第39話 感謝
気持ちはいまいち積極的になれずとも、体が覚えていたせいか、予定より早い時間に山梨に着いた。
とりあえずまだ賃貸契約の残っている小熊の集合住宅に行った三人は、交代で冷え切った体を暖めるシャワーを浴び、途中のコンビニで買った弁当を食べる。
最初にどこに行くのかという決め事も、手近で行きやすい場所がいいだろうという意見で一致し、三年間通った高校へと向かった。
三人で高校に行き、何度も昼食を囲んだ駐輪場にカブを駐めた小熊たちは、春休み中ながら年度末ということで、幸い学校に居た担任教師に挨拶をする。
教師は卒業式を途中で抜けた事に一通りのお説教をした後、足を骨折し卒業まで危ぶまれながら、懲りる事なくカブに乗っている小熊を呆れたように見て言った。
「バイクでも何でも趣味にかける時間とお金はほどほどにしましょう。それで学業や仕事、恋愛や家庭生活、人生の色々な事がうまくいきます」
礼子は中指でも立てそうになった自分自身に笑っている。椎はうんうんと頷いて、カブより自分にお金を使ってほしいとでも言うように小熊を覗き込む。小熊は過去の経験から来るのか、笑いと痛みが混じり合ったような表情で頭を下げた。
「小熊さん、私はあなたほど善良で大人しく、手のかからない生徒は居ないと思っていました。今になってみると、あなたは良くも悪くも私を教師として最も成長させてくれた」
小熊は担任教師に握手の手を差し出した。教師は柔らかい手で握り返してくる。
「お世話になりました。わたしはあなたの生徒になれて良かった」
担任教師がハンカチを取り出したので、小熊と礼子、椎は面倒な事になる前にカブで退散した。
続いて三人でシノさんの店に行く。
シノさんは店に居た。礼子が富士登山でほぼ全損まで壊し、下取りに出した郵政カブをシノさんは自分のカブとして乗る事に決めたらしく、プラモデルで遊ぶような表情でカブをいじっていた。
まずは色を自分好みに塗り替えるべく、塗料を調合する参考のためガンダムの新作を見ていたというシノさんは、片目で赤いザクの活躍を見ながら小熊たちに応対する。
相変わらずバイクが好きで、バイクのオモチャやマンガが好きな、体が大きいだけの子供みたいな人だと思いつつ、小熊たちは今まで世話になった礼を述べた。
動画をゲーム画面に切り替えたシノさんは、自分の目に現れそうになる感情を隠すかのように、蒼いガンダムを見ながら言う。
「どうせまたパーツとか買いに来るんだろ? 正価の八掛けで出してやるから必要な時は連絡しろ」
たぶんその通りになる。東京にはカブの部品を売っている部販やショップが数多くあって、通販でも手に入るが、小熊や礼子、椎のカブの仕様や状態、乗り方を熟知しているのはシノさんだけ。それに二割引きはかなり安い。
バイク乗りにとって重要な自分のバイクの「色」を決めるため、テーブルにロボットアニメやゲームのソフトを幾つも広げている最中にお邪魔してしまったらしいので、小熊たちは早々においとますることにした。
小熊たちのような高校生だけでなく、転勤や転職、あるいは転居などで環境がしょっちゅう変わる社会人の客もそれなりに居る店。きっと高校卒業と進学に伴う上京なんて、客の身に時々起きる転機のうちの一つに過ぎないんだろう。
シノさんは相変わらずアニメを見ながら、店を出る小熊たちの背に向かって言った。
「やっぱり七掛けでいい」
小熊がこの店で買ったカブに乗り始めてから今まで。高二の初夏から高三の春。小熊が自分にとって長かった二年弱の時間を思い返していると、背後でシノさんが小声で呟いた
「あっという間だったなぁ」
続いて椎の実家に行った。椎の父母に加え、普段はキャンピングカーで旅の日々を過ごしている椎の祖父まで居た。
小熊と礼子が今までの、主に食べ物関係の礼を述べたところ、椎の父は感慨深げな様子で小熊と礼子を見て言った。
