第35話 インドア・アウトドア

 当初の目的地を忘れたかのようにあれこれと寄り道をした小熊達は、ようやく小熊が春から暮らす町田市北部の木造平屋へと向かった。 

 緑山からまっすぐ北上し、世田谷通りから名前を変えた芝溝街道を西へと走り、右に折れて鶴見川に沿うように北上する。

 鶴見川の源流となっている泉を右手に見ながら、多摩の里山を走っていると、鬱蒼とした森を抜けて尾根幹線の道路を渡った途端に、周囲の風景は一変した。

 幾つもの巨大な建物と新しく直線的な道路。小熊は礼子と椎を先導するように尾根幹線の道路を少し西進した。周囲には大学や大手流通業者の拠点、ショッピングセンターなど、スケールの大きい建物が林立している。


 小熊が思いがけぬコネでこの辺りへの居住と賃貸契約を決めた時、仲介を受け持った不動産業者から聞いた話によると、丘陵の多い南多摩の中でも、ここは特に強固な岩盤で出来ていて、災害時の安全性が非常に高く、そのため大手通信業者を始めとする幾つかの企業がデータセンターを置いているらしい。

 この岩盤と崖線をちょっと東に行くと、川崎市がハイテク企業を誘致して作ったマイコンシティがあって、小熊たちがさっき鶴川街道を南下している時に通ってきたが、何人ものIT産業従事者が駅からの坂を登っているのが見えた。

 幹線道路から細い枝道を左に折れ、少し走った先に小熊の新居があった。 


 通る車も稀な道路の脇、人が誰も来ていない公園と誰も手入れしてなさそうな畑に挟まれた、小さな家。 

 以前は都営住宅や農地改良住宅と言われ、数棟が連なって建てられている様をよく見かけた木造平屋が、取り壊しの途中で一世帯だけ残されたといった感じでぽつんと佇んでいた。

 小熊は道路から平屋に付随して賃貸した敷地にカブで乗り入れ、礼子と椎を手招きする。平屋の隣の前の住人が置いていったというISO規格コンテナが設置されているので、コンテナで表通りから隠せる位置にカブを駐める。

 礼子と椎のカブも並べて駐めさせた。ヘルメットを取った椎は周囲を見回す、それかリトルカブを降り、小熊に駆け寄って言う。

「小熊さん、ここ、やめましょう! 今からでも遅くないですから私のマンションに引越しましょう」

 左右には畑と公園、背後には森林。よく言えば風光明媚な住環境は、人の気配がしない場所だった。誰も居ない、誰も来ない地に建てられた家の背後には、寂し過ぎる住環境を補うような物がある。

 東京でも都心では絶対見られないような、何も無い、何にも使われていない荒地を挟んで遠くに見えるのは、大規模な霊園と斎場。


 ハンターカブに跨ったまま、霊園から突き出している火葬の煙突を眺めていた礼子は、エンジンを切る前に空ぶかしさせて、改造マフラーの音を周囲に響かせてから言った。

「いいとこじゃない」

 誰も居ない場所は思う存分バイクを整備し、電動工具の大きな音や溶剤の匂いを撒き散らす事が出来る。おまけに目の前には試走におあつらえ向きの、人や車の往来が全然無い道路もある。当然バイクそのものが発するエンジン音にも気を遣う必要が無い。文句を言って来そうなのは霊園に住まう死者のみ。 

 小熊は椎や礼子の言葉には反応すること無く、カブのキーにキーリングで一緒に付けてあるディンプル型の鍵を手にした。自分が決して安くない金を払って借りた場所についてあれこれとレビューされるのも気に入らないので、とりあえず二人を自慢の我が家へと迎え入れる事にした。


 外観は少しくたびれた木造平屋の内装は、一見したところ綺麗なように見えた。

 まだ荷物を運び入れただけで、散らかるような物が何も無いこともあったが、水周りは最近設置されたユニットバスや模造大理石のキッチンなどに取り替えられている。

 窓を開け放ち、昼間の陽光に照らされた中で見ると築年数相応の劣化も目についた。畳と壁は全体的に変色している。不動産業者はリフォームを薦めたが、無駄な追い金を嫌った小熊は清掃だけでいいと言った。


 家に入って早々に配電盤やドアの建て付け、窓の下を見ていた礼子は小熊に言った。

「床下を見せて」

 小熊は畳を上げ、清掃のため外れるようになっている床板を持ち上げた。準備のいい礼子は靴を履き、LEDライトを片手に床下へと潜った。あちこちの柱をLEDライトで照らしたり、足で蹴ったりしていた礼子は、頭に蜘蛛の巣を被った状態で床下から出てきて言った。

