第36話 しめくくり

 ランタンの灯りが揺れる中、礼子と椎は揃って怪訝な表情を見せた。

 普段は小熊が何か話を持ってくると、特にそれがカブでどこかに行く話になると喜んで乗ってくる礼子が、食ってかかるように言った。

「どこがあるっていうのよ?」

 椎は小熊よりスマホを見ながら答える。

「どっか行きたいところがあるんですか?」

 小熊は首を振った。この二人はわかっていないのではない。わからないふり、見ないふりをしている。


 電気もガスも水道も来ていない平屋。素材が木で出来ているというだけでキャンプ場のテントかバンガローとほぼ変わらない環境の中、畳の上でシュラフに包まり横になっていた小熊は、体を起こして言った。

「山梨に行く」

 礼子は退屈そうに畳の上を転がりながら言った。

「何か忘れ物でもしたの?」

 小熊は礼子の尻を蹴りたい気分だったが、プレハブじゃない木造家屋特有の丈夫な柱がその役目を果たしてくれたらしく、体をぶつけた礼子は茹でられたロブスターのように体を反らせている。


 大人用シュラフの容量を半分ほどしか使っていない椎は俯きながら言う。

「わたしはもう荷物は運び終えてますし、引越しや入学の手続きも終わってます。このままわたしとリトルカブが二子玉川のおうちに行けば、東京暮らしの始まりです」

 礼子はさっき自分に痛手を負わせた柱を気に入った様子で、シュラフに包まれた体を柱に巻きつけてながら言った。

「わたしももうログハウスは引き払った。とりあえず荷物は実家に送ったし、これから世界に旅立つ。カブがカブの性能全て発揮する本来の姿で居る事が許されない日本にも、狭っ苦しい山梨にもとっくにバイバイしたわ」 

 小熊は顔以外を覆っていたシュラフから上半身を出した。言葉だけで言いたい事が伝わるのかどうか自信が無い。

「山梨の暮らしを、ちゃんと終わらせてきた?」


 ずっと小熊から目を逸らしていた椎は顔を上げた。戸惑ったような表情を見せる。

「住民票は東京に移して学生証も返しました。山梨でやることはもうありません」

 それは小熊も同じだった。引越し作業はシノさんのサニートラックを借りて終わらせてあって、山梨の集合住宅に残っているのは三月末までの賃貸契約のみ。役所や学校に行く用も既に済ませている。

 シュラフのジッパーを開けた礼子は、両腕と長い足を組みながら小熊を見据える。

「わたしに、今までお世話になりました、とか涙のお別れをしろって言うの?」

 小熊は枕元に置いていたペットボトルから、冷え切ったお茶を一口飲んでから答えた。

「私もそんなドラマや子供マンガみたいな事をする積もりは無い、でも、山梨で生きてきた時間の終わりを告げ、感謝を伝える相手が居ないわけじゃない」


 小熊と礼子、椎の間に沈黙の時間が流れた。 

 礼子は長い髪をかきあげながら言った。

「わたしは恩の無い相手には礼を言わない」

 それから窓の外を見る。昼間は東京都内とは思えないほど緑豊かだった風景も、夜に見るとあちこちに街灯が点り、山梨のような何も無い漆黒の空間とは違う。

「世話になった人間なんて居ないけど、南アルプスの山にまだ別れを言ってなかった」


 俯いてしばらく考えこんでいた椎が、顔を上げて言う。

「そうだ思い出しました! お気に入りの銀のマーマレード・スプーンを山梨の実家に置き忘れてました! わたしあれが無いとジャムを舐められないんです!」

 さっきまでの消極的な態度から一転し、乗り気になったらしき礼子が、オメガ・スピードマスターの腕時計を見ながら言った。

「いつ?」


 既に今すぐ出て夜明け前に山梨入りする積もりらしき礼子に、小熊は自分のカシオF-91Wのカレンダー表示を見せながら言った。

「明日」

 日付は三月三十日。明けて三月三十一日は、小熊や礼子、椎の法的な身分が高校生である最後の日。

 椎は自分のGショックを見ながら言う。

「明日の朝ですね」

 山梨には高校生の深夜外出を規制する条例がある。小熊も礼子も椎も、山梨で暮らしていた頃はその条例の存在を思い出したり忘れたりしていたが、自分が高校生で居られる最後の日くらいは、居住まいを正して迎えるべきだと思った。


 夕食から時間が経っていたこともあって、喋ると腹が減ってきたが、家の近所にコンビニもラーメン屋も無く、冷蔵庫から夜食を出そうにも、まだ電気が来ていないので中身は空っぽ。

 空腹の時は寝るのが一番ということで、小熊たちはランタンを消してシュラフにもぐりこみ、明日の早起きに備えて眠りにつく。

 小熊と礼子と椎の東京ツーリング、その最終目的地は決定した。

 

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