなくて、手紙ではなく先生の横顔ばかりを見つめた。その瞳が、はっきりと、感情に揺れていた。
「……父さん?」
一瞬、先生は私の存在を忘れたようにそう呟くと、焦った様子で封筒を開いて中を取り出す。注視せずとも、先生が二枚の紙を手にしているのは分かった。
その時、私は先生が『先生』ではなくなって、教え子である私の前であることを思えば考えられない程の大きな感情を瞳に乗せたのを見た。その中には、喜びや悲しみといった類の感情は少しも見えない。何度も何度も二枚の紙に視線を走らせている先生は、ただただ、信じられないものを見るような、驚愕の色をしていた。
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