第3章_キャンバスの中の世界
第1話_父の言葉
古びた紙切れに書かれていたのは間違いなく、父の字だった。私はそれを見つめ、自分が見ているものが一体何なのかが分からないような表情をしていたことだろうと思う。此処が父の部屋であり、椅子は父が愛用していた物なのだから字がそうであることに疑問を抱いたわけではない。信じられなかったのは、書かれていた内容だ。まるで冷静に並ぶ丁寧な字が、私には恐ろしかった。
「父さんは、……狂っていたんじゃなかったのか?」
言葉に出してしまうまで、ヴィオランテが隣に居ることを失念していた。彼女の気配が戸惑った瞬間に思い出し、はっと顔を上げる。振り向いた先、ヴィオランテは心配そうに私を見上げていた。
「ああ、ええと、すまない、……何というか」
「いいえ。私は、外していた方が良いですか?」
私が浮かべていた笑みは酷く不格好だったのだと思う。だから、彼女の強張った表情を緩めてやる効果になどなるわけがない。教え子に気遣わせてしまう状況が居た堪れない。首を振ったのは一種の強がりであり、情けなくも掴んだ藁だった。己を冷静に保とうとするように、私は彼女に父を語った。
「私の父はね、先程も言ったが、二十年前の戦争に
その戦争は二年ほどで『休戦』となったが、数年後に再開。私が参加していたのはそちらの方だ。父はもうその頃には他界している。父は二十年前の戦争で多くの戦果を残し、英雄視された偉大な兵士だった。しかし不運にも、ある火山帯が戦地となった時、噴火に巻き込まれて深手を負った。父と共に戦っていた者も、敵兵も全員が亡くなり、父だけが生き残った。右腕が落ち、右脚は複雑な骨折をして、どちらも元通りにはならなかった。命があったことこそが奇跡だった。
「仲間の死か、死の恐怖か、剣を振るうことが出来なくなった自分の身体か、……何が原因かは分かりようもないけれど、帰ってきた父は狂ってしまっていた。もうまともに、会話の出来る人ではなくなっていたんだ」
それでも母は献身的に父を介護し、毎日優しく微笑んでいた。父が泣いても、叫んでも、突然今まで大切にしていた教典全てを燃やしてしまっても、母は気丈に、決して取り乱すようなこと無く、父を支えていた。それは父の為でもあり、おそらくはまだ十歳に満たなかった私の為でもあったのだと思う。しかしその甲斐なく、父は休戦の翌年には自害してしまった。母が涙を零したのを見たのは、後にも先にもその夜だけだ。
「だがこの手紙は、あまりに冷静だ。いや……狂った末でのことなのか? 分からない、だけど、私の記憶する父は、こんな手紙を書ける状態じゃなかった」
「戦争前に書かれた内容である、ということは?」
「それも有り得ない。冒頭にはこうある。――『神様なんて居なかった』」
この言葉が、手紙は戦後に書かれたものだと証明している。父が神を否定したのは狂ってしまってからだ。私はこの言葉を、戦争から帰った父から幾度となく聞いた。泣きながら、時には怒るように叫びながら、父は何かに取り憑かれたようにそう繰り返していた。
「そして続く言葉は、まるで見てきたことを書き記すかのように刻明だ」
「あの、先生」
「ん?」
続きを話そうとしたところで、不意にヴィオランテが私を呼ぶ。彼女は私の手元を見て、目を丸めていた。
「封筒に書いてあるもの、潰れていますけど、……日付じゃないですか?」
確かに封筒の端に、滲んで潰れた文字がある。封を開く時には読めなくて後回しにしてしまったが、言われてみれば、日付のように読める。もしも見間違いでないのなら、この日は。
「……ますます信じがたい。父の亡くなる前日だな」
「それなら、これは」
「ああ、素直に考えれば、遺書だろう」
改めて父の書き記した内容を見る。家族への別れの言葉などは一つも無い。しかし父を追い詰めた理由であると考えれば、……そうなのかもしれないと思う。たった二枚しかない最後の手紙にもう一度目を通して、私はゆっくりと息を吐いた。
「父の怪我は噴石によるもので、他の犠牲者も火砕流に飲まれてしまったせいだと聞いていたが、此処にはそうは書かれていない」
噴火は事実だ。火砕流がその火山を覆ったのも事実だ。それは多くの国民が目にしたことなのだから。しかし、父の手紙にはそれがまるでついでのように記載されている。
