第37話 重い道

 夜明け前。

 冬用シュラフの中で目が覚めると、肌がうっすら汗ばんでいた。

 三月最終日。自分が高校生としての最後の時間を過ごすそれなりに大切な日を、あまり身汚く迎えるのは勘弁願いたいと思いながら、小熊は自分自身の代わりに隣で寝ていた椎の匂いを嗅ぐ。

 一昨日のホテルから持ち帰り、昨日の健康ランドで使ったミニパックのボディソープが香る。とりあえず人前に出られないような衛生状態じゃないという事だけはわかった。


 ついでに椎を揺り起こすが、頭を左右に振りながら不機嫌な声を上げる椎は、あと何回か起こさないとならないだろう。こんな有様で東京での一人暮らしなんて出来るんだろうか。やっぱりしばらくの間は誰かが一緒に居て、体が起きたくなくとも起きなくてはいけない朝がある事を教えたほうがいいのかと思っていると、窓の外にある物が視界に入る。

 小熊や礼子のカブと並んで駐められた椎のカブ。旧式のカブと異なり、エンジンが冷えていても安定稼動する電子制御のリトルカブ。もう椎には、両親や小熊がついていてやらずとも、生きていくために必要な事を教えてくれる存在が居る。

 

 礼子はもう起きていた。彼女は最初に出会った時から不安定な気分屋で、何かをする予定がある日、特にカブに乗る用がある時は小熊より早起きするが、何もしない朝は椎より寝起きが悪い。

 この二人との付き合いはどれくらいになるのか。何度一緒に泊まったのか、今さら思い出すのも面倒なので、何も考えないようにした。


 礼子と小熊の二人で、両側から椎をぶら下げながら、水道の出ない木造平屋を出た。まだ暗く気温も低いが、冷気で肺が凍るような南アルプスの麓ほど寒くない東京の空気を吸う。椎も風の冷たさというより、いつもと違う匂いの空気に刺激を受けたらしく、目を覚ます。三人は平屋の敷地に隣接する誰も来ない公園の水道で顔を洗い、歯を磨いた。


 今日は長いような短いような東京ツーリングを終わらせるため、山梨まで行って自分が山梨で過ごしてきた時間に決着をつける。

 今まで暮らした山梨は、もう東京から足を伸ばして行く場所で、帰る所じゃない。小熊は八王子の大学に行くため、この町田に住み始める。椎も紀尾井町の大学生になり、礼子は海外に旅立つ。

 明日から三人は違う世界の人間になる。小熊と礼子と椎。山梨で出会い、共に時間を過ごした関係は、今日で終わる。

 

 昨日ここに来る道中で買ったトマト二個に、礼子がキャンプ用具にいつも入れている塩をつけて食べた。椎はマヨネーズを塗ったトマトにかぶりついている。相変わらず食べ方の汚い椎の口元を拭いてあげようとしたが、椎は旅行バッグからタオルを取り出し、自分で拭いている。

 バイク便の知り合いから聞いた猫の話を思い出した。普段は飼い主やその家族に懐いている猫は、誰かが結婚や転勤で家を出る日が近づくと、居なくなる気配を察してその人間を遠ざけようとするらしい。


 食べきったトマトのヘタを窓の外に弾き飛ばした礼子が、出発の準備を始める。昨日広げた荷物を自分のカブに積むだけ。何の手間もかからず、時間稼ぎも出来ない。

 まだ暗い空が白み始める前、小熊と礼子、椎はカブに乗って町田を出た。

 普段は早朝の冷えた空気を吸うと調子のいいカブが、今日はなぜか重い。


 町田市北部からまっすぐ北上し、国道二十号線に出ようと思った小熊は、国道二十号と都道二十号が交差する紛らしさのせいか道を間違え、少し時間を浪費した。

 一度山梨に帰って、世話になった人たちに挨拶をする。小熊は自ら言い出した事を自分で渋っていると思いたくなかった。心の中に沸いて来そうな気持ちを押さえ込むように、山梨に向けて走る事に集中した。


 普段は積極的にスピードを出す礼子も、今日は動きが鈍い。仕事を終えて仮初めの町を去るガンファイターのように、静かに山梨を出る事を望んでいた礼子は、その通り有言実行したにも係わらず、今さら出戻る事を、とてもかっこ悪いと思っているらしい。

 柔軟な判断と他の車をうまく利用する動きで、都会での走りが上手い椎も、今日は大人しく小熊や礼子の後ろについている。


椎とそれなりに一緒の時間を共有してきた小熊には、仰々しい別れを嫌っている事くらいわかる。椎は決定的な言葉を避けている。自分から別離の区切りを付けない曖昧な終わりにしようとしている。それが山梨に対してなのか、明日から別の世界で生きる自分と礼子になのかは分からない。


 小熊も、自分の走りはいつもと変わっていないと思っていたが、今日はやたらと信号に引っかかる。今走っている道をどう走ればいいのかわからない。過去に何度も東京まで来た時、甲州街道の下りは我が家へと向かう、走り慣れた帰路だった。今は町田にある自分の家から離れ、何か用が無いと行かない他県への道という意識だが、体は出先から地元へと帰る走り方になってしまい、ちぐはくになる。


 音楽もお喋りも無く走り続けるバイクツーリングの暇に任せて、小熊はしばし考えこんだ。自分は山梨に行きたくないのか。山梨での時間を終わりにしたくないのか。今から行ったところで、世話になった人は何人か心当たりがあるが、面倒な愁嘆場を演じるような相手など居ない。行って、挨拶回りをして帰る。ただそれだけのノルマを消化するだけならば、さっさと済ませて心置きなく東京での暮らしを始めるべきだろう。

 東京から山梨。これまで何度もカブで走った道が、今日は重かった。

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