「私は東京での勤めをやめて山梨に来たことに、ほんの少し思う所があった。しかし君達のような友人が出来たことで、この地に暮らして良かったと心底思えるようになった。この友情は生涯失われる事が無いだろう」
椎の母もオーバーアクションな仕草で惜別を表現しながら言う。
「椎も小熊ちゃんも礼子ちゃんもみんな私の娘よ。少し離れたところに引っ越してもそれは変わらない。いつでも帰って来てね」
小熊は椎の母が差し出した手を強く握りながら言う。
「もしも今後何か困った事があったら、いつでもご連絡下さい。いかなる時も駆けつけ、問題を解決すべく力を尽くす事を約束します」
続いて礼子が握手をしながら「ここの美味しいコーヒーとディナーが報酬ね」と言うと、椎の母が小熊、礼子、椎を抱きしめる。
「おお神さま。私はこの身に余るほどに幸福な
小熊は椎の父母から別れを惜しまれながら、店の外を盗み見していた。音が聞こえる。店のドアが開き、いつも小熊にとって最良のタイミングで現われる人間がやってきた。
「いらしていたのですか?」
小熊が組んだホンダ・モトラに乗ってどこかに出かけていたらしき椎の妹、慧海が帰ってきた。
小熊は椎の父母の手をふりほどき、慧海の前に立った。言葉が出てこない。とりあえず言うべき事は言った。
「私は、今日で山梨から居なくなる。明日から東京で暮らす」
小熊のたどたどしい言葉を聞いた慧海は、モトラに乗る時に着ているマウンテンパーカーを脱いで、ハンガーに掛けながら言った。
「それがどうかしましたか?」
東京ツーリングを切り上げ、最後の挨拶をすべく山梨に来るまでずっと重かった小熊の心が晴れた気がした。
山梨と東京。二人の居場所が変わる事で消える関係など無い。小熊がカブに、慧海がモトラに乗っている限り。時間も空間など何の意味も無い。
それでも淋しくなった小熊は慧海を抱きしめた。何か違和感があると思っていたら、いつのまにか慧海の横に居た同級生の伊藤史だった。きっとこのベスパに乗る幽霊みたいな女も、小熊が望む望まないに係わらずどこにだって現われる。
最後に椎の祖父と握手を交わす、椎の祖父は小熊たちの手をしっかりと握りながら言った。
「旅はまだ、終わりません」
もちろんその通りだと思った小熊は強く頷く。その気持ちを嘘にしないためにも、カブに乗り続ようという決意を新たにした。
最後に史の父親に挨拶をしに行った。
陸上自衛隊で音楽隊に所属する史の父は、最近自分のトロンボーンを積んで走るためにクラウザーの三輪バイクを買ったらしい。別れの言葉もそこそこに新しいオモチャを自慢する史の父は、小熊や礼子、椎にカッコいいと言って欲しがってるようだったが、それは次に会う時までのお預けにした。
小熊と礼子、椎は高校時代を過ごした地、山梨県北杜市の旧武川村地域を出た。
新しい人生を始めるべく、宝石のような今までの時間を終わらせた小熊と礼子、椎は、甲州街道の信号待ちで、互いに示し合わせたように背後を振り返った。
南アルプスと八ヶ岳連峰に挟まれた街、冬は凍りつくような山風が吹き、夏は甲府盆地の熱気が漏れてくる、気候はやや過酷だけどバイクに乗る人間にとっては過ごしやすく、水と米がとても美味い土地。
今さら別れを告げるのも感傷的過ぎると思った小熊は、周囲に他の車が居ないのを横目で見て、カブのクラクションボタンを押した。
礼子と椎もクラクションを鳴らす。一台だけでは情けない音しか出せないカブのクラクションも、三台の音が重なるとそれなりに重厚な音になる。
小熊と礼子と椎、三人の女の子が青春を過ごした山々に、乗っている人間を代弁するかのように、カブの鳴き声が響いた。
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