第32話

 二天門。


 重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和四年、一六一八1年の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。


 この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮――徳川家康を祀る神社――への門として建てられたものである。東照宮は寛永一九年、一六四二年に焼失後、再建されていない。


 現在、門の左右に安置する二天――持国天、増長天――は上野の寛永寺墓地にある厳有院、つまり徳川家綱の霊廟から移されたものである。平成二二年、二〇一〇年、改修により創建当初の様式に戻された。


 浅草神社。


 本堂の東側にある。拝殿、幣殿、本殿は重要文化財。浅草寺の草創に関わった三人を祭神として祀る神社である。明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。


 ☆


 伝法院。


 宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。通常、一般には公開していないが、特別公開されることがある。平成二三年、二〇一一年、国の名勝に指定された。院内にある天祐庵は表千家不審庵写しの茶室で、江戸時代後期の建立。もとは名古屋にあった。


 浅草寺病院。


 境内北側にて社会福祉法人浅草寺病院を運営。明治四三年、一九一〇年に関東大水害の被災者のための救護所「浅草寺診療所」を念仏堂に設けたのが始まり。一九五二年に現病院に改組。


 ☆


 その他の堂宇も俺は巡り始めた。


 駒形堂。


 寺の南方、隅田川に架かる駒形橋西詰の飛地境内にある小堂。

 本尊は馬頭観音立像、これは秘仏である。浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったという。

 現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間、宝形造で、平成一五年、二〇〇三年に建て替えたものである。堂は元来は隅田川に向いて建てられていたが、現在の堂は江戸通り側を正面とし、川には背を向けた形になっている。

 本尊は毎月一九日の縁日に開扉され法要が行われる。


 二尊仏。


 宝蔵門手前右手にある二体の露座の銅造仏像。「濡れ仏」と通称する。向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩像である。台座を含めた高さは約四.五メートル。

 貞享四年、一六八七年の作で、台座の刻銘によれば、上野国館林、現・群馬県館林市の高瀬善兵衛という人物が、かつて奉公した日本橋の米問屋成井家への報恩のために造立したものである。


 ☆


 久米平内堂。


 二尊仏の手前にある小祠。

 ここに祀られる久米平内は、講談等に登場する半ば伝説化された人物である。その伝記等は定かでないが、剣の道に優れ、多くの人の命を奪ったので――首切り役人だったともいう――、その罪滅ぼしのために、自らの像を仁王門の近くに埋めて多くの人に踏みつけさせたという。「踏みつけ」が「文付け」、つまり恋文に通じることから、縁結びの神とみなされるに至った。


 弁天山。


 宝蔵門の東方、広場の奥にある小山を「弁天山」といい、石段上に朱塗りの弁天堂、その右手に鐘楼が建つ。

 弁天堂は鉄筋コンクリート造で昭和五八年、一九八三年の再建。鐘楼は木造で昭和二五年の再建。

 この鐘楼に架かる梵鐘は江戸時代の人々に時を知らせた「時の鐘」のひとつで、「元禄五年、一六九二年深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳」の銘がある。

 松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」と関連して説明されることが多いが、この句は現存する鐘の鋳造の五年前の貞享四年、一六八七年に詠まれたものである。弁天堂への石段の左側には芭蕉の「観音の甍見やりつ花の雲」の句碑がある。


 ☆


 影向堂。


 本堂の西側にある。鉄筋コンクリート造、寄棟造、錣葺き屋根で、平成六年、一九九四年の建立。堂内には本尊聖観音像のほか、鎌倉期の円派の様式を示す阿弥陀如来坐像等十二支の守り本尊である八体の仏像を横一列に安置する。


 影向堂の周囲には六角堂、橋本薬師堂、石橋などがある。


 影向堂の左に建つ六角堂――東京都指定有形文化財――は室町時代の建立で、小規模ではあるが、境内最古の建物である。堂内には日限地蔵を本尊として祀る。


 石橋――国の重要美術品――はかつて境内にあった東照宮への参詣用に造られたもので、元和四年一六一八年、東照宮が勧請された際に建造された。東照宮自体は焼失後再建されていない。