「いいわね。白アリの害も無いし補強の手抜きも見当たらない」


 礼子は高校生活の間ずっと、ここと同じ木造のログハウスに暮らしていて、メンテナンスも自分でやっていた。礼子はポケットからビー玉を取り出して床に置く。

 置いた場所から少し動いたビー玉は、転がり続けることも無く、すぐに動きを止める。他の幾つかの場所で試してみても同じだった。 

 礼子はビー玉を拾い上げて言った。

「よし、合格」

 住宅は一mで六mm以上傾いていると資産価値がゼロになるというが、少なくともこの家には、ビー玉が転がるような床の傾斜は無い。バイクでいうところの外装に相当する上物は少しくたびれているが、フレームやエンジンとも言える地盤や柱、強度部材は良好な状態だという事がわかった。


 礼子が家の検査をしている間、キッチンをいじっていた椎が言う。

「小熊さん、何も出ません」

 キッチンの水道もコンロのガスも出ない。もう荷物をほぼ運び終えたが、実際に暮らし始めるのは四月からに決めていた小熊は、ライフラインの契約もそれに合わせていた。当然、水道とガスだけでなく電気もまだ来ていない。

 礼子がもう昼だというのに暖かい食事にありつけない事に不満を漏らす。小熊は礼子を見て、まずは風呂に入れないのを心配したほうがいいと思ったが黙っていた。


 椎は「どこか食べに行きましょう」と言いながらスマホを取り出したが、最寄りの外食屋は付近にある大型葬祭場のレストラン。たぶん小熊たちのような風体の人間は、生者からも死者からも歓迎されない。

 せっかく我が家に落ち着いたというのに、人に雨露を凌ぐ屋根と共に安心を与える日々の糧がここでは得られない。小熊は自分がそれなりに気に入っていた場所の価値が急激に失われたような気がした。


 少し遠出になっても、大学近くのファストフードにでも行こうかと思っていた小熊は、外の道路からは隠されているが、部屋からはよく見えるカブに視線を投げた。自分のスーパーカブの隣には、椎のリトルカブと、礼子のハンターカブ改。

 小熊と礼子、椎はほぼ同時に回答を思いついた。大きな掃き出し窓を開けた礼子が、何とか地面に降りることなく自分のハンターカブから荷物を取り出そうとするので、小熊は不精することなく靴を履いて玄関から出た。そのまま歩いてハンターカブのところまで行き、後部ボックスを開けて荷物を取り出す。


 ボックスに入っていたのはキャンプ道具だった。三人分のシュラフと詰めれば三人が寝られるテント、コンロとランタン、調理器具やタープ、シート類。

 去年の九州ツーリングでは、椎をハンターカブの後ろに乗せていた事もあって積み荷が制限され、キャンプ道具を持っていく事が出来なかった礼子は、その不満を取り戻すべく今回の東京ツーリングでは一揃い準備して来たが、東京では九州以上にキャンプの機会が無かった。


 小熊と礼子、椎はカブの後部ボックスに入っていた食料と小熊が引越し荷物と一緒に持ち込んでいた食材を集め、隣の公園で水を汲み、縁側に出したコンロで調理した昼食を三人で食べた。その後は畳の上でゴロゴロしたり、三人でカブを走らせて十分少々の場所にある健康ランドに行ったり、夕飯を買い込むために行った南大沢のアウトレットモールをあちこち見て回った。

 日が暮れる頃、灯りも水も無い家に帰る。礼子がキャンプ道具の中にあったランタンを点けた。仄かな灯りの下で、買ってきた夕食を三人で囲んだ。暖房も無い部屋で食後にシュラフを広げる。暖かい状態で安眠するため、体温を有効に使うにはそのほうがいいと礼子がいうので、部屋の中にドームテントを設営した。


 小熊は今までキャンプという趣味に縁が無かったが、まさか初めてのキャンプを室内で行うとは思ってもみなかった。椎は「キース・ヘリングは部屋の中でキャンプするのが好きだったんですよ」と、現状の好転や解決にはさほど役に立たない情報を教えてくれた。

 三人で寝るには狭いテントの中、シュラフに体を突っ込んだ状態で、小熊は寝るまでのお喋りをする事にした。移動時間が長かったせいか、礼子や椎は眠そうだったが、話題はもう決めている。

「次に行く所を決めたいと思う」

 小熊には、どうしても行きたい場所があった。

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