第4話_海辺の街

 香りが変わるにつれ、私の気持ちが高揚していく。たった一人で気ままに旅をしていたならば、もう駆け出してしまっていたことだろう。吹き込む風を身体一杯に吸い込んでいると、数歩後ろで先生が少し笑った。

「え、何ですか」

「いや。割とばれているよ、ヴィオランテ。歩調も少し早いな」

「あ……すみません」

 咎める言い方だったけれど、先生は肩を震わせて笑っている。『減点』と、いつもの決まり文句も言われない。いや、これが決まり文句になってしまっているのは、つまるところ私が優秀ではないせいなのだけど。

「はぁ! 見、見え……!!」

「……もういいよ、好きなだけ走ってよく見えるところに行きなさい」

「いやったーー!! 海だぁ~!!」

「どうせ、お前の体力はその程度では尽きないさ」

 背中に小さく掛かった先生の声は、良く聞こえなかった。

 走るどころか無意味に飛び跳ねるような動きも繰り返しながら、先行して海が見渡せる場所――丘の天辺に到着する。じっとしていても全貌が見えるのに、私は上下に弾んでいた。海だ。海が見える。潮の香りがする。私達は山菜が名物である街を発ち、先生が先日言っていた海沿いの街へと移動する道中だった。

 海は、私の住む街からは全く見えない。近隣の町からも見えない。結構な距離を移動しなければ香りの一つも味わえない場所に生まれ育った私は、海というものに馴染みが無く、憧れが強いのだ。見るのが初めてではないのだけど、滅多にお目に掛かれないだけに、嬉しくて堪らなかった。

「カルロは、こんな景色、見飽きちゃってるのかなぁ」

「そうかもしれないな、彼の住む『シンディ=ウェル』は、『海の国』とも呼ばれているからね」

 ふと呟くと、遅れて到着した先生が応える。カルロは私の幼馴染――とは言え国が違って滅多に会えない彼をそう呼ぶのが相応しいのかは分からないが、幼い頃から互いをよく知っている友人の一人だ。彼の国、『シンディ=ウェル』を訪ねた時、私は生まれて初めて海を見た。今日以上の興奮をしたと思うけれど、小さな頃だったのであまり詳細が記憶に無い。ただ、カルロが私の反応をすごく楽しそうに見ていたのは薄っすらと覚えている。

「信じられないなぁ、私はいつまででも眺めていられそうです。綺麗……」

「海は好きか?」

「はい!」

 元気よく答えて振り返った私に、先生は目を細めた。海に乱反射している光の影響か、複雑な表情を見せたような気がして目を凝らしたのに、先生が顔を背けてしまったから、その正体は分からなかった。

「この先には休憩場所があるよ、二、三時間なら休憩してもいい」

 しかも続けられた言葉に大喜びしたせいで違和感を忘れてしまった。折角こうして外の世界を見ているのだから、見たい景色があるなら長く滞在しても構わないと言ってくれる先生。優し過ぎて涙が出そうだ。本当は私のこと先生も好きじゃないですか? 思わせぶりでは? と思ったけれど言ったら今の提案を取り下げられそうだったので全力で飲み込んで、大きな声でお礼を言った。

 先生の言っていた通り、丘を下りて少し進めば海沿いに休憩場所と思しき小屋が幾つも建ち並んでいる。海水浴が出来るような時期になれば、旅行客が押し寄せてくるのかもしれない。それくらい、海岸は綺麗に整えられていた。ただ今はまだまだ気温が高くない。休憩場所はどれも閑散としていて、一部は閉じられていた。開いている一軒を訪ね、店主に許可を取った上でイーゼルにキャンバスを立てる。中は多くのテーブルが設置されていて、混み合ってこれらが埋まっていれば断られてしまったかもしれないが、今は私達以外に客が居なかったので幸いした。大きな窓の傍に陣取って、海を眺める。気持ちよく描けそうだ。一つ息を吐き、準備を始めたところで、私はふと顔を上げる。先生は、海が見えない場所に腰掛けて剣の手入れを始めていた。

