第2話_恩人の孫娘
晴れが続いている。遠い空の何処を見つめても雲は少なく、しばらくは晴れのままでこの旅が続くのだろうと予想していた。旅始めとしては幸いなことだ。外の世界を歩く、ただそれだけでも慣れない内は疲れが出やすい。そんな中で、障害は少ないに越したことは無いと思えた。
その恩恵を受け、私は休憩中にのんびりと武器の手入れをしていた。雨の中では絶対に出来ないことだ。見上げていた空から手元へと視線を戻し、刃の状態を確認する。刃こぼれなどの傷みは無い。次は柄の確認。刃は当然だが、柄にも異常があれば戦闘時に命取りになることもある。『万が一』を更に低い確率とする為、私は武器や防具の手入れは毎日行っていた。一日の中で何時に行うと決めているものではなく、出来る時に行う。夜、就寝前に行うことが最も多い。
――つまり、だ。
今でなくとも、良かった。休憩なのだから、ぼんやりと休むでも良かったし、地図を確認しても良かった。しかし私は今、集中することが出来る『何か』によって、少し気を紛らわせたかったのだ。己の左側から絶えず聞こえてくる鉛筆の音を、意識の外へと出す為に。
しかし、それはすぐに私の意識へと舞い戻り、あまり効果は得られなかった。剣を鞘に収めると、その抵抗をもうすっかり諦めて、長く溜息を零す。
「何も、私じゃなくても良かっただろう。ヴィオランテ」
「え?」
意を決して振り返れば、丁度私の方を見ていたらしいヴィオランテと目が合った。大きな目が更に大きく形を変えて、少し離れて座っている自分の像が、その瞳に映っているのを確認できるような心地さえする。けれど私はそれを長く見つめることはなく、彼女の手元へと視線を落とした。
「……折角、外に居るんだぞ」
開かれたスケッチブックには、想像していた通り、私と思しきものが描かれている。想像はしていたけれど、休憩と言って座ってから十数分しか経っていないのに、もうそんなに描いたのかという新しい驚きが与えられた。当然これは褒めていない。
「私とは、屋敷の中でも毎日顔を合わせていたんだ。外でしか見られないものでも描きなさい」
「そう言われても、今、目に入るモノの中で一番綺麗なのが先生ですし」
ヴィオランテが手を止める気配は無い。その口から淡々と零れる言葉が、私を何とも居た堪れない気持ちにさせる。
「大体、休憩になっているのか? あと十分で出発するよ」
「休憩は、出来てます、けど、……十分で描けるかな」
彼女の懸念はそちららしい。休憩時間は最初に告げていたのだから、難しいと思うのならまず描き始めなければいいものを。そう思うけれどヴィオランテには描くことを止める選択肢が無いらしく、更に勢いを増して鉛筆を紙の上に滑らせている。はっきりと言葉にして疑問をぶつけてみても、状況は何一つ変わらなかった。改めて、溜息を一つ。
横から聞こえる鉛筆の音、ヴィオランテの視線。それに応えようが応えまいが何も変わらないのならと、諦めて再び空を仰ぐ。――三年前、出会った頃からヴィオランテのこういうところは少しも変わらない。あの日の空は、どんな色をしていただろうか。こんな風に空は青かったのかもしれないが、……正直、よく、覚えていない。
ヴィオランテの祖母にあたるアデル様は、私の恩人だった。娘も孫もお持ちなのは出会った頃から知っていたけれど、アデル様のご家族と顔を合わせる日が来るとは思っていなかった。恩人からの呼び出し。孫娘の教育係という依頼。
「……私には務まりません」
「私はそうは思わないわ、オリビア」
何度こんな会話を繰り返したか分からない。アデル様からの願いであれば全て叶えたいと思っていたけれど、私のような者が恩人のご家族と関わることこそが恐ろしかった。恐ろしくて、頷くことが出来なかった。しかしアデル様は私が承知するまで、決して、諦めてはくれなかった。
「あなたにしか頼めないの、どうかお願い」
アデル様は、無二の恩人だったのだ。眉を下げて、悲しげに言われてしまうと、断りようが無かった。
四年もの間、孫娘を外に出すというのは心配でならないのだろう。同性で、最も腕の立つ付き添いを付けようとすれば、……確かに、私は打って付けだったのだと思う。ただ、それだけでは飲み込めないリスクも、私という人間は抱えている。それでも、アデル様は私を信じて下さると言った。期待に応えぬわけにはいかないと思った。
「――私はオリビア・フォンターナ。本日から君の教育係となる。……よろしく」
だが応えると決めた上でも、訪れた屋敷、アデル様の孫娘と対面した私は幾らか戸惑っていた。まだ迷いが残っていたとも言える。本当に良かったのだろうか。私ではなく、誰か相応しい人間をもう一度探すべきではないのか。ヴィオランテを前にしても、そんな考えが頭を巡っていた。
当時、十三歳のヴィオランテ。二十センチほど下にある目を見つめれば、その目はじっと私を、いや、私の瞳を食い入るように見つめ返す。そして。
「綺麗」
「は?」
私の挨拶は何一つも聞こえていないと知らせるルビー色の瞳は、天井の明かりをきらきらと反射していた。けれど私には、その光がまるで彼女から生み出されているように見えた。
「こんな綺麗な色の瞳、見たことないよ! 冬の透き通った夜空みたい! 絵の具でこの色出せるかなぁ!」
「絵の具?」
「ちょっと試してくる!」
直後、ヴィオランテは部屋から飛び出して行った。開かれたまま閉じられる気配も無い扉を見つめ、呆然と立つ私には、この場をどうすべきなのかも分からない。ヴィオランテのご両親は頭を抱えて溜息を吐いているし、アデル様に至っては引っくり返るようにして大きな声で笑っていた。
先が思いやられると不安な思いでいっぱいだった私の前へ、五分後、彼女は連れ戻される。一体どのような言葉で叱られたのか知らないが、そのヴィオランテは先程とは打って変わって小さくなり、しおらしくなっていた。
「どうか、ご無礼をお許し下さい……」
「ああ、いや」
返す言葉にすら困る程の変わりよう。目を瞬く私を見て、アデル様がまた肩を震わせて笑ったのが分かる。
「私はヴィオランテと申します。親しい者はヴィオラと呼びますので、お好きにお呼び下さい、これから宜しくお願い致します、オリビア先生」
私も段々可笑しくなってしまって、つい、笑みが零れた。何せ、同じ部屋の中でずっとアデル様が呼吸を乱して笑い続けているのだ。いくら緊張しているとはいえども、つられないのは難しい。
しかし、しおらしくなったヴィオランテから最初の衝動は消え去ったわけではなかったようだ。後日、不意に訪れたヴィオランテの部屋の一角、いつも彼女が絵を描いているというその場所に、夜空の油絵が溢れ返っていた。そしてそれは、訪れる度に増えていく。ヴィオランテは数ヶ月もの間、まるで発作のように夜空ばかりを描いた。私にはそれが、気恥ずかしくてならなかった。
閉じていた目蓋を開いて広がったのは、夜空ではなくて眩しいくらいの青空。ヴィオランテが夜空ばかりを描く日々が途切れても、彼女は時折また思い出したように夜空を描く。私そのものを描いていることすらある。スケッチなら毎日のようにされていたように思う。それでも、まさか屋敷を出ても続くとは思わない。この居心地の悪さは、ともすればこの旅が終わるまで、続くのだろう。鬱々と溜息を吐くが、鉛筆の音は今も絶えず聞こえてくる。盗み見ればもう誰が見ても私だと分かるような形で完成に近付いていた。胸元から時計を取り出して、あと四分。これなら完成させてしまいそうだ――と思ったのも束の間、私は時計を胸元へと戻し、素早く立ち上がった。
「ヴィオランテ」
私が声を掛ける時にはヴィオランテも、手にしていたスケッチブックを鞄の上に置いて腰の剣へと手を掛けている。私が立ち上がったことで、周囲へと目を向けたらしい。少し遅れて立ち上がり、同時に剣を抜く。魔物の群れが、じわじわと距離を詰めて来ていた。
「数が多い。囲まれないよう、無理に踏み込むな。身の安全が優先だ」
「はい」
そう言った口で、私は彼女へ出した指示とは逆に魔物へと距離を詰め、一息で幾つかを斬り伏せる。私を囲ませれば、ヴィオランテ側が減るからだ。彼女は未だ満足に戦えていない。彼女が自分の視界から出ないよう、丁寧に魔物を減らしていく。ヴィオランテへと飛び掛かる魔物もいたが、回避しながら攻撃をいなす程度のことは難なく出来るようだ。身体能力には何の問題も無いのだから、そういうものかもしれない。
ほとんどが私の方へと引き付けられている中、一体だけが執拗にヴィオランテを狙い、攻撃を仕掛けている。ヴィオランテはそれを受け止め、回避しながら少しずつ後退していた。反応は遅れていない。そんなに速い魔物でもない。任せても大丈夫だろう。そう判断し、私は助けに入ることなく自分側の魔物に集中した。
「ああ、もう!」
ヴィオランテが不意に、苛立った様子で叫ぶ。ついでに魔物を強くはじき返して、距離を取っていた。本人は真剣なので申し訳ないけれど、そんな様子は少し面白かった。
「先生、今、笑いませんでした!?」
「ああ、分かったか、悪い。珍しい反応だと思ってね。こっちは終わったよ」
再度周りを確認する。もう動く反応は無い。新手も無い。間違いなくヴィオランテが相手をしている一体だけだ。剣を十字に振って、のんびりとヴィオランテの方へと近寄った。
「攻撃のタイミングが読めなくて、イライラします!」
「あはは」
ヴィオランテは目が良いし、動体視力も良い。だから攻撃が読めなくても、相手が動き出してから反応して対応できている。この程度の魔物であれば今のままでも大事は無いだろう。私は自分の剣を鞘へと収めた。
初日に私が指摘した通り、ヴィオランテは自分で隙を作って相手を誘い込むところまでは出来ている。だが、飛び込んでくるタイミングが分からないらしい。そのせいで、上手く攻撃へと転じられていない。さて、どのように指導して改善すべきかと、後方で腕を組んで戦いを眺める。取り急ぎ、今この戦いだけを言えば、対応策はあるのだけれど。
「ヴィオランテ、前か後ろに動けばタイミングは合わせられるよ」
「あっ、なる、ほ、ど!」
言った瞬間、飛び込んだ魔物を見つめながら、ヴィオランテは一歩半ほど後ろに跳んで自分のタイミングでようやく魔物を両の短剣で斬り伏せた。言って直ぐ対応できるだけ彼女は優秀なのだろうが、中々戦いには馴染めていない。
「ご苦労様。しかし、今のは自分でも思い付けただろう。減点だな、ヴィオランテ」
「うう、すみません……。ご指示、ありがとうございました」
大袈裟に項垂れて、ヴィオランテは腰へ剣を収めた。その時、彼女が何度か目を不自然に瞬く。
「ヴィオランテ」
「は」
無防備だった腕を引き寄せ、顎を掬い上げる。身長差による距離は出会った頃よりも約五センチ縮まっていて、彼女の大きな目はよく見えるようになった。
「目が痛いのか?」
「え、あ、いえ、あの、瞬きをあまりしていなかったので、ちょっと乾いたと言うか」
「ああ」
そういえば、直前まで絵も描いていたことを思い出す。ヴィオランテは絵に向かっている際、集中すると瞬きの回数が減る。屋敷でも時々、目が乾いたと言って痛そうにしていた。
「異物が入った様子が無いならいい」
「はい、それは無いです、が」
「ん?」
彼女が瞬きを繰り返すほど、目は正常さを取り戻しているように見える。目については本当に問題が無いのだと安堵したが、彼女の表情は何とも形容しがたい色をしていて、目以外の不調でもあるのかとじっくり見つめ返した。
「ええと、急に触られるのは流石に心臓に悪いというか、いえ、嬉しいんですけど、ええと、……ありがとうございます?」
「何を言ってるんだお前は……」
心配したことを半ば後悔しながら解放すれば、ヴィオランテは何処か残念そうに顎を撫でていた。どうすれば良かったんだよ。複雑だなお前は。
いや、待てよ、もしかして。ヴィオランテに背を向けようとしていた足を止め、私は再びヴィオランテを振り返った。視線を受けた彼女も、顔を上げてこちらを見る。視線が絡んでから。『なるほど』と思った。
「剣を抜きなさい、ヴィオランテ」
「へ?」
鞘から剣を引き抜き、真っ直ぐにヴィオランテへと向ける。ヴィオランテは展開に付いて来られずに「え?」と何度も繰り返して戸惑いながらも、先程収めたばかりのそれらを二本同時に引き抜いた。私が剣を振るえば、動揺しながらもヴィオランテがそれを受け止める。突然始まった稽古に、彼女は頻りに瞬きを繰り返していた。
そして斬り結ぶ甲高い音が何度と数えられなくなった頃、戸惑っていたヴィオランテもようやく体勢を整え、真剣に私の隙を探し始める。向けられた強い視線に、また私は『なるほど』と思って、――そして、剣を下ろした。
「ちょぉ!?」
ヴィオランテ今まさに斬りかかろうと仕掛けたタイミングだった。突然始まった稽古が突然終わり、私に届く数センチ手前でヴィオランテが必死に剣を止めた。
「あ、危ないじゃないですか!」
「あはは、信じていたよ、ヴィオランテ」
けらけらと笑う私に対し、滝のような汗を流しているヴィオランテ。彼女が大きく息を吐いて落ち着いたのを合図に、私達はそれぞれ剣を納めた。
「うん、やっぱりだ、お前は、……魔物の『目』を探しているね」
「め?」
「そう、目だよ」
自分の目尻を指先でとんとんと突いて示す。彼女は人間と戦う時いつも、相手の目を睨み付けるようにして見つめている。人にとって目はあまりに重要で、そして雄弁なものだ。視線の運び一つで、次の行動を読むことが出来る。逆に視線一つで、相手を誘い込むことも出来る。しかし、魔物はそれと同じではない。
「魔物には、明確な目を持たないものもある。視覚に頼らない、全く違う感覚器でこちらを見ている場合も多い。だからお前は混乱しているんじゃないか?」
「そ、それです! そうです、目が無くて、そっか、だからタイミングが分からないんですね」
原因としてはそれで正しいようだ。しかし、それならば自分は一体何を使って魔物を捉えているだろうか。それは自分にとってあまりに感覚的なもので、具体的に、ヴィオランテへと与えてやれる答えが今無かった。
「だからと言って、すぐに明確な解決策が出てこないな、すまない」
「いえ、原因がはっきりして少しほっとしています。次の戦いは意識します」
「ああ、私も考えてみよう」
次に魔物と戦う時、自分も意識をしながら戦う必要がありそうだ。そう思いながら、改めて私はヴィオランテへ背を向け、荷物を置いていた場所に戻る。後ろから少し早足で野原を踏むブーツの音が聞こえ、ヴィオランテが駆けて来るのが分かった。
「あの先生、ちなみに、なんですけど」
「ん?」
声がまだ少しだけ遠い。数歩分、後ろに居るのだろう。話を聞くべく、私は少し歩く速度を落として肩口に振り返った。視界の端に、彼女の金色の髪が揺れている。
「先生に限っては剣を合わせる際に目を見ているのは見蕩れている部分もあってですね」
「……その話はもういいよ」
「えっ」
緩めた歩調を再び早め、ヴィオランテと距離を取るようにして歩く。ヴィオランテの足音も忙しないものに変わるが、どうやら一瞬戸惑ったせいか、先程よりも離れたらしい。「ちょっと」と言った彼女の声は少しだけ遠くなっていた。
「さあ休憩は終わりだ、随分と時間が過ぎてしまった。先を進むよ」
「いえ、魔物と戦ってから先生と戦って、その後の休憩は無かったように思いますが、あっ、置いて行かないで下さい!」
私は速度を落とさないままで荷物を拾い上げ、予定通りの道へと足を進める。ヴィオランテはスケッチブックがまだ開いたままだったし、鉛筆も何処かに転がっているのだろうから直ぐには追い付かないだろう。彼女が私の隣に追い付くまでに、どうか熱い首筋が温度を落としてくれていますように。こんな願いは聞き入れられないかもしれないが、私は軽く息を吐きながら、胸元で十字を切った。
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