第33話 多摩サーキット
新橋から町田まで。最短距離ながら往路と同じ国道二四六号線を使うのも面白みに欠けるので、国道一号線を西進すべく、わざわざ起点の日本橋まで行った。
道幅も広く直線的な国道一号線は走りやすく、朝の通勤ラッシュが始まり、都心へと向かう上り線は混雑していたが、下りの道路状況は概ね良好だった。信号で寸刻みに停止させられる都会の道にも慣れてきた。
信号待ちの間、小熊は周囲の建物や対向車線の車を見た。左手の線路を、仕事に向かうサラリーマンを詰め込んだ電車が走っている。小熊は春からの大学生活がカブ通学になって良かったと思った。あの山梨では見かけた事の無い満員電車とやらは、職場に行くまでに体内に蓄えたエネルギーの大半を使ってしまいそうで、一度乗ったら二度と乗りたくなくなるだろう。
右手の対向車線には、黒塗りの車が停車していて、やはりこれから仕事場に向かうであろう人物が後席に乗っている。タブレットで何か読み物をしているらしいが、表情で面白おかしい物を読んでいるのではなく、通勤時間も仕事のうちといった感じで、仕事の書類に目を通してるのがわかる。
やっぱり毎日乗るならカブがいい。満員電車で他人の悪臭を嗅がされることもないし、運転手付きの車の後席で、見ているだけで車酔いしそうなデスクワークをやらされる心配も無い。
一号線で東京二十三区の南端を走った小熊たちは、都県境の多摩川にさしかかった。このまま神奈川に入って、川崎の工業地帯を抜ければ横浜に入る。
今まで様々な映画やドラマの舞台となった横浜の街に興味はあった、横浜から目的地の町田に至る道も複数あって、それほど遠回りにはならないが、小熊は神奈川に入る手前で右折し、多摩川沿いを走る。
このツーリングは東京を知るための旅。横浜については、引越しを終えて暮らしが落ち着いた後でじっくり回ればいいだろう。それに横浜の街を走って探偵物語を気取るには、防寒素材で膨れた服装じゃ野暮ったすぎる。
多摩堤通りを北上し、世田谷通りで左折した小熊たちは、多摩川を越えて神奈川に入り、幹線道路というより生活道路といった感じの道を町田方面へと向かう。
起伏の多い道路を小田急線沿いに走っていたところ、礼子がやや強引に前に出て、右折のウインカーを点滅させた。
場所は川崎市の麻生区。小熊の新居がある町田市北部まで行くには、まだ曲がるのが早い。そう思った小熊を振り返った礼子は言った。
「多摩サーキットを見に行く」
小熊はそんなサーキットの存在など知らなかった。入院中の途方もなく暇な時間に、転居先となる町田とその周辺の、特にオートバイに関する情報は積極的に収集していたが、住宅地と商業地域が詰め込まれている多摩地区に自動車競技場があるなんて聞いたことが無い。
礼子の先導でどこだかわからぬ場所に連れていかれるのもあまり安心出来る物ではないので、とりあえず目についたコンビニに入ることをハンドサインで伝えた。
東京都心から少し離れた神奈川まで来ると、だいぶ駐車場も広くなったコンビニでお茶を買い、駐輪場で礼子に聞いた。
「どこに行くの?」
礼子はハンターカブの後部ボックスを漁り、東京ツーリングでほとんど見る事の無かった紙の地図を取り出しながら言った。
「ここにサーキットがあるのよ」
礼子が指した箇所には、確かに私道であることを示す破線の道路図がある。独特の曲がりくねった閉鎖ループの道を見るまでもなく、多摩サーキットと明記されている。礼子の説明のよれば、この場所には未舗装の公認ダートサーキットが存在し、サーキットとしての営業期間はそんなに長くなかったが、表向き閉鎖された後も、つい最近まで大学自動車部でラリーやモトクロスをやっている人が走りに来ていて、特撮のロケ地にも使われたらしい。
小熊は礼子の手から地図を奪い取った。小熊が暮らす町田市北部まで載っていて、その周辺の道路が小熊の知る物と違うのを見て、かなり古い地図であることがわかった。
横で椎がスマホをいじりながら言った。
「もう無いですよ」
スマホに表示されたネット地図を見ると、紙の地図でサーキットがあった場所は、新道の開通と再開発で姿を変えていた。学校、大型霊園、スーパーマーケット、ここで暮らす人たちがサーキットより必要としているであろう物に置き換えられている。
椎がネット地図を航空写真に切り替えた。サーキットはその下の地面ごと削り取られ、跡形も無く消え去っていることがわかる。
小熊はお茶を一口飲んで礼子に聞いた。
「見に行く?」
椎はヘルメットを被りながら言った。
「意味無いと思います」
礼子はサーキットがあったという山へと繋がる長い上り坂を見据えながら言った。
「何か、何かが残っているかもしれない」
小熊と礼子、椎は、もう無いものを見に行くために走り出した。
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