第34話 緑山

 読売ランドを通り過ぎた先で左に折れ、公道か私道かもわからぬ細い道をしばらく走ると目視出来たという多摩サーキットは、最新のネット地図に表示された通り跡形も無く消え去っていた。

 サーキットがあったという場所は地形すら変わっていて、新しい道路が通っている。

 周回路は無くなっていてもスタンドやピット、それからサーキット特有の捨てられたレースパーツでも無いかと一縷の望みを抱いて来たらしき礼子は、膝をついている。


 地元の農家らしき老人が通りがかったので、椎が呼び止めて聞いている。お仕事中である事をお詫びしつつ尋ねる椎の姿に目元を緩めた老人は、多摩サーキットと聞いて首を傾げた。

「確かそんなのがあった気もするなぁ。二十年くらい前に息子に頼まれてドラマの撮影を見に行った事があったっけ」

 この地に長く住んでいるという老人からは、他にも色々な事を聞いた。かつては風光明媚だったという稲城の山は、現在数百億円を費やした再開発が行われていて、山々の形まで変える大規模工事で、この近くにあった落差六十mの崖も消えてしまったという。


 老人は椎や小熊、礼子のカブを見て言った。

「お嬢ちゃんたちカミナリ族か?ならランド坂を見ていくといい。車でもバイクでも面白く走れると息子が言っとった」

 カミナリ族とはいつの時代の言葉か。とりあえず老人にお礼を述べた小熊と椎は、ランド坂と聞いて少し興味が沸いたらしき礼子を連れて来た道を引き返し、読売ランド前の道路を調布方面に降りていった。


 地元の老人に聞いたランド坂は、確かに上から見下ろすとコーナーの曲率が大きく舗装の状態もいい、スポーツ走行に向いたワインディングロードだった。道全体の強い傾斜は下りでは軽量な小型車の武器になり、登りでは大排気量エンジンのトルクを充分に活かせるだろう。小熊はカブよりも高校時代のバイク便バイトで専用車だったVTRか、シノさんのサニートラックでも持って来ればよかったと思ったが、実際に走ってみると川崎の多摩区と東京の調布を連絡する山越えの道は通行量が多く、とてもじゃないが攻めて走る事なんて出来ない状況だった。


 昼間の道は混んでいても深夜から早朝なら、と考えたが、道行く車を見るにトラックやバス、営業車などの働く車に加え、住宅地に隣接しているためかごく普通のファミリーカーもよく見かける。きっと深夜にはトラックが、早朝には新聞や牛乳の配達車が絶えず走っているんだろう。これでは走り屋の峠に必須の、一般車がほとんど走っていない時間など皆無に違いない。

 車体を倒し、前後のタイヤを限界まで使うのに最適なスプーンカーブで、他の車に従い安全で順法的な走行をしながら、小熊は礼子の横顔を窺う。信号待ちの時に礼子は小熊に言った。

「無くなったのはサーキットだけじゃない。そこで走り、その場所に命を賭けた奴らの気持ちまで消えちゃった」


 道というものは物体を移動させるためにある。健全な社会生活や真っ当な経済活動をしている人間の持つ流通の原理の前には、ただ同じ場所をぐるぐる回るサーキットが抗えないのはやむなき事。ランド坂を降り切る頃、椎の不思議そうな視線に釣られ空を見た小熊は、よみうりランドと京王よみうりランド駅を山越えで繋ぐロープウェーを見た。ケチ臭い不動産開発における多数決によって地面に引かれる道路を無視して、空を飛ぶ道が私鉄の駅と遊園地を繋いでいる。

 小熊は先頭を走りながらカブの動きに生彩を欠く礼子の前に回りこみ、交差する鶴川街道を左折した。


 そのまま小熊の先導で鶴川街道を南下した。案内標識によれば、この先は町田市。元より今朝は町田北部にある引越し先に行くべくホテルを出てきた。そろそろバイクを楽しんで乗りたい人間にとって気分が悪くなるだけの寄り道を終わらせ、目的地に向かうべきだろう。小熊はそう思いながら、峠を走る目的に向いたレーサーレプリカより、アルプスローダーと呼ばれるヨーロッパの山間部道路を走るため作られた高速移動型オフロードバイクのほうが似合いそうな鶴川街道のワインディングロードをカブで走った。

 もちろん、カブで走っても面白い。

 

 鶴川街道で一度神奈川に出て再び東京に入った小熊は、小田急線の線路を陸橋で越えて、再び山越えをする。小熊の家に向かうには、線路の手前で右折したほうが近道だが、その前に寄っておきたい所があった。

 小熊が町田市への転居を決め、周辺の事情について色々調べていた時に偶然知った場所は、山の頂を過ぎてすぐの所にあった。

 山越えの道ながら直線的な道路が、山坂の頂上で左に枝分かれしている。分岐の先は廃道で通れないことを示す標識と、車の進入を拒む柵が設置されていた。

 小熊は柵の手前でカブを駐めた。ヘルメットを脱いだ礼子が前方の廃道に目を輝かせる。

「緑山!」


 小熊たちが居る廃道は、かつて東京都内のみならず周辺県の人間までもが集まった、有名な走り屋スポットだった。

 TBS緑山スタジオと自然体験型遊園地のこどもの国の間を通るワインディングロードは、車や大排気量バイクより小型軽量なバイクに向いていて、何人もの走り屋がここに集まり、そのうちの何人かはここで散った。

 椎が目を凝らしながら廃道を見て言った。

「こういう道はバイクで飛ばすより、のんびり歩きたくなりますね」

 同意した小熊はカブを廃道入り口の近くにある病院で、偶然そこに居た職員に許可を得て駐輪場にカブを駐めさせて貰った。職員によれば車両じゃなく徒歩や自転車で通行するのは問題ないそうなので、三人で柵を越えて歩き出す。


 かつて走り屋の聖地と呼ばれた道は、左右から迫ってくる雑草と風化浸食によって、土に還りつつあるように見えた。

 左手には鬱蒼とした森林、右には緑山スタジオ。カーブの連続する道路には、走り屋と警察の戦いの歴史なのか、タイヤを意図的に滑らせる溝が彫ってある。

 オカルト系サイトには今でもここで事故死した人間の霊が漂い、地元の人は誰も近づかないと書いてあった道では、ウォーキングを楽しむ老夫婦をよく見かけた。生活道路としても機能しているらしく、自転車には登れない急傾斜の道路を、電動アシスト自転車に乗った地元の主婦が難なく登っている。


 礼子は自分がこの緑山がまだ走り屋の集まる道だった頃を夢想しているらしく、コーナーを越えるたびエンジン音やタイヤのスキール音を口真似しながら、体を傾かせている。椎はスタジオの裏手からバラエティか何かの機材を搬入している様子を興味深げに見ていた。

 ここで死んだ誰かのことを、今でも忘れていない奴が居るのか、それとも単なるゴミか、道の隅に幾つかの空き缶が立ててあった。

 小熊は道端に咲いていた花を一輪摘み、缶の一つに差しながら呟く。

 …Good bye Hero…

 緑山の坂を下りて、登る、まことに健康的なウォーキングを楽しんだ小熊たちは、駐輪場を借りた病院職員に礼を言ってカブに跨り、緑山を後にした。

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