「……先生は、海がお嫌いですか?」

 それ以外、こんな休憩場所に入って海を見ない理由が私には思い付かない。そもそも連れなのだから傍に座ってくれたらいいのに、先生はその場所に座る為に、一つのテーブルを挟んで距離を取っていた。私の問いに顔を上げ、首を傾けているが、視線は私を捉えることなく、海を見ようとすることも無かった。

「いいや。綺麗だと思うよ」

 答えは否定で、口元には柔らかな笑み。表情は穏やかで、優しげなもの。それなのに瞳だけは、あの美しい色の中にオイルでも混ぜたかのように濁った。瞬間、私は静かに息を呑む。あの色を見せるのはおそらく、戦争の記憶だ。たった三年の短い付き合いの中でも何となく察するようになった変化に、慌てて話題を探した。

「――そういえば、海に関するファーストのおとぎ話って不思議だなって思うんですけど」

「うん?」

 先生の声は穏やかなままだ。視線は上がらなかったので、瞳の色は分からない。私は先生を見つめ過ぎないように、会話の方へと意識を向ける。時間は限られているので、手も止めない。

 海に関するおとぎ話は、私の知る限りで二つあった。『海に飲み込まれた兄弟の話』と、『火山から人々を守った海の精霊の話』だ。『海に飲み込まれた兄弟の話』は、漁へと出た兄が海の魔性に魅入られ、海へ引きずり込まれてしまったことを知った弟が、魔性に対するあらゆる対策を講じて兄の救出に向かうも、魔性に勝つことは出来ずに同じく海へ引きずり込まれ、兄弟は今も海の底に囚われている――という、少し怖い話である。一方、『火山から人々を守った海の精霊の話』は火山の精霊が人々の暮らしを破壊しようと火山を噴火させ、人々は襲い来る火砕流に為す術もなく、畑も家も全てが飲み込まれてしまう。しかし命からがら逃げ延びた人々が海の精霊に助けを求めると、海の精霊はその願いを聞き届けて、海水で火砕流を止め、冷やし、その人々を守ったと言う話。先生は私の短い説明を聞いて「うん」と小さく頷く。

「不思議と言うのは?」

「ファーストの人は、海を味方だと思っていたのか、敵だと思っていたのか、どっちなのかと」

「なるほど」

 私の挙げた二つのおとぎ話は、一つは海を魔性として恐れるもの。もう一つは、人を救う精霊として崇めるものだ。ファーストの価値観はどちらだったのだろうか。私の疑問に、先生は少し考えた後で、丁寧に答えてくれた。

「先日の話に戻るが、ファーストには多様な宗教があったと聞いている。それに伴って文化や価値観も大きく違ったことだろう。全く別の場所から生まれ、『ファースト』と一括りにされて残った違和感かもしれないね」

 一口に『ファースト』と言っても、先生の言う通り多様な宗教があり、また、今私達が生きる世界と同じ多くの国もあったことだろう。その中では様々な文化があり、様々な考え方が存在していた。そう思えば、同じものを題材としても視点が違うことは当然のことに思える。私はその解釈に納得して何度も頷いた。

 その後も、他愛ないことをぽつぽつと不定期に話しながら、私達は休憩所で少しの時間を過ごす。いつもより、先生の口数は多かったかもしれない。遠くに聞こえ続けている海の音が、もしかしたら先生は嫌だったのだろうか。考えつつも問うことは無く、私は先生が話すのに応じて、同じく話をし続ける。

 移動する直前、轟と強く海鳴りが聞こえた。それが先生ほどの人をおびやかしているのかもしれないという思考一つで、ただただ美しいと見つめていた私の背にも冷たいものを感じさせる。私は咄嗟に顔を上げて先生を見つめたけれど、海から目を逸らしていた先生の顔は、良く見えなかった。


* * *


 海は、恐ろしいものだ。

 あれはこの世界で最も強大なものと言っても過言ではない。人間のように弱い生き物であれば、あれを何か上位のものであるように語り継ぐのは自然の流れだ。例えばそれは『精霊』であったり、『魔性』であったり、『神』であったりする。

 ファーストは、そのようにしていた。だがセカンドは、それを途絶えさせた。語り継がれた話は上辺に留まり、この世界はまだ、語り継がれる起因となった『恐怖』を、何も知らない。

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