 淡島堂は、影向堂のさらに西側に建つ。

 江戸時代、元禄年間に紀州、現・和歌山市の淡島明神、つまり淡嶋神社を勧請したことからこの名がある。木造、入母屋造。平成七年、一九九五年、境内地の再整備の際に旧影向堂を移して淡島堂としたものである。

 この堂は昭和三〇年、一九五五年までは浅草寺の仮本堂であった。堂内には本尊阿弥陀如来坐像、向かって左に淡島神の本地仏とされる虚空蔵菩薩像を安置する。毎年二月八日にこの堂で針供養が行われることで知られる。


 ☆


 鎮護堂。


 本坊伝法院の鎮守で、伝法院通りを西方に向かって歩いた右手に入口がある。

 伝法院は非公開だが、敷地の南西にある鎮護堂のみは公開されており、ここから柵越しに伝法院の回遊式庭園が瞥見できる。

 ここに祀られる「鎮護大使者」とはタヌキである。明治時代の初期、境内には多くのタヌキが住み着き、寺では手を焼いていた。ある夜、当時の住職の夢にタヌキが現れ、「自分たちを保護してくれるならば、伝法院を火災から守ってやろう」と住職に告げたため、この堂を建てて鎮守とすることにしたという。切妻造の拝殿の奥に建つ本殿は大正二年一九一三年の建立。


 宝蔵門のそばに「浅草不動尊」と「三宝荒神堂」があるが、天台宗の大行院という寺院で、浅草寺には属していない。


 ☆


 境内の銅像や碑も隈無く見ていく。


 大谷米太郎夫妻像は本堂裏広場奥にある。

 宝蔵門を再建寄進した大谷米太郎、つまりホテルニューオータニ創業者の夫妻の胸像。昭和四二年、一九六七年の造立。


 九世市川團十郎「暫」の像は本堂裏広場。

 当初、大正八年、一九一九年に造立されたもので、彫刻家新海竹太郎の作であったが、第二次世界大戦時の金属供出で失われ、昭和六一年一九八六年、十二世市川團十郎の襲名を期に再建されたものである。


 宮古路豊後掾追悼碑は豊後節の祖の碑だ。

 養嗣子である宮古路文字太夫、初代常磐津文字太夫によって、延享三年、一七四六年に建立された。

 豊後節は一中節から派生し、この豊後節からは宮園節、新内節、そして豊後三流の頭取である常磐津節、そこから富本節が派生し、清元節へとつながることになる。現存する浄瑠璃八流派のうちの六流派が、この豊後系の浄瑠璃にあたる。


 松尾芭蕉句碑は弁天山石段の左方。

 寛政八年、一七九六年建立。


 ☆


 迷子知らせ石標は本堂前にある。

 江戸に数箇所あった迷子知らせ石標のひとつで、安政七年一八六〇年に建立されたが、現在立つ石標は昭和三二年、一九五七年に復元されたもの。


「鳩ポッポ」の歌碑は本堂前。

 東くめ作詞、瀧廉太郎作曲で明治三三年一九〇〇年に発表された童謡「鳩ぽっぽ」の歌詞と楽譜を表した碑。

 昭和三七年、一九六二年の建立。なお、この曲は文部省唱歌の「鳩」とは別の曲である。


 映画弁士塚は淡島堂南側の「新奥山」と称する一画に立つ。

 無声映画時代に活躍した弁士を称えるために昭和三三年、一九五八年建立された。題字は鳩山一郎の書。


 喜劇人の碑は「新奥山」にある。

 昭和五七年、一九八二年建立。川田晴久を筆頭に、物故者となった日本の喜劇人の名が刻まれている。


 ☆


 流石に大きな寺院だけあり、まだまだ見て回れる。もはや単なる詣でのための建物というレベルから踏み出して庶民的な人物にまつわる像や碑を積極的に置くのは、ひとつの特色ともいえる。


「現代的な観光スポットも目指してんだな」


 歴史を見ると色々あった日本は遂に争いに懲りて、幅広く力ある人たちを認めて発信していくように対応し始めたのかもしれない。


 なんて、俺にはそんな難しい本質はさっぱり分からないけどな。


 でもまあ、新旧を雑多に取り込むなんて賛否両論かもだけど、いつか人は新しい時代に立たなきゃならないのも事実。

 案外、少数能だの消えかけている文化だのが生き残るためのヒントは浅草寺には、たくさん詰まっているのかもしれない。

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