『――火砕流は皆の死体を飲み込んだ。何もかも、無かったことにするように』
私が読み上げた一文に、ヴィオランテがはっきりと眉を寄せる。
「死体?」
「ああ、そう書かれている」
「噴火よりも前に、その『皆』が亡くなっていた……?」
ヴィオランテの言葉と同じ解釈を私もしている。同意を示すように頷き、続きを読み上げた。
『あれは人の形をしていた。だが人などではない。あれはきっと神だ。神と呼ばれてきた何かだ。祈る為のものではない。対すれば必ず死が訪れる、人にはどうすることも出来ない圧倒的な存在。指先を動かすだけで人を殺せるのだ。敵も味方も無く、そこに居た人の命はまるで小さな雑草のように、摘み取られた』
一枚目の内容はそこまでだった。何度読んでも、口に出して読み上げても、整理が出来ない。だがもしも父が書き記しているこれが真実だとするならば、その火山帯には父と、仲間の兵士と、敵兵と、それ以外の『何か』が居た。
「ええと……神、という
「私もそのようにしか読み取れない。少なくともこれを書いていた父は、そう考えていたんだろう」
この手紙だけを見れば、そう取れる。だが私の中には父の記憶がある。穏やかで優しく、
「――先生」
ヴィオランテの呼び掛けにはっとして、顔を上げる。彼女は尚も心配そうに私を見つめていた。
「ああ、すまない。……変なことを聞かせてしまったな。少し気持ちが落ち着いたよ。もう大丈夫だ」
笑みを返して、父からの最後の手紙を丁寧に封筒へ戻した。手紙と言っても、私や母に宛てようとしたのかも分からない、ただの手記であったかもしれないが、何にせよ私にとっては父が遺した数少ないものになる。名残惜しいし、疑問も残るが、私は今、ヴィオランテの旅に付き添っている、いわば仕事中だ。持ち歩いて傷めてしまいたくもない。父の愛用していた机の引き出しへ、丁寧にそれを仕舞い込んだ。
「いえ、先生、行ってみませんか」
「は?」
「その火山帯です」
数秒黙ってしまった。しばらく彼女が何を言ったのか分からなかったが、理解して、大きく溜息を吐く。ヴィオランテは私を気遣ってくれているのだろうが、これは少し寄り道をして菓子を買うような話ではない。その選択は、彼女の旅を台無しにしてしまう。
「馬鹿を言うんじゃない、お前の旅には全くの無関係だ。ルートも大きく外れることになる」
「ルートをなぞること自体が目的ではありません。学ぶという意味では、戦争の歴史は私も知るべきです。大きな犠牲があった戦場を訪れることは無関係じゃありません」
「お前は時々ひどく弁が立つな……誰に似たんだ」
苦笑してそう言うが、私の脳裏にはアデル様の顔が過っていた。彼女に比べればヴィオランテの言葉は
「何にせよ、行くことは出来ないよ。火山帯は、その噴火以降は、立入禁止となっている。国がそう定めているものだ、国王陛下の許可が無い限りは立ち入ることは出来ない」
「ではその許可を貰いに、登城しましょう」
「あのなぁ、ヴィオランテ……」
引く気配が一切感じられない。『国王陛下』という障害を立てられれば普通は引くところだろうに、むしろ彼女の目には一層の意欲が浮かんでいた。
「面白くなってきましたね、色んなものが試されている気がします。この難題、おばあ様の方が、先生より賛同しそうだと思いませんか?」
問題はそこだった。「アデル様がお許しにならないよ」と言えたなら、国王陛下を出すよりもヴィオランテに対しては効果的に思えるのだが、どう考えてもアデル様はこの話に乗りそうだ。そういう人なのだ。二つ返事で許可をしそうな気がしてならない。となると、もう私にはヴィオランテを止める手段が思い浮かばなかった。もしも私がこの件に対して「もう触れたくない」と心から思っていて、それを伝えたとすれば、いくらヴィオランテでも聞き入れるのだろうし、アデル様だって引いて下さるに違いない。けれど、言えるわけがなかった。この子の旅の途中でなければ、私はきっと彼女以上の無謀で、火山帯に向かったのだろうから。
「分かったよ。アデル様には、一緒に怒られることにしよう」
出発は予定通り、明日の朝に。ただしルートは大きく変更し、目的地をこの国の城に。私は今夜の内にでも、アデル様へ謝罪の手紙を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます