第5話_命の無い領域

 噴火後、二十年余り封鎖されたままであったその場所は、命の気配が無かった。精々足元に、手の平サイズの雑草がちらほら生えている程度だ。乾いた土の感触を確認するように、私は爪先で土を数回突く。細かな砂が、それに応じて微かに舞い上がった。

「少し暑いですね」

「ああ。噴火の兆候は無いと聞いていたが、火山の活動が全く無いと言うわけではないんだな」

 私達がそう零すと、先行して周囲を確認してくれていたジオヴァナ姫の従者が、各所で水蒸気と火山ガスが発生していると報告をした。しかし今確認している限り範囲はごく一部と思われ、避けて進むことは可能とのことだ。

「専門家がこれ以上は無理だって判断したら引き返すけど、構わない?」

「うん、それでいいよ。ありがとう」

 ジオヴァナ姫が私達を振り返りながらそう言うのを、ヴィオランテが頷く。私も黙って頷いた。私達だけで入り込んでしまえば、その辺りの判断は遅れてしまったかもしれないし、誤ってしまった可能性もある。専門家を連れてきているジオヴァナ姫とカルロ王子に同行して頂けたことは私達にはやはり都合が良かったかもしれない。

「先生のお父様が、その、事故に遭われた位置は分かっていないんですか?」

 大きな石のごろごろ転がっている足場を慎重に進みながら、ヴィオランテが静かに問い掛ける。普段とは全く違う道に苦戦している様子はあれど、手を貸す必要は無さそうだ。一瞬気にして隣を窺ったが、私はすぐにそう思い直して前を向いた。

「詳しいことは何も。だが、火砕流に飲まれたと言っていたこと、そして当時、遺体の回収に入った者からの情報を考えれば――この辺りかな」

 ヴォールカ火山帯の古い地図をヴィオランテに見せ、『この辺り』と言った場所を指差した。火砕流は全方向に満遍なく流れたわけではない。つまり火砕流が流れたと記録されている場所、そして遺体を回収した場所を照らし合わせれば、その付近、またはそれよりもやや山頂側と思われる。

「……先生、これって」

 私の示した場所を見つめながら、ヴィオランテが酷く深刻な顔をして眉を顰める。そして思わず地図に見入ったまま足を踏み出してしまい、バランスを崩して転びそうになっていた。彼女が体勢を整えたのを見守ってから、私は同意するように頷く。そう、その場所はカムエルトとシンディ=ウェルの二国が調査したいとして示した場所とほぼ一致するのだ。二国が示しているということは、彼らの持つ文献には場所に関する記述もあったのだろう。

「いよいよ、何があってもおかしくない。決して気を抜くなよ、ヴィオランテ」

「はい」

 何に対する警戒であるのかが分からない以上、心の持ちようとしては難しいものだが、あらゆる違和感を逃さないようにしなければならない。私は見通しのいい場所であることを考えれば異常なほどに神経を尖らせ、周囲に目を配った。

「この場所、魔物が居ないんだな」

 カルロ王子が不意にそう呟いた。共に歩く者もそれぞれ顔を見合わせて頷き合う。まずそれが最初からの違和感だった。此処は獣の姿も無く、草木もほぼ無い。そして、魔物の気配も無かった。麓に至るまでは幾つか魔物と遭遇していたが、火山帯に踏み入ってからは一切その影を見ていない。王子は私とヴィオランテを振り返った。

「フォードガンドは何処に行っても魔物が多いものなんだと思っていたけど、違うのか?」

 だがそれに端的に答えられそうになかった。ヴィオランテは言葉を選びながら、首を捻っている。

「多い場所もあれば、少ない場所もあるよ。ただ、こんなに全く居ないっていうのは、私は一度しか経験してない。その時は、異常に集まってる場所が

 ヴィオランテの言葉に、一瞬、場の緊張感が高まる。一例でしかないにせよ、無視できる可能性ではない。

「……同じケースだとしたら、この火山帯にもそんな場所があるかもしれないってことだな」

「見通しが良いことだけが幸いね。――皆、今は姿が無くとも、魔物の警戒は怠らないで」

 ジオヴァナ姫は自身の従者を振り返ってそう声を張る。武器を携えた者が背筋を伸ばし返事するのを見つめながら、私も一度剣の柄に振れた。それにしても妙な気配だ。そう思っていた。確かに魔物の気配が途絶えていることは、ヴィオランテが例として挙げた一件を彷彿とさせる。あの時も、山道に踏み入る寸前は魔物の姿が全く無かった。だが私個人の感想としてはあの時とは違うように思える。あの時は向かう先、山道からは明らかに気配が漏れ出ていた。あの場所に踏み入れば魔物が出てくるのだろうな、と予感させるような明確な気配だ。しかし今はそれすら無い。この火山帯には私達以外の気配がまるで無いのだ。

 あの時と違って、周りに人が多いから、感覚が鈍るのだろうか。そう思いながら何度も外側へ向けて気配を辿ってみるが、何にも行き当たらない。何処までも続くと思えるような『無』、感じるのはそれだけだ。

 道すがら、姫と王子の従者らは辺りを探査しつつ、地質についてあれこれと難しい議論を交わしている。しかしこの地に何か特別さを見出したという声は聞こえてこない。どれだけ調査してみても、この世界にある他の火山と大きな違いを見付けた様子は無かった。

 頂上に向かって進むにつれ、次第に気温が下がっていく。いつの間にか、辺りには蒸気や火山ガスと思しきものも見えなくなった。私達の行く手を阻むものは無く、引き返すかどうかを悩む要素も一つも無い。

「一度休憩しましょう、私とカルロの従者が、例の調査地点の様子を先に見て来てくれるから」

 ジオヴァナ姫の提案に従い、二国が調査したいと言っていた地点に至る前に休息を取る。私の父が、もしかしたら噴火に見舞われたかもしれない位置。父の言葉では、『神』と思しき『何か』が居た場所。

「ヴィオランテ、体調に問題は無いか?」

 標高が上がることで不調になる可能性もあると思い、彼女を振り返る。私が視線を向けると同時に目が合ったので、彼女はどうやら声を掛けるより前から、私を見上げていたようだ。

「私は問題ありません。先生は、大丈夫ですか?」

「はは、私の心配をしてくれていたのか、ああ、問題ないよ。ありがとう」

 私を見上げていた理由をそれだと認識して笑ったが、ヴィオランテには笑みは浮かばなかった。彼女は視線を私に向けたまま、何か言いたげにしている。それでも口を開かないのは、彼女は言葉に悩んでいるのかもしれない。私はヴィオランテが自分で答えを出すのを待ち、そのまま沈黙する。

「先生」

「何だ?」

 ようやく口を開いても、ヴィオランテはまだ躊躇いを残す。彼女の変化を見落とさぬよう、私は注意深くその表情を見つめ続けた。ルビー色の瞳がゆらゆらと微かに揺れた。

「少し前から、辺りに、何と言うか、臭いが何もありません」

「……何もない?」

 おかしな表現に首を傾ける。言われてから私も改めて嗅覚の方に意識を向けてみるが、ヴィオランテが抱くほどの違和感は私には分からない。確かに臭いらしい臭いは何も無いが、彼女ほど優れた嗅覚でも「何も感じない」と言うのは、おそらくはかなり異常なことなのだろう。少なくともヴィオランテはその違和感に幾らかの不安、いっそ恐怖すら抱いているように見えた。

「もちろん、私達や同行者のものはあります、けど、それ以外の臭いが何も無くて。ついさっきまで、土の臭いと、火山ガスの微かな臭いがずっと漂っていたはずなんです。でも今は、屈んでみても、ここの土、臭いがほとんど無いんです」

 私もすぐにその場に膝を落とし、手で乾いた土の一部を掬い上げた。言われてみれば、臭いらしい臭いが無い。私の目の前で、改めてヴィオランテも屈んで同じようにそれを確認し、また、不安そうに眉を寄せた。

「まるで全く違う空間に閉じ込められたみたいな、不思議な感覚です」

 未だ、周囲には特別何の異変も無い。専門家らも、他の火山帯と比べ、違いは特に無いと言い続けている。しかし彼女の優れた五感だけは言い知れぬ異様さを感知していた。

「それと、臭いが無くなると同時に感じた付近の空気というか、雰囲気が」

 再び、ヴィオランテは言葉を詰まらせる。先程の『臭いが無い』という話は、伝えるかどうかを迷うものとは思えなかった。つまり彼女が先程から言葉を選んでいるのは、おそらくこれから告げようとしている内容のせいだろう。私は手に付いた土を払い、改めてヴィオランテに向き直る。一度、ヴィオランテは私から視線を逸らして地面の上へと滑らせた。

「……先生が時折発せられるものに、よく似ているような、気が」

「何だって?」

 逸らされていた視線が戻り、私の目をじっと見つめる。その瞳の色は、答えを求めるようであり、同時に、彼女の言うその『雰囲気』を私の中から探るようでもあった。

「時々です。剣を振るってらっしゃる時の、ふとした――」

 その時、山頂方向から悲鳴が上がった。待機していた全員が武器を取って立ち上がる。声の聞こえた方には何も見えない。ヴィオランテが私の傍ではっと息を呑む気配がした。

「血の臭いがする!」

 彼女の叫びに応じて、全員に緊張が走る。先程まで「臭いが無い」と言っていた彼女だ。突然入り込んだ唯一の「臭い」に、普段以上に怯えているように思う。しかし警戒を強めて周囲を見回すも、再び頂上方向へ視線を向けるも、異変が見えない。悲鳴は先行して進んでいた隊の誰かの声だったのだと思うが、岩場の陰になっているのか、誰の姿も此処からは見えなかった。そして、誰も下りて来る様子が無い。先行隊は十名が居たはずだ。何かあったのなら、一人くらいは報告に走ってきてもおかしくない。しかし下りて来るどころか、悲鳴の後は何の音も聞こえないままだ。

「俺は行くぞ、部下を放っておけない」

 最初に動いたのはカルロ王子だった。彼は慎重に武器を構えたままで、ゆっくりと山頂へ歩を進めようとしている。慌てて、彼の従者もそれに続いた。

「王子。……私に先行させてもらっても構わないかな」

 私はそう言って前に出た。姫と王子に付き添う従者らも相当の腕であろうとは思うが、それでもこの中で最も腕が立つのは私だろう。何があったかは分からないにしても、他国の重要人物を盾にして進む気にはならない。何があるか分からないほど、先を進むのは私であるのが安全であると思えた。王子は少し迷う様子を見せていたが、従者らに説得され、私に道を譲ってくれた。

「先生」

「ヴィオランテは王子の傍に居ろ」

 私が先頭に立って進むに応じて、カルロ王子とその従者、ヴィオランテ、そしてジオヴァナ姫とその従者も続くのを背後に感じる。私は如何なる危険や攻撃にも対応できるよう、剣を抜いた状態で進んだ。先行隊が残したであろう足跡を辿ること数分。それが途絶えたのは、大きな岩の陰だった。まだ何も見えない。音も無ければ、誰の気配も無い。

 岩の陰で一度足を止めてから、一息でその影から飛び出した。剣を前に構えるも、私を攻撃してくるようなものは何も無く、そこにはただ、先を行った十名の身体が散らばっていた。私に続いて岩場の陰から出た者が次々と息を呑み、また、悲鳴を上げる。しかし私はまだ剣を下ろさない。――は何だ?

 散らばる遺体の奥に、不自然な白い何かがある。一瞬、山の中腹でも見たような水蒸気やガスだと思った。しかし、それは空に昇ることなく留まっている。微かに動きがあり、咄嗟に剣を握り直す。動作を伴えばはっきりと分かる。あれはまるで私達のような形をしている。女性のように見える形をした『何か』が、此方を振り返った。顔があり、表情がある。輪郭は真っ白のガスであるように朧気ではあるが、やけに、表情は生々しく実体があった。

「ああ、ずっと、待っていた」

 は私達にそう語り掛ける。間違いなく、人の言葉を話している。間違いなく、唇が動いて音を出している。あれは何だ。人ではない。同じ生き物ではないことだけは分かるが、魔物であるようにも見えない。人型をし、人の言葉を話す魔物など、見たことも聞いたことも無かった。信じ難い存在を目の前に、誰もが口を開けず、動けずに居た。それが放った言葉はまだ上手く飲み込めていなかった。少し遅れてから、それが間違いなく、のだと気付く。

 口元が形を変える。私に向かって、得体の知れない『何か』がにたりと笑みを浮かべた。

「――よく戻ったな。よ」

 全身が総毛立ち、訳も分からず私の全身が恐怖した。


* * *


 この世界は、一体、誰のものか。

 社会を形成し、他の生き物よりずっと大きな力を付け、営みを数千年もの間、続けている『人間』のものだろうか。もしくは平等に、誰のものでもなくただそこに在るのだろうか。おそらくは様々な意見が存在し、人を含む多くの種、そして立場によってその答えは幾らも異なるものだろう。答えなど無いと思う者もあるのだろう。

 しかしこれには明確な答えがある。

 世界は、全て、――のものだ。私がこの大地を形成し、そして生命を許したのだから、私にはこの世界を思うままにする権利があり、そしてその力がある。

 故に、拒むことは許さない。

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